メシヤ講座・特選集no.21(平成14年10月分)

「伊都能売観音」様
入仏記念式典での挨拶(要旨)

入仏式(昭和10年)について

メシヤ教立教(当時は大日本観音会)直後の昭和10年1月7日に観音様の申し込みがあり、同年10月17日に御下付されています。この地(札幌市定山渓)で「入仏式」が開催されて、御奉斎されたのが同26日のことです。申し込みされて御下付まで十月十日ということは、意義深い数字です。

申し込みをされた方は定山渓地方の道路建設などを担当された地崎宇三郎氏で、あまりにも厳しい自然の前に犠牲となる作業員の数の多さに心を痛め、‘厳しい自然を和めて犠牲者が減ずるようにしていただきたい’と願って観音様を申し込まれたと言われています。

まさにその願い通り、今このように素晴らしい温泉地が開け各峠道も立派に開通しています。また同時に、北海道全体の環境も変化し、癒しの楽園と思われるような景勝地が道内各地に生まれています。「伊都能売観音」様の御守護のお蔭だと感謝に堪えない訳です。

深く高い大御恵みを垂れてくださる御前に、本日ここにこうして参集できましたことを感謝申し上げます。

「伊都能売観音」様の御本体は伊都能売神皇

さて、伊都能売観音様の御本体は、と言いますと、伊都能売神皇と理解させていただいたら宜しいかと思います。伊都能売神皇につきましては「仏教の起源」のところでメシヤの教えを紹介致しましたので、ご記憶を遡っていただきたいと思います。「三千年来の罪穢れ」の源に関わることですね。

『神代において、素盞鳴尊が渡来され伊都能売神皇の地位を狙って要望したが、容易に応諾されないため、威圧や迫害等から進んで遂に生命にまでおよんできたので、急遽御位を棄てられ、変身によって眼をそらし、密かに日本を脱出し、インドに落ち延びた。

そして、観世音菩薩の御名によって当時インド南方海岸にある補陀落迦山に清き館を建てられ安住せられた。この事は悲華経の中にある。曰く‘観世音菩薩は補陀落迦山上柔らかき草地の上に、二十八部衆を従え、金剛宝座に結跏趺坐して説教をされた。云々’とある。

当時まだ善財童子という御名であった若き釈尊は、この説教を聴聞して、その卓抜せる教えに感激とともに心機一転し、皇太子の御位を放棄し、一大決意の下に修行三昧に耽った。そうして行成り出山するや、愈々釈迦牟尼如来として仏法開示にとりかかられた。

故に、実際上仏法の本当の祖は、日本の伊都能売神皇であったことは確かである。』

という教えです。お話致しましたのは一昨年の12月のことです。

神皇の想いと経綸

当時の伊都能売神皇の想いは如何ばかりかと思うのですが、神皇は絶対平和主義でありますので戦いはされておりません。『この地を天国に出来るのならばしてみなさい』ということではなかったのでしょうか。

ところが、天国づくりどころか国情は乱れて、その隙に天孫降臨があり、闘争、対立が繰り広がれることとなってしまいました。しかし、これには深い仕組が背景にあります。それは、物質文明の発展です。善よりも悪が栄えるという理不尽な時代の色を濃くする中、人類は物質的豊かさを生む知恵を磨くことになったことは自明の通りです。

因みに、物質の「物」はブツであり「仏」に通じ、仏滅が到来するまで「物質偏重の時代」が続くとされています。そのために、メシヤの教えでは仏滅を良いことだと教えている訳です。

また、「善より悪が栄える時代」が続くと、真理を見失い堕落し人類は滅亡する危険性があります。その為に各宗教が創られ、人類に良心を持たせ続けると共に、世界の霊的中心地である日本を邪神から護る為に種々神事が行なわれました。それが各宗教の背景ですし、様々な清浄なる霊場の背景です。

仏滅の時期

それでは「仏滅」は何時到来するのか、ということが最大の関心事になります。仏滅の意味は、『伊都能売神皇がインドへ落ち延び給うた時に日本古来の神々は化身仏になられた。故に仏滅とは化身仏となられた神々が本来の神位に戻られるということ』と教えにあります。

時期についてはメシヤ教の変遷が大きなヒントになります。『神格の向上』という教えと併せて考えていただきたいのですが、「観音教会」と称していた当初は祝詞の最後に神名を唱えずに、「念被観音力 念被観音行 念被観音心」と唱えていました。

そして、昭和25年2月4日メシヤ教と改称された折り、『開教の辞』と題して『一言にして言えば仏滅を意味するのである。したがって、観世音菩薩はここに仮面を脱いで、御本体である神の御働きとなり給うのである。』と述べられています。

この時が本来仏滅であるはずなのですが、それを阻止する働きも大きく強く、弟子達の不始末で「法難」に遭遇し、御神務の停滞を余儀無くされました。また昭和29年6月15日『メシヤ降誕仮祝典』が斎行されたままになっています。私が『メシヤ教』の呼称によって活動する理由はここにあるのです。

しかも、こうした経緯を踏まえるからこそ、『メシヤ教教義』に則って現在の御神体を仰ぎ奉っているのです。

宗教の役割

今世界は秩序ある方向へと向かいつつあるように映じていますが、恒久平和ということでは程遠いものがあります。様々な要因、遠因によって混迷を深めている様相です。次のように述べる専門家もいます。

‘一神教が世界の秩序づくりをリ-ドするのでは、一神教は他の宗教を認めていないがために必然的に争いが起こる。縄文時代の宗教は多神教的で、だからこそ他の集団に対して寛容である。’

伊都能売神皇の時代の考え方、思想を想い出すことは大きな意義を見出すのではないか、と気付き始めている人も増えているのではないでしょうか。この機会に「信仰読本」の『宗教について』という項を再読していただけば、私の意とするところをご理解いただけると思います。

現代人は発展を遂げた物質文明を享受していますが、精神文明の根本である‘本来の宗教’を忘れています。そのことが、人類の大小様々の諸問題を発生させています。細論は別の機にお話するとして、根本的なことを再認識していただくことを強く願っています。

そして心新たに御神業に臨ませていただきたいと祈ります。その行動、行動を支える願い、願いの中心にある祈り、というものは霊線を通じて大きな好影響を人類に及ぼして参ります。

(今回は、質疑応答を割愛いたします。)

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