メシヤ講座・特選集no.62(平成18年3月分)

<御教えより>
医学試稿

(1939年文創のまま)

第一篇  森羅万象の構成

霊と体

前述の如く、物質及び空気は、何れもその存在を捕捉し、確認せらるるのであるから、空気と雖も物質として扱はるべきものであるから、無と同様の存在である。霊気と対照してみる時、一の霊と二の体と区別してみると、霊と体とになるのである。然るに、此(この)無と想へる霊、即ち、霊素なるものが物質を自由自在に左右するのみならず、万物を生成化育し、生物の死生も自由にし、人の運命も国家の興亡も社会の変転も、世界の争乱もその尽くの根源が、之によるといふ事を識る時、実に驚歓の外ないのである。故に人は、霊の存在及び霊界の実体を知識する事によって、人生観は一変して真の幸福の第一歩を踏み出す事になるといふ事も過言ではないのである。何となれば、人生の幸福の最大条件たる健康の真諦を、根本的に把握せ得られるからである。

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「景仰」を如何ように拝読するか(3)

メシヤ教  楳木和麿

はじめに

信仰生活とは、いったいどのようなものでしょうか。

どのような心を持ち、どのような言葉を口にして、どのような行動を取ってゆくことなのでしょうか。人として真の幸福を得てゆくには、どのような生活を積み重ねたら良いのでしょうか。

メシヤ様は絶対的な真理をお説きになられながらも、『それを採用するかしないかは相手のご随意である』という姿勢を貫かれ、無理強いをされませんでした。これは絶対的な自信に裏付けられたお姿であり、そこにこそ、メシヤ教における信仰生活の規範を拝することができます。

『みんな光だ』の項

≪本文≫

いつでしたか、何をしている時か忘れましたが、明主様(メシヤ様)は、『日常生活の小さい事柄でも、私に関することは、みんな光なんだから、なるべく多くの人に話してやりなさい』とおっしゃられたことがあります。(側近奉仕者)

≪解説≫

『何時だったのか、何をしていた場面だったのか、を忘れてもらっては困る』というお声が聞こえてきそうな文章です。

今回は、この文章の前掲『御教えの実行者であられた明主様(メシヤ様)』(側近奉仕者)と併せて学ばせていただきたいと思います。

『わたし自身に守れているかどうか』

この項には『おまえたち側近者は、出来るだけわたしの日常生活を信者に知らせる義務がある。なぜなら、わたしがつねに信者に言ったり、教えたりしていることが、わたし自身に守れているかどうか、おまえたちの目でたしかめて、ありのままを書けばいいのだ』というお言葉が出てまいります。

メシヤ様ご自身が御教えの実践者であられ、しかも結果的に自信の塊(かたまり)のようなご日常を送られていたことがよく判ります。御教えの拝読の仕方が別項に出てまいりますが、そのことをご自身が率先垂範されていたのです。

『みんな光だ』と仰ったことは、ここにあると拝察されます。ご自身がお説きになり、ご自身が第一の実践者であられた。そのことが天国天人のお姿であり、真の幸福者像であり、日常茶飯事が『光』そのものなのです。

そういうことから、信仰生活の規範を求めることにおいて「景仰」は実践事例の宝庫です。その宝を私達は生かしてゆかねば、勿体ない訳です。私達が読み違いをしたり、取り違いをしたりしてしまいますと、宝の持ち腐れになってしまいます。

その意味では、前回も指摘したように編集の工夫が必要だったのですが、今となっては拝読の仕方を工夫するしかありません。そして、鏤(ちりば)められた輝きを我が物としていただきたい、と願います。

「教・論・律」の範を示されている

私達が『みんな光なんだから・・・』というお言葉の字面(じずら)に囚われてしまうと、取り違いをしてしまいます。ここでは、『私は時に応じて説く。まとめるのはきみたちだ』(教会長)というお言葉を重ねて考えておきたいと思います。

メシヤ講座の中で「教・論・律」について触れてきましたが、この考え方は実はここから来ております。

メシヤ様は、御教えを口述筆記されました。その模様は『スイッチを入れたテ-プコ-ダ-のように』(側近奉仕者)と記述されております。生き神様だからこそ、あり得ることであります。そしてその内容は「神様のお言葉」そのものです。

口述筆記されたお原稿は、『多い時は二十回以上も推敲に』(管長)とありますように、何度も朱を入れられ、原稿用紙は真っ赤になっていたそうです。『どう表現したら、もっと信者にわかってもらえるだろうか』(側近奉仕者)と心を砕かれたそうです。

口述された内容そのものは「教」です。そして、推敲されて人々に解り易くするために何度も手直しされてできたお原稿が「論」です。その時代に生きる人々が理解し易くなるように時代性を加味されて、添削されたものです。

そして、御自らが御教えの実践者であられたのです。その実践が「律」なのです。それこそが、私達における信仰生活の鑑そのものなのです。ですから、時の指導者は、絶えず「論」の展開に心を注ぐことに懸命に取り組み、尚且つ自ら実践者たるべく努めなければならないのです。

信者は、その後ろ姿を見て、共に実践に取り組むのです。

教団帰一が自然に生まれる道

こうした組み立てを積み重ねてゆくことが、後人の役割なのです。岡田茂吉教祖を戴く教団は、大きいもので十五教団ありますが、お互いがこうした取り組みを重ねてゆけば、やがて自然と一つになってゆく道が生まれると思われます。そうなれば楽しみなことです。

≪問題解決するための留意点≫
体験記に学ぶ

前回に続き体験記を通して「問題解決」を図る具体的な手法を紹介いたします。体験者の赤裸々な報告に感謝しつつ、学びの一助としていただければ幸甚です。

体験記・3回続きの2回目
『毒と神様は舐(な)めたらいかん!』

大分県日田市  久民広喜

自分の心の底にある深い癖に気付く

前回の体験記の終わりに父や弟、妹からさじを投げられた状態になったことを記述いたしました。問題を起こした私は、数ヶ月間一般社会から隔離された時間を過ごすことになりました。

現実のことから逃げ出したいがために、後先考えずにやってしまい、今思い出すと「何とバカなことをしてしまったのだろう」と思うばかりです。しかし、父や妹は会いに来てくれました。そして、楳木先生も時間を割いて自分のこれからのことを心配してくださり、色々と手を打ってくださいました。

「自分は、今まで何をしていたのだろう。何か問題を起こすたびに親や妹に尻拭いをしてもらい、自分の力で何一つ解決できていない」と思い、涙が止まりませんでした。

時には父と妹夫婦に深い溝ができたこともあったそうで、それも全て自分の起こしたことが原因でした。

元の生活に戻ることができた時の、あの喜びは今でも昨日のように覚えています。学校から帰ってくる息子を外で待ち、顔を見た時は何も言葉が出ませんでした。ただ心の中で「ごめん。お父さんがバカやった」と謝りました。

「自分を変えて行くには、どうしても楳木先生の助けが必要だ」と、自分を振り返った時にそう思いました。自分の心の底にある根の深い癖に気付いたのです。また、少し順調に行き始めると「自分はもう大丈夫だ。面談など受けなくても良い」と思うこと、また、人様から見ると全くできていないのに「でき始めた」と勘違いすること、それらが過去何度も繰り返されました。

調子が良くなると安心してしまい、約束したことに対して手抜きをし、それを問いただされると言い訳ばかりしていたと思います。

観念せざるを得ない決定的な出来事

それがいよいよ崖っぷちに立たされたのです。いや、立たざるを得ないようなことを平成16年8月にやってしまったのです。

約束を破った重大なことが明るみに出たのです。この時ばかりは、それまでは色々あっても面談を続けてくださった楳木先生からも「自分で選んだ道だから自分の思うように進みなさい」と、冷たく突き放されました。この時初めて自分はどうして良いのか判らなくなりました。

面談の継続を保留にされたまま、自分の意思で面談を続けていただく条件を提示させていただきました。一度ではダメでした。条件と言っても、今までお約束したことと内容は変わらないのですから、心底悔い改め、心から誓いを立てるのかを問いただされたようでした。

それまで、全く、私は舐め切っていたのでした。それがこの結果だったのです。崖っぷちに立って、「自分は本当にダメな人間だ」、「このままダメな人生で終わってしまうのか」ということを初めて考えました。

了解していただくまでにはしばらく掛かりました。

了解していただく頃から自分の中に変化が起こりました。実は、「禁酒」「禁煙」ということも約束していたのですが、それも守りきれていませんでした。また、不思議なことに隠し事が悉(ことごと)く明るみに出てしまうのです。見えない「目」が光っていることを、つくずく判からせてもらいました。

「毒と神様は舐(な)めたらいかんよ!」と、何か約束を破るたびに先生から言われていましたが、そのことが身に沁み、観念せざるを得ませんでした。

やっと「面談」の意義が肚に落ちる

自分が生まれ変わるには、自分で設定した課題を守り抜き、周囲の信頼を得てゆかねばなりません。真剣に取り組む決意を固めた時に、嫌々やっていた掃除などの取り組み方にも変化が起こりました。

楳木先生から面談の中で、「人間として生きてゆく中で、掃除というものは最低限やらなければならないことである」と、何度も言われてきました。しかし、それまでは自分の中で「どうして自分だけがここまでしなければいけないのか」と不満ばかりでした。

また、面談を重ねて行くうちに、指摘された意味がようやく少しずつ解るようになりました。「自分を変革するためには、約束したことはどんなことがあっても守らねば、後悔する。今の自分は、過去を振り返りながら反省することを忘れずに前進して行かねばならない。二度と同じ過ちを繰り返してはならない。繰り返せば明日はないことを肝に銘じて過ごして行こう」と考えられるようになりました。

仕事のこともノ-トに書いて楳木先生からアドバイスをいただき、順調に行き始めました。目標というものに少しずつ近づき、自分の中にやり甲斐を感じるようになりました。

体験記を書きながら、「どうしてあのようなことをしてしまったのか」、「あの時に何故もっと真剣に自分を見つめ直すことができなかったのか」と、後悔するだけですが、その当時は、そこまで考えることができなかったのです。今、どうにか考え方が改善されたので、過去をそのように振り返ることができるのかもしれません。

面談を重ねることにより、「人生に目的を持ち、それに向かって生きることがこんなに素晴らしいことなのか」を教えていただいたような気がします。(以下は次回)

≪学び≫

基本的な問題

まず、金銭トラブルを起こす根っ子には「金を持つことの不安」というものがありがちです。それが前世に起因するものならば、例えば金を持っていたがために生命の危険に出会ってしまい、しかも霊界で浄化不十分の状態のまま再生してきた、ということが言えます。ですから、全て使ってしまわなければ気が済まない訳です。

一方、胎児から幼児期に掛けての育てられ方に起因するならば、例えば長男として生まれたことによって、その才能に関係なく何事においても最上の待遇を受けてしまった。そのために勘違いを起こしてしまいます。やがて現実とのギャップに悩み、底知れぬ欲求不満を抱え、それを晴らすために問題を起こすことになります。こちらは、使っても使っても気が済みません。

そして成長と共に養うべきであった自覚いうものがあるのですが、残念ながら部分的な自覚に留まったのです。親元を離れると、箍(たが)が緩み、やがて外れてしまうことによって問題を引き起こします。こちらは、痛い思いをみることにより反省し、自己教育に取り組めば克服できます。

しかし、前述の二つのケ-スはエンドレスで続くことが多いですので、浄霊によって魂を浄めていただきながらの取り組みが必要です。因縁を解消しながら、新たな曇りを発生させないような生き方を学んでいただかねばなりません。

自己変革をするためには、以上のようなことが自分に影響を及ぼしていることを、まず理解することから始めなければなりません。知識として理解することから始まり、確認することを反復し、肚に落ちるところまで根気よく続けます。

当初の面談での出来事

面談を続ける中では、約束事が守られないことがあります。本人は繕(つくろ)っているのですが、周辺に起きる事象からウソをついていることが判明するのです。

そんな場合、ほとんど子供の姿に現われてきます。心が揺れた分だけ、熱が出たり、学校で奇矯な行動をとったり、ということが起きてしまいます。また、久民さんの場合、原因は自分にあるのだけれども離婚は受動的なものでした。それ故に、前妻に対して未練が残り、例えば電話などで優しい言葉や励ましの言葉を掛けられると心が揺れました。

何か起きる度に原因を明確にして、自らをより客観視できるように仕向けて差し上げなければ理解は深まりません。また、ご本人が告白した「勘違い」が、絶えず顔を出します。それをその都度指摘して上げねばなりません。現実的には辛いことではあるのですが、それをまず自覚するところから始めなければ、前に進むことも後へ下がることもできないのです。

もともと問題を起こす原因は、事に当たる一歩目の踏み出しに些細な誤差があり、時間の経過と共に大きな間違いの結果を生むことになります。たとえば、ゴルフでクラブのグリップを1mmずらしてスイングすると100m先では1mのずれを生じるのと同様です。これにスライスやフックが掛かりますので、散々な結果を生んでしまいます。

また、見切り発車をしてしまったということもあります。‘これは少し違うのではないか’と思っても、修正せずにスタ-トを切ってしまうのです。結果は見えています。現状認識の甘さです。

前に進むことも後へ下がることもできない状況にある中にいる人に対しては、問題の出発点まで遡(さかのぼ)って考えてもらい、問題発生の源を自覚させて上げます。源が判明すれば、解決の糸口が判り、解決への道を見い出して上げることができます。そして、正しい方向へ一歩踏み出す後押しをして上げるのが、お世話の重要なところです。

面談の継続で起きること

本人がおぼろげながらも神様にお祈りするようになり、また仏壇へも心から手を合わせるようになって行った時、本人が気付いたように『毒と神様は舐(な)めたらいかん!』ということに遭遇します。

神様という存在については『理屈が合えば愛ですが、そうでなければどうしようもありませんよ』というお言葉があります。そのことを身に沁みて解るようになります。それが「観念せざるを得ませんでした」という真情の吐露になるのです。

そのようにやがて意志が固まり、それが継続されてゆけば、見る見るうちに変化します。

そうしてこうした変化の背景には、家族の見守りがあります。久民さんにとって幸運だったのは、信仰心の篤い妹さん夫婦が傍でず-っと見守ってくれたということです。口を出すが手を出さないという方が多い中、妹さん達は絶えず汗を流し、時に泥をかぶりながら支えてくれました。

また、祈りが強い分、妹さんはしばしば久民さんのウソの現場に出くわします。その度重なりで、久民さんは次第にウソをつけなくなるのです。これが、神様の存在、先祖の見守りを実感してゆく大きな要因となり、意志の形成へと導いたのです。

次回は「御守護の前渡しと精神のバネ」

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