メシヤ講座・特選集no.68(平成18年9月分)

<御教えより>
医学試稿

(1939年文創のまま)

第二篇  病気

文明人の滅亡

○年○月○日発行の内閣週報、左の如き統計が出てゐる。
(新聞記事不明)
右(上記)の如く、文明国の人口は近年に至り、驚くべき衰退の方向に嚮(むか)ひつつあって、英国の如きは、西暦千八百年頃は一ヶ年百弐十万の増加を見たのが、今日では弐十万に低下し、年々減少しつつあって、英国の統計学者○○氏によれば、千九百五十一年からは、増加率は全く消え、減少が加速度的になるといふ。又、仏国は真の減少に向ひつつ右(上)表の如く、最近は千人に就き三人半といふ事になっており、独逸の如きですら十年以前の○○率に較べて、約半減してゐるにみて、医学の進歩とは伴はない反比例の現象は、不可解極まるべき事である。之等の現実に対し、其(その)原因を発見し得ないが為独、伊、我日本も二義的な結婚奨励や出産保護等の方策を採るより致方ない現状である。

今一つの事実を述べてみよふ。先年独逸に於けるオリンピックの競技中、競技の眼目たるマラソンに於て、一等の栄冠は、朝鮮、孫基禎(ソンギジョン)の手に落ちたる事実、又、昨年度日本に於ける体育大会に於て、重量挙げの競技が、一、二等共朝鮮人であり、又同年の福岡大阪間に於ける駅伝競走に、朝鮮、台湾組が贏(か)ち得たる如き事実、又、満州の苦力(ク-リ-)が、その労働力に於て驚くべき強靭で、到底日本人は敵し得ないといふ事実、又、之は、事実ではないが、推定として支那人の出生率は、千人に就き四十弐人、印度人は、三十七人、日本人が昭和拾三年文明国中第一位の高率であるといふ廿六人に数等勝ってゐる事実、之等は何を物語ってゐるであらふか。今に於て、此(この)原因を発見し得ないとすれば、私は千年を出でずして、文明国人はついに滅亡するであらふ事を信じ得ない訳にはならないのである。然るに、幸い哉、私は此(この)根源を発見し得たのであるが、其(その)根源が余りにも意想外なる事実で、之を知識せずに於て到底信じ得られざる原因に如何なる人も驚嘆するであらふのである。

*     *     *     *     *

「景仰」を如何ように拝読するか(8)

メシヤ教  楳木和麿

はじめに

私達は、自他共に救われてゆきたいと願っております。

相手が救われ、自分も救われてゆく在り方を模索する時、メシヤ様がご在世中に全て身を持って示されていることに気付きます。

そのお姿を鑑として、自らの日常生活にそれを取り入れてゆけば良いのです。この至極簡単なことが判ると、身も心も晴れやかになります。

そのためには、メシヤ様の実像を探究することが必要になります。私達の胸中に実像が鮮明になれば、私達の在り方はより明確になります。

『逼(は)ってでも来なさい』の項

≪本文≫

昭和二十一年五月、私が箱根のご参拝に行って倒れて動けなくなった時、明主様(メシヤ様)から『鳥の家(とりのや―箱根参拝時の信者休憩所)に泊めてやれ』とおっしゃっていただきまして、泊めていただいたんです。

その時の病気は、以前に医者から手を切られた時の症状と同じで、あまりひどいので、お側の人が明主様(メシヤ様)におきき下さったのです。“あの人はどうでしょうか”と、すると明主様(メシヤ様)は、『あれはほんとうはだめだ。しかし、神様の口元(くちもと)の御用をしているから死なせられない。あれが死ぬと私は困る』とおっしゃったそうですが、その当時、お米の御用をわずかにさせていただいておりましたのを、お取上げ下さったんです。

その翌日、『浄霊をしてやるから来い』とおっしゃっていただいたんですが、苦しくて行けないような状態なんです。それで、“うかがえないような状態だ”と申し上げていただいたら、『逼(は)ってでも来い。来なければしてやらん』というお言葉です。

それで、“よし、明主様(メシヤ様)が、来ればしてやるとおっしゃるんだったら行くんだ”と、二、三歩あるいては立ちどまり、二、三歩あるいては立ちどまりして行きまして、ご浄霊をいただきました。その時、『苦しい時はいつでも来い』とおっしゃっていただいて帰りました。

その夜中の二時すぎ、どうしても苦しいから、介抱して下さっている人に頼んで、お願いに行っていただきました。明主様(メシヤ様)から、『すぐ来い』とおっしゃっていただいて、夜中ですが行きましたら、明主様(メシヤ様)は御神体をお書きになっておられましたが、すぐにやめて、私にご浄霊をして下さいました。その時、『おまえ、甘いものをたべたいだろう。ここはなんでもあるんだから、たべたいものを言えよ』とおっしゃって、大きなおまんじゅうを下さいました。その時のうまかったことは忘れられません。

また、寝ているとき、『これをやれ』とご自分のお食事の中から、一品(ひとしな)ずつ抜いてお届け下さるんですが、その時いただいた数々のご慈悲のありがたさは、生涯忘れられません。(布教師

≪解説≫

羨ましくも素晴しく有り難い言葉の掛け合いですね。臨場感あふれる一文に、胸が熱くなります。

メシヤ様の御心と記述者の取り組みがよく伝わってまいります。その中から私達の信仰生活に何を取り入れたらよいのでしょうか。考えてみましょう。

神様から認めていただけることの幸せ

メシヤ様から『あれはほんとうはだめだ。しかし、神様の口元(くちもと)の御用をしているから死なせられない。あれが死ぬと私は困る』と、仰っていただけることが素晴しいと思います。

どのような形の御用をさせていただくにしても、『あれが死ぬと私は困る』と神様から仰っていただけるような人間にならなければならない、と強く思わされます。また、『神様から信用される人間に』というお言葉も重なって思い出されます。

御教えに『誠が一等』とありますが、記述者は、さぞかし誠のある御用奉仕に取り組まれていたのでしょう。その誠に対して神様が温かい御心を注がれたのだ、と拝察できます。そうしたことを学びとさせていただき、私達も尚一層誠を込めて御神業に取り組ませていただきたいものです。

救いを求める際の姿勢

また、この文章には大変重要なことが含まれております。それは『逼(は)ってでも来い。来なければしてやらん』というお言葉です。

神様に救いを求める際の姿勢は本来そういうものだ、ということをお示しになられた場面であると拝察されます。何事によらず神様に求める際には、私達自身に絶えず問いかけねばならないところです。

「二、三歩あるいては立ちどまり、二、三歩あるいては立ちどまりして行きまして、・・・・・」と記されているように、只ひたすらに何がなんでも求めてゆく、という姿勢が重要なのですね。

この記述者は、後に教団幹部になった程の人ですので、メシヤ様が将来‘人の上に立つ者’の求道の姿勢を強く質(ただ)したのだと拝察できます。私達も道を求める者として肝に銘じておかねばなりません。

救いの手を差し伸べる際の姿勢は

しかし、神様のことを良く認識していない人に救いの手を差し伸べる際は、以上のことを相手に押し付けて良いものではありません。メシヤ様が別の人に対して、身を挺して取り組まれた場面もあるからです。

別項の『もったいなさに土下座してしまう』では、メシヤ様の別のお姿を拝することができます。その項には、ご自身のお子様の具合が悪くなったことを奉仕者の容態と聞き間違えられて、熱海市の清水町から碧雲荘まで奉仕者のために息せき切ってお出でになられたご様子が記述されています。

これは、人を救う際はどこまでも手を差し伸べ、どこまでも自ら汗を流す、という姿勢が大切であることをお示しいただいたものと拝察されます。『逼(は)ってでも来い』と仰られたお姿とは全く異なります。

前者の記述者は将来幹部になられた程の人ですので、求道の姿勢を問いかけられ、後者の奉仕者には身を挺して救いの手を差し伸べられようとされた訳ですね。メシヤ様のお姿は千変万化です。相手に応じて説かれ、相手に応じて行動されていたことが、随所に拝見できます。

私達は、画一的にメシヤ様を拝するのではなく、また、短絡的に御教えを引用するのではなく、‘この場合はこうされた’‘あの場合はああされた’というように多様に対処されたお姿を拝しておかなければなりません。つまりは、冒頭述べましたように、メシヤ様の実像をしっかりと探究せねばならないということです。

因みに、人を救わせていただいたり、お世話をさせていただく際には、「泥をかぶる」という覚悟がなければなりません。人間の弱点の一つに「手柄話をしたい」ということがあります。しかし、それに流されますと本筋から逸(そ)れてしまいます。

私達はメシヤ様から偉大なる御力をいただき、メシヤ様の手足として御神業を担わせていただいているからこそ、結果を許されているのです。これからもメシヤ様の実像を探究し、御姿を範とさせていただいて実践し、着実な足取りで歩ませていただきたいものであります。

 

Q&A

メシヤ様の御心を受けての御神業

Q. 前回、前々回のメシヤ講座・特選集において、メシヤ様が私達に大いなる示唆をお与えくださっていたことが判らせていただきました。具体的にはどのような想念を持って御神業に臨めばよいのでしょうか。

A. 御神業に臨む意義は、『メシヤ様のご悲願達成にお尽くしする』ということです。

ご悲願とは、『可能な限り全人類をお救いする』ということがまずあります。お救いする行為とは、心身の病気の快癒に寄与したり、問題や悩みの解決を計るなど多種多様な取り組みです。そのことにお尽くしさせていただきます。

そして、健康を許された人が健康を維持し、問題解決を許された人が同じ問題を繰り返さないように、お世話に取り組むということが次にあります。それらを総じて『救われた人を天国天人となるように教え導く』ということです。そのことにお尽くしさせていただきます。

また、そうしたことを累進的に積み重ねて何を目指すのかと言いますと、『この地上に天国を樹立する』ということです。そのことにお尽くしさせていただきます。

それ故に、『地上天国を建設するために、神様の命によって生まれた』というご自覚をそれぞれ持っていただきたいですね。しかも『天国天人となるように教え導く』というからには、自らの「座」に対する努力を怠らないことが求められます。

究極的な想念としては、『自分の生命は自分だけのものではなく、メシヤ様と共にあって、メシヤ様のためにある生命なのである』ということになります。このことを信じる人が放つ意念、このことを信じる人が放射する光、このことを信じる人が発する言動が一人ひとりの魂を浄め、一人ひとりの問題を解決し、一人ひとりの存在に自信を与えます。

衆生済度の在り方

Q. 御神業の中心は、人様をお救いする、ということであると考えますが、どのように取り組ませていただいたらよろしいのでしょうか。

A. 問題を起こす、悩みを抱える、ということは『霊の曇りが原因である』と御教えいただいておりますから、そこにどう取り組むかが『救い』である訳です。

私達は浄霊という絶対的救済力を授かっていますので、まずそれを行使すればよいのです。現代は非常に取り組みやすい社会になっておりますので、気軽に実践させていただけば良いと思います。

取り分け、最先端の学究に精通していればいる程、浄霊力の存在を認めざるを得ないようになるものです。現在、そのような人が増えている時代になっております。草創期よりも数段容易に取り組めるのではないでしょうか。

ところが、気を付けねばならないこともありまして、時代苦が複雑化しているということを念頭に置かねばなりません。

草創期と異なり、時代の精神が大きく変容しております。よく取り沙汰されますのは、自己犠牲よりも自己充足を美化する風潮です。たとえば‘癒し系○○’という言葉が氾濫していますが、癒されることばかりが求められて、人を癒してあげる実践というものが論じられていません。

また、現代人は、物質偏重の社会に生きて、きちんとした躾や教育を受け辛い環境で成長してきたために、霊の曇りが発生しやすい生活状況にあります。たとえば、嘘をつかない、人に迷惑を掛けない、自分のことができたら人の手伝いをする、という成長過程を辿るように躾を受けてない人が多くなっています。そのため、霊は浄霊をいただくことによって浄めていただけるが、生活の中でまた霊が曇るということが生じてまいります。

浄霊で霊の曇りを解消しつつ、再び霊の曇りを発生させないような生活を送るようにお世話してゆかねばなりません。曇りの発生源に対処して、根本的に生活の在り方を修正していかねばなりません。そしてより良い生活を送れるようにお世話いたします。そうしなければ真の救済とはなりません。

『精神』を求め、実行に移す

Q. 「精神」の重要性を痛感させられます。以前「明主様(メシヤ様)のご精神を現代に求める」という先生のご本で、‘なるほど’と思わされました。

A. 御神業に取り組ませていただこうと思えば思うほど、「メシヤ様のご精神を現代に求める」という姿勢が不可欠なのです。

ご精神は、何時もお話いたしますように「利他愛」、「合理性」、「即時性」です。「利他愛」は説明の必要はありませんね。

「合理性」は、『神様というのは、理屈に合えば愛ですが、合わなければどうにもなりませんよ』というお言葉で判らせていただけます。質疑応答の随所に「理屈に合う」ことの重要性を滲(にじ)ませておられることからも、物事の判断基準を「合理性」に置かれていたことが拝察できます。

「即時性」は、‘今日、ただ今、やるべきことをすぐやる’というご姿勢をメシヤ様は一貫されていたことから拝察できます。メシヤ様は、青年期に小間物屋を開業された時、毎日お店の掃除から一日の業務をスタ-トされていました。そして、教祖となられてからも、深夜の終業時の「火の始末」はご自身でされていました。

日本人には、「精神」というものを重く受け止めることができない癖のようなものがあります。

たとえば、今「親王殿下ご誕生」の祝賀に沸いております。大変清々しい気分にしていただいております。しかし、今になっても「後世のため」との理由で、「皇室典範」の改正を真顔で訴える専門家や評論家がいます。この改正というものは、「法の精神」からすると大変な問題を孕んでいるのです。

新宮様はご誕生と共に皇位継承第三位になられました。それに対して女系天皇を認めるなどとする改正論は、この第三位を剥奪する論議なのです。個人の権利を剥奪する論議というものは「法の精神」に著しく悖(もと)ることなのです。そのことを真顔で論ずる人がいて、それに賛同する人がいるのですから、驚かされます。

話は戻りますが、「メシヤ様のご精神」を重く受け止めてこなかったために、関連(岡田茂吉教祖を仰ぐ)教団は迷走しているのです。この迷走は、夜の時代の「摩り替え」とも通ずるところがあります。ちょっとした嘘も、人から指摘されて嘘の上塗りをしてゆけば、最初は小さいものでも時間の経過と共に大きなズレとなってしまいます。

「迷走の歴史」とも見えてしまう原因は、「メシヤ様のご精神」を求める姿勢の希薄さにあると思われます。当然、メシヤ様の願われる信仰姿勢にはなり得ていません。

昭和25年のご法難もそうした姿勢に端を発したことは言うまでもありません。しかも前回お話いたしましたように、メシヤ様という存在に対して、その御神業を阻止しようとする働きがあり続けています。それは関連教団にも覆いかぶさっており、そのために各教団の志を曇らせ、御神業指針を鈍らせています。

私達は「メシヤ様のご精神」を現代に求め続けると共に、「メシヤ様のご悲願達成」を祈りつつ実践に努め、しかも「曲(まが)の障(さや)り」を防いでゆかねばならない、と強く思います。

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