メシヤ講座・特選集no.72(平成19年1月分)

<御教え>
文明の創造
(文創 昭和二十七年・未定稿のまま)
総篇

序文

此(この)著は歴史肇(はじま)って以来、未だ嘗(かつ)てない大著述であり、一言にしていへば新文明世界の設計書ともいふべきもので、天国の福音でもあり、二十世紀のバイブルでもある。といふのは現在の文明は真の文明ではないので、新文明が生れる迄の仮の文明であるからである。聖書にある世の終りとは、此(この)仮相文明世界の終りを言ったものである。又今一つの“洽(あまね)く天国の福音を宣べ伝へられるべし。然る後末期到る”との予言も、此(この)著の頒布である事は言う迄もない。そうしてバイブルはキリストの教へを綴ったものであるが、此(この)著はキリストが繰返し曰はれた処の、彼の天の父であるエホバ直接の啓示でもある。又キリストは斯うも言はれた。『天国は近づけリ、爾(なんじ)等悔改めよ』と。之によってみれば、キリスト自身が天国を造るのではない。後世誰かが造るといふ訳である。

処が私は天国は近づけりとは言はない。何となれば最早天国実現の時が来たからである。それは目下私によって天国樹立の基礎的準備に取り掛ってをり、今は甚だ小規模ではあるが、非常なスピードを以て進捗しつつあって凡てが驚異的である。それというのも一切が奇蹟に次ぐ奇蹟の顕はれで、人々は驚嘆してゐる。そうして之を仔細に検討して見る時、神は何万年前から細大漏す処なく、慎重綿密なる準備をされてゐた事である。之は明瞭に看取(かんしゅ)出来るが、其(その)根本は旧文明の清算と新文明の構想にあるのであって、私はそれに対し実際を裏付とした理論を、徹底的に此(この)著を以て説くのである。そうして先づ知らねばならない肝腎な事は、旧文明は悪の力が支配的であって、善の力は甚だ微弱であった事である。処が愈々時期来って今度は逆となり、茲(ここ)に世界は地上天国実現の段階に入るのである。然し之に就(つい)ては重大問題がある。といふのは旧文明は当然清算されなければならないが、何しろ世界は長い間の悪の堆積による罪穢の解消こそ問題で、之が世界的大浄化作用である。従って之による犠牲者の数は如何に大量に上るかは、到底想像もつかない程であらう。勿論之こそ最後の審判であって、亦(また)止む事を得ないが、神の大愛は一人でも多くの人間を救はんとして私といふ者を選び給ひ、其(その)大業を行はせられるのであって、其(その)序曲といふべきものが本著であるから、此(この)事を充分肝に銘じて読まれたいのである。

そうして右(上記)の如く最後の審判が終るや、愈々新世界建設の運びになるのであるが、其(その)転換期に於ける凡ゆる文化の切換へこそ、空前絶後の大事変であって、到底人間の想像だも不可能である。勿論旧文明中の誤謬(ごびゅう)の是非を第一とし、新文明構想の指針を与へるものである。それを之から詳しく説くのであるが、勿論之を読む人々こそ救ひの網を目の前に下げられたと同様で、直に之を掴めば救はれるが、そうでない人は後に到って悔を残すのは勿論で、時已(すで)に遅しである。以上の如く罪深き者は滅び、罪浅きものは救はれて、将来に於ける地上天国の住民となり得るのである。そうして来るべき地上天国たるや其(その)構想の素晴しさ、スケールの雄大さは到底筆舌に尽せないのである。其(その)時に到って現在迄の文明が如何に野蛮極まる低劣なものであったかがハッキリ判ると共に、人類は歓喜に咽(むせ)ぶであらう事を断言するのである。

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「景仰」を如何様に拝読するか(9)

メシヤ教 代表  楳木和麿

『名刀を光らすも曇らすも心がけ次第』の項

≪本文≫

本教もまだ初めのころですが、わたくしたちお側(そば)にお仕えしていた者も、明主様(メシヤ様)から治療(浄霊)をしていただきました。どんなにお忙しくても、よく憶(おぼ)えていて下さって、暇(ひま)な時に呼んでいただきました。

ところがお側の者の常として、だんだん慣(な)れっこになり、ちょっとした浄化でもお願いするようになりました。

そんなある日、みんな明主様(メシヤ様)に呼ばれました。そして、『おまえたちには、正宗(まさむね)の名刀を一振(ひとふ)りずつ渡してあるはずだ。曇らせるのも光らせるのも、おまえたちの心がけ次第だ』とお叱りを受けました。

それで、みんなも一変に恐縮(きょうしゅく)して、四、五日のあいだ、だれもお願いしませんでした。

すると、また、お呼出しがあって、みんな伺いますと、『おまえたちはブランコみたいだ。中庸(ちゅうよう)ということを知らない』とおっしゃってご浄霊をして下さいました。(側近奉仕者)

≪解説≫

これは浄霊について述べられていることは申すまでもありません。しかし、武具をはじめ刀などの収集はお嫌いになられたメシヤ様が何故その一つを引用されたのかが興味深いところです。

やはり『曇らせるのも光らせるのも、おまえたちの心がけ次第だ』ということを、当時の環境の中で最も判りやすいであろう、というご判断で引用されたと思われます。努力を怠ること、活用しないこと、を戒めるために鍛錬を必要とするものを引用されたものであろうと拝察できます。

また、生き神様的存在のお方のお側で生活することの難しさもあります。有り難いご存在であることは勿論ですが、有り難いが故に‘命じられるままにお勤めすればよい’という心構えがやがて、創意工夫を怠ることになってしまったり、臨機応変の姿勢を失うことを生じさせたりしてしまいます。

浄霊の思想を解説

「正宗」については『殺人剣、活人刀も想念から』というところでも、次のように解説されています。

『すべて名品といわれるものには、作者の霊がはいるものです。村正の刀が人をよく切るのは、作者が“人を切る刀を鋳(い)る”という想念で作ったからで、正宗は平和を愛した人で、“身を守る刀を作りたい”という想念で作ったのです。だから、自らそこに相違が出て来るわけです。この、身を守る想念が刀に入っているから、守り刀としてはすぐれているというわけです』

そして、左甚五郎の作品などに触れられた後、「それに続いて、ちょっと何気ないように、軽くつけ加えられて、『私が書く「おひかり」もそんなわけです。書く時に、“光でもって世の中の苦しみを救いたい”という神様の御心が、私の体を通じて、つまり霊がはいるんですね』と申されました」と記述されております。

神様の御心というものが何気なく示されているところが、最高位の神様らしいところですし、私たちが大いに注視しなければならないところです。“光でもって世の中の苦しみを救いたい”という御心。それが浄霊の思想であり、人類にとっての最大の恩恵です。

その御心を受けて自分達がどうあるべきかを組み立てねばなりません。『世の中の苦しみを救いたい』という御心が自分にも入ってきて広がっているのか、ということが重要です。また、心ができたということは行動に移していることです。そして行動とは、神様の御心、恩恵を活かしきるということです。

現在、メシヤ様のご神慮を賜わり「おひかり」を掛けずとも浄霊を取り次ぐことが許されるようになりました。この項で表わされた御心が更に進展拡充したことであり、さらに恩恵に浴することができるようになったことで、誠に感謝に堪えないところです。

伊都能売思想の構築

今回は、同じ刀を関連付けて考えさせていただきました。この他、「御垂示録」では、御神業というものは『抜き身の中にいて、スキがあったら切りつけられるという気持ちでなければならないのです。』とも述べられています。刀というものを通して、絶えず自分を磨いていくように御教えくださっているのです。

スキということでは、『いい気になってうぬぼれるな』の項と併せて考えさせていただくと、より肚に入るのではないでしょうか。

このように、拝読する場合、関連付けて受け止めさせていただくとより‘我が物’となります。各項が点として存在し、その点を結ぶと線になります。より多く線を結んでゆくと面になります。この面に時代背景を加味することにより思考が立体化します。これを体系化と言います。

その積み重ねによって、『伊都能売思想』というものを自分の中に構築することができるのです。今回は『中庸』ということも、実に平易にお説きくださっている旨述べられています。『伊都能売思想』の根幹ともいうべきことなので、意義深いところです。

また今回は、「慣れっこ」という反省の弁も綴られています。私達の日常生活でも充分起こり得ることです。肝に銘じておきたいものです。短文ながら、内容の濃い学びをさせていただきました。

<資格者資料>
【教修を取り次ぐということ】
メシヤ教

<意義>

絶対的救済力である浄霊力は、宗派を超えて誰にでも伝授できる時代を迎えた。これは、メシヤ様のご神慮によるものであり、、その恩恵に浴した人々が安心立命の天国的生活を手に入れることは無上の喜びである。メシヤ教を機関として民族、思想、宗派を超えて浄霊力伝授ができることに心より感謝申し上げたい。

浄霊力を身につけるためにメシヤ教へ入会する必要はないが、浄霊力伝授という意義深い取り組みに賛同し、それを支え共に行動し、徳積みを志す崇高な人々もいる。真の意味での「選民」である。その誇り高き人々に入会手続きの説明をすることが「教修」である。

<願い>

メシヤ様のご精神を現代に求め、「時代苦」を救う担い手となり、同時に「時代の中」に活き活きと生きることができる人になるように導く。

<基本的姿勢>

自らの信仰、体験(お蔭話)に基づいて、自らの言葉で誠をもってお取り次ぎする。

<心得>

私達が信仰させていただいているメシヤ教の主宰神は、最高最貴の神様である。メシヤ様は『表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すよりほかないのである』と教えられている。メシヤ教の御神体が定まった所以(ゆえん)でもある。

故に、既成概念で理解することは難しく、「神様のことは、よく解らない」という態度が素直な、正しい認識と言える。私達が「神様」という言葉を発した瞬間に、その存在を限定し、規定してしまう。そして、そのご存在を小さくしてしまう。教修取り次ぎ者に真摯な信仰姿勢が求められるところである。

また、本教は、他のどの宗教よりも神様の存在を実感することができる宗教である。ご発現される御力が絶大であり、前例のない大いなる救いの業があるからである。浄霊である。自信と誇りと感謝をもって取り次ぎたい点である。

ところが、この浄霊の業も既成概念で捉えた瞬間から、その力を限定してしまう。浄霊は無限の力である。いただいた奇蹟を、ありのままに清々しく爽やかにお取り次ぎすることの大切さがそこにある。

浄霊を取り次ぐ、浄霊をいただく、お祈りする、ご奉仕に臨む、御教えを実践する、それらの取り組みの中で、あるいは日常生活の中で絶大なる奇蹟を許され、私達は神様の存在を身近に認識する。その神様が垂れた御教えだからこそ、真理と信ずるのである。「神の言葉」であることを強く認識したい。

その「神の言葉」をお取り次ぎし、お取り次ぎしつつ自らも学んでゆく、ということが教修であるということを心得たい。

なお、教修は、便宜上七講座に分けて取り次ぐことになっているが、出会いを許されて浄霊をいただき説明を求められた時から教修が始まっていると考えたい。その心構えで接することはもちろん、佇まいを整えてゆくことも大切である。場だけでなく、立ち居振る舞いである。

対象者が浄霊を日常生活に活かし、御教え実践を通して人格の向上に取り組むようになるためには、教修取り次ぎ者自らが率先垂範せねば言葉に力は宿らない。

(次回から一講ずつ掲載してゆく。)

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