メシヤ講座・特選集no.77(平成19年6月分)

<御教えより>
医学試稿

(1939年文創のまま)

第一篇  森羅万象の構成

現界と霊界

人間の死とは、肉体から霊が脱出分離するといふ事は、前項の通りであるが、然(しか)らば、脱出の霊魂は何処へゆくかといふと、それは霊界なる別の世界の住人になるのである。であるから、仏語でいふ往生とは“生れ往く”とかくのである。それは、現界から観るから死であるが、霊界から観れば生である。元々仏界は、霊界中の存在である為、生れ往くといふのが当然である。死の前の事を生前といふのも同一の理である。此(この)霊界の実体に就(つい)ては面白いのがあって、私は、永い間凡有る方法を以て研究実験したのであるが、何れ、別に記くつもりであるから、茲(ここ)では省く事にする。

右(上記)に述べたのは、人間に関してのみであるが、森羅万象如何なる物と雖(いえど)も、霊と体とから成立ってゐるのである。生物でない、茲(ここ)にある此(この)火鉢でも、座蒲団でも霊があるのであって、もし、霊が分離すれば、その物は直ちに崩壊するのである。故に凡有るものは、霊によってその形体を保ってゐるので、その一例として、生石と死石といふ事がよくあるが、死石といふのは、霊が極希薄になって、形体を保ち難くボロボロ欠けるのである。又魚や野菜が、時間が経つに従って腐敗したり、味が無くなったりするのは、霊が漸次放出するからである。ただ、斉(ひと)しく霊といっても、物質の霊は霊であって、生物の霊は精霊と名付けられてゐる。

*     *     *     *     *

<神界通信>

『伊都能売神こと明主でありけれ』

メシヤ教  楳木和麿

平成11年に私は「世界救世(メシヤ)教復興運動」を推進するように企画したのですが、神様から「メシヤ教」を開教するように導かれました。不測の事態も起り、準備資金が不足してしまいました。

その時に、ここに掲載する「お言葉」によって動かされた宗団から寄付があり、他の支援者の協力と相俟って御神体をはじめとする宗教形態が整ったのです。そして、奇しくも、「世界救世(メシヤ)教」開教五十周年記念日に発足することができたのです。

ところが、この「お言葉」は門外不出にされ、公表の許可は今日まで出されませんでした。それが不思議にも、前回の「神界通信」と機を一にして公開を許されたのです。これは、‘時期’の到来を意味するものと拝察いたします。

昨今の情勢と相俟って、メシヤ様が理想とされた教団運営の見本を示しつつ、「第二の開教」を実現すべき時期を迎えているように受け止めております。

≪お言葉≫

我は伊都能売神こと明主でありけれ。

さてさて今にして汝等もやっと気付きしなりや。楳木なる今回の職務につきし救世教本部の誠に幼稚なる裁きは、これぞ神界より眺めしところ片腹痛きこの度の始末なりけれ。よりによりて今の救世教本部司等に彼ほどの人物が今少しでも居るなれば、斯(この)様な恥じらいの道も許されることもなかりきなり。

然れども、これはまさしく人間的な思いでありしなれども、今日ここに到りて彼をソッと救世教上幹部員として置き去りに致すは神として如何にも残念至極に思う事ありて、スッキリと教団の一員に置くことなく広く世間へと開放せしは他ならぬ神であることを忘れるなかれ。

我は汝等をソッと眺め見守りし故は、まあ汝等は汝等なりの判断を持ちてのこの度にあらば、神とてもまあまあ当たらず触らずの平穏無事の道を選びしことなるらん。なれども、それなりに神の方にては、唇をかむ思いも致せしなん。

しからば、今宵初めて汝等の意志の程を聞きし故、今宵の下りと相成りしものなるらん。人間とは、己等の無事ばかりを思い居ったのではこれぞと申す大事は中々できぬ事ぞかし。しからば、昨日安江東の神前にても少々仄(ほの)めかせしなるが如くなりきぞ。

人間完全とはそうたやすくあるものにあらず。神を求め正しき道に出ての想念あればこそ、神は働きを助け金も使いやるものなりきぞ。しからば安江申せし如く、何人と申そうにも天国会の面々は何事にも石橋を叩きて渡ると申せば賢き様なれども、まあ、神から申せば、何をどうこう神の意と致す所を広く労をして貫く者達ではない事は神は遠の昔判り居るからこそ、まあまあの集いと致し居るなり。

余程の事あるのみは下りて霊査的なる事は控え居る事も誰一人として気付かぬ程のうかつと申そうや。のんき者達でありしなん。

我は伊都能売神とあらば、下りての霊査の言葉とても余りにも軽く考え居る事に、少々まあこんなものかとも諦め申す。まあ気にも留めずとも宜しきが、余りにも情けないと存じ居る所なりき。まあなまじと思わぬでもなきが、出来る事なれば今一度チャンスをを与えてみようかとも思いての今回の楳木に対する本部の経緯なりき。

我は前々よりここに上がりたる玉串は我が使うほどにと布教所、聖地へも届けさせずにあるも、全てはこの度の一件に備えての事なるらん。しからば、今宵の祈願は全員で神に奉げてほしかったなれども、まあ心せし種々(くさぐさ)なる思惑もあるなればとも判るなりき。

まず、明主が後を如何程に矢面に立ちて世間ならぬ世界に活動致す者ありや。救世教上幹部達は何れも己、家族、格式、金欲に目がくらみ、生き抜く事に懸命であり、神の仕組みに出で立つ者無と申せよう。彼とても同様、想念のみにては如何せん所なりき。斯(この)様な摘(つ)まみ出しありて、初めて今回の意志が芽生えたとでも申せ様ぞ。

しからば、神は、神の意に沿い行く事なれば、金は決して惜しむ事あらざらん。まあよくぞ申してくれたと少々嬉しかりけれ。神から申させる様では天国会も落ちたものぞ。

決して成功は直(す)ぐと申すものにはないぞ。失敗を重ね、苦きを口に致して初めて神は其(その)真実に応えるものぞかし。しからば、これからの天国会の為にも、神が用意の玉串を使わせてやろう程に、これからも汝等は神に借金と思いて大いに働くべし。

伊都能売神こと明主

(平成11年3月19日 19:07~19:40)

「地上天国祭」挨拶

メシヤ教  楳木和麿

はじめに

地上天国祭おめでとうございます。

意義ある「地上天国祭」を皆さんと共に清々しく執り行うことが許されまして、感謝申し上げます。

強い御光と皆さん方の熱気によりまして、小さいお子さん方が興奮しております。乳幼児の方は息苦しいくらいで、ぐずっています。忍者の修行法に呼吸量を減らして気配を消す、というものがあります。皆さんもそれを見習って、少し少なめに息をして上げてください。(爆笑)

冒頭から忍者の話などが何故出てきたのか、と思いますが、NHKで「功名が辻」が放映されてますね。明智光秀が本能寺を急襲するように仕向けた間者がいます。彼はお坊さんの姿をしていました。どうしてお坊さんの姿をしていたのか、と言いますと、奈良時代以降お坊さんが文化や情報の伝達者であったことが関連しています。

以前、各時代で担った宗教の役割について触れましたので、それを少し思い出してみてください。そして、宗教をもっと静かに見直していただき、宗教の中に身を置く自分達の在り様というものを考えていただきたい、と思います。

御神業を支える上で心得ておいていただきたいこと

さて、昨年の「地上天国祭」において、「昼の時代を司る神様の意思に基づいて取り組むならば、必ず事成せる」ということをお伝えいたしました。そして、「誠を込めて取り組むならば、明らかなるお導きと幾重にもあつい御守護を必ずいただける」と付け加えました。

また、メシヤ様がご立教されてより八十年余の間御神業が進められてまいりましたが、今日では時代苦というものは「病・貧・争」ということだけで捉えられなくなってまいりました。複雑化してきた、とお伝えしました。御神業を進める上で、複雑化してきたことを理解しておかなければ中々救いを展開できない、ということを昨年お話いたしました。

私は、この一年様々な教団(メシヤ様を教祖と仰ぐ)の指導者や関係者と面接を重ねてまいりました。それぞれ御教えの実践に努めておられる様子は受け止めることができました。反面、現代人の問題解決は実現しきれていないように、受け取れました。

中には海外で非常に発展している教団もあります。宗教学的に観て海外布教というものは、民度の高いところから低いところへ広がるということになっております。ですから、第二次世界大戦の戦勝国へは日本から中々教線は伸びません。

一方、現代社会に目を転じてみますと、「現代は『最後の審判』の真っ只中にある」と言っても過言ではありません。何故なら、その型である精神病と血液病が蔓延しているからです。日本の精神病は、病院で造られているところがあります。結果的に精神安定剤に依存させるように仕向けているところがあるからです。

また、最も恐れられているエイズも若年層を中心にしてものすごい勢いで感染が広がっているようです。このエイズは、一説にはドイツ人が東南アジアへ拡げた、と言われております。医療の最先進国が、というところが皮肉でもあります。

そしてさらに、輸血を伴う治療は人々の延命に寄与するところがあるものの、28年後肝臓疾患を患うという統計が出ており、血液による治療がさらなる血液病を生んでいる、という皮肉です。

そのような世情の中だからこそ、事態は急を要しております。それ故に、皆さん方にさらに御神業を進めていただきたい、と願っている訳ですが、担っていただく上で、しっかりと持っておいていただきたいことを今日はお話したいと思います。

これから本格的に資格者を育成してゆく計画ですが、その方々を中心にして御神業を支えていただくのが皆様方です。どういうふうに支えてゆくか、についてお話して今日のめでたい祭典の挨拶といたします。

入信教修―御神業を支える人の育成

御神業の中心は浄霊力の伝授なのですが、当初、浄霊力を伝授する場合7回にわたってお話をされております。これは「観音講座」として現代に残っております。私は、以前の教団では3回「入信教修」というものをするということになっておりましたので、それに従っておりました。しかし、各拠点の代表者に行なっていただく際に活用していただく「要綱」を昨夜考えておりまして、やはり7回は必要だという結論に達しました。

基礎的な話はそれ位時間を掛けないと中々伝わらないなあ、と感じる訳です。それで、現在は簡単に浄霊力は授けているのですけれども、御神業を支える一員になるということになりますと、違ってまいります。

『夜昼転換』によって火素が増量し、その火素を手の平を通して放射することによって浄霊力を発揮する、という話の中には、『夜昼転換』という歴史観と『霊主体従の法則』という世界観の二つの大きな御教えが前提としてあり、そのことを理解しなくては『浄霊の原理』を真に理解することはできません。

また、火素の増量に伴う『浄化作用』についての理解を深めておかなければ、浄霊を取り次いでゆく上で十分なお世話ができません。今回メシヤ講座でも触れたように、過去使用した薬によって浄化に伴う痛みが異なります。よく御教えを拝読しておかねばなりません。しかも、浄化作用はこうした身体的なものを含めて生活全般で起こってくる現象でありますので、深い研鑽を要します。

そして、こういうことを教えてくださったメシヤ様という方はどういう存在なのか、ということを良く判っておかなくてはなりません。そのために、今「『景仰』を如何ように拝読するか」ということを通して理解を深めていただきたい、と願っている訳ですが、自分は、どれ位メシヤ様のことを存じ上げているのかを確認していただきたいと思います。

それから、メシヤ様が進められようとされた御神業は「宗教改革」と「医学革命」ということで集約されております。「宗教改革」というと、マルティン・ルタ-を思い出すのだが、それとどう違うのだろうか、あるいは日蓮上人の目指した「仏教改革」とはどう違うのか、また、「医学革命」とはどういうものなのか、そうしたことをト-タルして御神業とは何なのか、ということが解ったところで、やっと信者ということになるのです。

信仰をするということ―人生の評価

ですから、入信教修というのはそういったことがお互いに解ってゆかないといけない訳です。「私はメシヤ教の信者です」と言って「どんな宗教ですか?」と尋ねられた時にどう答えてゆくのかを明確に描いておかねばなりません。宗教の伝道は「物語」なのです。体験と御教えが巧く紡(つむ)がれて、相手に伝わるのです。

そこで信仰をするということはいったいどういうことか、ということを今一度自問自答してみてください。御神体のあるご家庭では朝夕のご参拝をするとか、浄霊を普段にいただくとか、御教え拝読を重ねるなど、いろいろ挙げられると思います。それでは、それは何のために行なっているのでしょうか。

お互いにメシヤ教に出会った経緯や入信動機は様々です。それでは、それまでの苦労とか悩みというものは一体何なのか、どういうことなのか、を考えてゆきますと、自分達の人生の中でいろいろな苦労をして試行錯誤を重ねて、やっと最高最貴の神様に出会ったことなのだ、ということなのですね。

いろいろな宗教を経てきたとしても、そのことを通して最高最貴の神様へ段々と近づいてきた、ということです。ですから、新しい方へ入信教修をする時に、一番最初にこちら側にある大事なことは何かというと、「最高の神様に出会うために、さぞ色々とご苦労されたことでしょう」、「さぞ試行錯誤を重ねられたことでしょう」、「よくぞ辿り着きましたね」ということなのです。

言葉を変えれば、その人その人の人生の評価をして差し上げる、ということです。人生観というものが真っ先にあります。

では何故苦労しないと最高神へ辿り着かないのか、というと、このことについては「信仰読本」―宗教について―の中身を思い出してください。古代の人間生活そのものが宗教であり、その要素が遠心分離的に発展してきたのが現代の文化です。しかし、発展はしてきたが肝腎の「根本に宗教がある」ということを忘れてしまったために、現代社会は諸問題を抱えております。

古い魂は根本の宗教を覚えていますが、生まれ変わり死に変わりの繰り返しの中で外郭の心、精神は忘れているのです。それで、魂は‘この世は何か変だ’と気付き、本来の在り方を希求してきたのです。

僭越な表現になりますが、御教えというものはそういうことが判った上で構成されているのです。御教えを拝読する側がそうしたことを理解した上で読み進めてゆきませんと、「岡田茂吉全集」を持っていても理解が深まりません。

教祖誕生の経過と私達の姿勢

では御教えを垂れた主であられるメシヤ様はどういう存在なのか、ということになります。これも、「信仰読本」―教祖―をしっかり思い出していただきたいと思います。

一般的に教祖となる人は、天啓を受けるまで非常に苦労をするけれども、それは人を救う言葉を身に付けるためなのだ、ということが一つあります。ですから、信仰者というのは絶えず言葉を練ってゆかなければなりません。

御神前でいくら善言讃詞を奏上しても、日常口にする言葉が‘善言讃詞’になっていなくては何にもならないのです。

それから、天啓が下った瞬間に力が備わります。この力は、歌手や俳優のようにみんなで作り出すような力ではなくて、信頼関係がなくとも発揮される力です。どのように罵倒されようが、相手を救ってゆく力です。

救いの力は浄霊という形に昇華されておりますので、当然私達も、人から何を言われようとも手を翳(かざ)してゆける心を持たねばならないのですね。

私達は、入信教修をする側にあるのだけれども、入信教修をする前提として、日常的に言葉を大切にして、磨いて、練ってゆく心掛けをしなくてはならないのです。そして、人から後ろ指を指されても、平気で手を翳(かざ)してゆける強靭な心を持たねばなりません。

メシヤ様を見つめる時に、私達の課題として浮かび上がってくる内容はこの二つですので、‘自分も磨いてゆかないといけないなあ’と思った瞬間に、昼の神様の御心に適うような人間になることができるのです。

‘よし判った’と肯いて‘今日からやるぞ’ということで、言葉を練り始め‘どんな場面でも浄霊を取り次ぐぞ’と意気込んでみても、じゃあ明日から華々しく結果が出てくるか、というと、そんなことはない訳で、やはり同じような日常生活が続いてゆくのです。

御神業は小さいことの積み重ね

同じ日常生活が続いてゆくのですが、私達信仰者が判っておかなければならないことは、コツコツやる方が後で大きな結果を許されるのですよ、ということです。いくら派手にやったところで、実らないものは実らない。しかしコツコツ積み上げてゆくと、威力を発揮するものなのです。よく引き合いに出されるのが、藤沢修平の「さざ波剣法」です。

派手ではないけれども、地味に感ずることでもコツコツ積み重ねてゆくと、最初は弱々しく映るのだけれども、結果的には勝負に勝ってしまうということです。

家庭でも、相手を言い負かした方が気分が良いのだけれども、「ああそうねえ」とまずは相槌を打つ。負けたような感じになるのだけれども、段々手の平に乗せてゆく、そして何時しか操れるようになるのです。片方も‘まあそれでいいか’という気分で相手をするようになる。操っているようで、操られてしまっている、ような関係になるとうまくゆくのです。

また、コツコツと積み上げてくると顔に‘品’が出てきます。今月お配りした『神示の医学』にも、そのあたりのことが出てきます。そうしたことを念頭において毎日鏡を覗き込んでみてください。

継続してゆくと、「おたくは、最近違う感じがするんだけれども、何かやっているんですか」と尋ねられるようになります。あるいは相談事を持ちかけられるようになります。相手に応じて、浄霊の話や自然食品の話や日用品に含まれている化学物質の話等々を少し交えてお答えします。

お話しする時は、十しゃべりたいところを十しゃべってしまうと相手が疲れてしまいますので、二つか三つ位しゃべって、「後はまたの機会に・・・」と言って終わりにします。少しずつ相手に手渡しながら、理解できたら次の段階にゆく、というように進めていただきたいと思います。

日頃からコツコツと自分を磨きながら、人様にはそういった形で声を掛けたり、浄霊を勧めたりして、それらの集合体が大きな御神業ということになる、ということを心得ておいていただきたいと思います。そして、その先に、これから「入信教修要綱」だとか、「問題解決の手引書」を皆さん方の手元に提供してゆきますので、それらが届いたらス-ッと活用していただきたいと思います。

これから出されるものは、自画自賛的で恐縮しますがそれは素晴らしいものです。しかし、いくら良いものが届いても、自分の身が修まっていませんと、中々活用できません。

最高の欲求こそ信仰

そこで、もう一つ大切なことは、「困った時の神頼み式」の信仰から脱皮していただきたいということです。入信したての時は当然そうした信仰で結構なのですが、ひとたび神様の存在を認識することができたならば、順次『信仰の奥座敷』へと入っていただきたい、と願っております。

人間性心理学のマズロ-は人間の欲求ということを分析しております。初歩的な欲求は生理的欲求なのだ、というものですね。楽になりたい、快適に過ごしたい、というところから、安全を確保したい、居る場所を得たい、ということになり、自分を認めてもらいたい、ということになります。そして、一番上に「自己実現」の欲求がある、とするものです。

これは人間が形成する価値観の段階とも同様でして、快適価値、健康価値から出発して、生命価値へと上がり、最高位は文化価値、芸術価値になります。これは精神的に満たされてゆき、命よりも大切なものを見い出すということです。

そして実は、そうした価値の上に宗教的価値というものがあります。これは先ほどの「宗教について」ということと関連すれば、総合的な人間生活の在り様が判る、ということです。真理を得てゆく欲求とでも言えますが、この真理への欲求は最高最貴の神様に繋がらないと実現しないところがあります。

私達はそういうところを目指すのだ、ということを是非今日の慶き日に再認識していただきたいと思います。

現在はまだまだ浄霊をいただきつつ解決をしなくてはいけない段階の方も多いと思います。また、克服しなくてはならない課題を抱えておられる方もいらっしゃると思います。問題を解決しながら、健康を確保しながら次の段階を目指してゆくのだ、という認識が大切だということです。

高いレベルを目指すのが実は信仰なのだ、本来の信仰なのだ、ということです。そして、そういうことを理解した人がこうやって大祭に集まる。集まって、お互いにレベルの高まった顔を合わせて、高まったことに対して「おめでとうございます」という声を掛け合うのですね。

こうした積み重ねが大変意義深い祭典ということになってまいります。そしてまた、祭典でさらに御力をいただいて御神業に取り組ませていただくのです。

本日は皆さん方の呼吸法が良かったのか、親御さん方の想念が良かったのか、その両方だと思いますが、私の話の一時間、お子さん方全員が熟睡してくれ、傾聴に集中していただくことができました。ご在世中のご面会のひとコマを連想させるような出来事でした。ただただ感動いたしました。以上で終わらせていただきます。(要旨)

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