メシヤ講座・特選集no.79(平成19年8月分)

<御教え>
文明の創造
(文創 昭和二十七年・未定稿のまま)
総篇

地上天国

地上天国とはバイブルから出た言葉であり、仏教ではミロクの世といひ、西洋ではユートピアなどといふが、勿論意味は同一であって、つまり理想世界である。之が曩(さき)にかいた如く神の目的であるから、現在迄の歴史は其(その)世界を造る過程であったので、幾変遷を経て漸く天国の一歩手前に来たのが現在である。此(この)世界を一口にいえば、病貧争絶無の世界である。処が此(この)三大災厄の中の王座を占めてゐるのが病気であるから、病気さへ解決すれば、貧乏も争いも自ら解決するのは、言を俟たない処である。

如上(じょじょう)の意味に於て、私は病気に就(つい)て根本原因を、凡ゆる面から徹底的に解剖し明かにするのである。而(しか)も之は医学と異って、人智によって生れた学問上の研究理論ではなく、神の啓示を土台とし、実験によって得たる真理であるから、毫末(ごうまつ)も誤りはないのである。そうして実験とは今日迄何万に上る私の弟子が、毎日何十万に上る患者の治療に当ってをり、其(その)治癒率の素晴しい事は、医学の一に対し百といっても、決して過言ではない程である。

右(上記)の如く驚くべき治病の実績が、此(この)地球上に出現したに拘はらず、全人類は治る力のない医学を無常のものと誤信し、病苦に悩み、長く生きられる生命を中途に挫折して了ふ其(その)無智悲惨なる現状は、到底黙視出来ないのである。此(この)様な末期的惨状を神として、そう長く放任して置けないのは当然である。といふ理由と来るべき理想世界の住民としての健康人を作らんが為との二つの理由によって、茲(ここ)に医学の迷盲を発表するのである。

*     *     *     *     *

「世界救世(メシヤ)教」
復興事業推進について(2)

メシヤ教 代表  楳木和麿
宗教が辿る宿命的な現象

この度の政局に対する論評において大変興味深いものがありましたので、それに基づいて宗教の辿る宿命的な現象について考察し、私達が陥ってはならない事柄を明記しておきます。

メシヤ講座参加者の中には、東方之光教団やいづのめ教団に所属の方々が混在し、それぞれの教団関係の選挙結果が話題にも上りました。そうした時に鑑とする御教えは、前回もご紹介した『私の信仰の経路』です。

『・・・何といっても宗教は人の心をよくするもので、それ以外には宗教としての使命はない。然(しか)るに何ぞや、政治運動だの、国防運動だの、社会運動をするから全然宗教の埒外(らちがい)に出ているから、当然大鉄槌を食ふに決まってゐる。当然の事とは、宗教は宗教としての使命がある。商人は商人として、軍人は軍人としての各々(おのおの)するべき事、すべからざる事と判然と自ら決まってゐる。之以外の事をやれば滅びるに決まってゐる。今日の宗教は社会事業をやってゐますが、之が間違ってゐる。そういふ社会事業の背景となる事はいいが、それを直接するといふ事は全然間違ってゐる・・・』

という一節です。

また、自民党が大敗し民主党が議席を大幅に伸ばしたことは周知の通りです。それに伴い、公明党までもが所謂逆風の影響を受けてしまいました。票数の固い公明党は、投票率が上がると選挙結果は苦しいものになる、と言われておりましたが、今回の公明党の苦戦は支持基盤に異変が起きている、と専門家から見られています。

この現象について、小林節慶応大教授は次のように解説しています。

「宗教家には『殉教』という言葉があります。公明党は日本の政党のなかで唯一、己が正しいと信じる主義のために『殉教』できる政党です。それが福祉予算という利権を与えられてか、自民党という巨大な権力の前に、いやにおとなしいのはどうしたことか。

キリスト教だって最初は異端派とされていたように、世界中のすべての宗教が、はじめは世間の少数派です。少数派は理不尽に対して怒っているから理論も研ぎ澄まされ、思いも強まっていく。正義の言葉は常に少数派から生まれます。

その意味で創価学会も、少数派の時代は日蓮のように健気だった。けれども権力に近づき、社会で普通に扱われるようになると守りに入っていく。自民党と組んだことで権力を握った。大きな財布を握って失いたくなくなるのは悲しいかな、人間の本質です。」

小林教授は「安倍自民党の極端な『全体主義』と『軍国主義』を、本来ならば『人権』と『平和』を掲げる公明党が止めなければいけないのに、止めようとしない。なぜなのか。」という切り口を持っています。自民批判をしつつそこに加担する公明党を批判しているのですが、宗教組織に起こる宿命的な現象を指摘しているのです。このことについては後述しますが、まず「日蓮の健気さ」について着目しておきたいので採り上げました。

日蓮上人が目指したものと継承宗団との違い

何故に「日蓮の健気さ」について着目するのかと言いますと、これまでの(メシヤ様を教祖と仰ぐ)教団では御教えの一つひとつに対する考察が浅いことと関係します。

例えば『日蓮上人の出現によって夜昼転換の黎明期を迎えた』と御教えにあるにもかかわらず、そのことに対して解説をする先達に出会ったことがありませんでした。御教えに対する解釈が(メシヤ様を教祖と仰ぐ)各教団で不十分だからなのです。そのために、人類史におけるメシヤ様ご出現の意義付けが弱いのです。これはご神格の確定にまで及びます。

8月のメシヤ講座で『救い主と贖罪主』を拝読し、種々な質疑応答を重ね、日蓮上人の立ち上がった仏教改革に話が及びました。その折に最近まで葬儀社に所属してお寺の斎場に勤めていた方から興味深い話が出ました。

それはある高名な僧侶の講話のテープ起こしを依頼された時に、「法滅尽経」の部分が聞き取りにくく経営に携わる僧侶に確認したところ、解らなかったそうです。しかし幾度となく聞き返してみると、「法滅尽経」のように受け取れたそうです。御教えで拝読したことがあるので、思い当たったのです。

そこで、また僧侶に確認したところ、「そうだろう」ということになったそうです。ところが、「法滅尽経」を聞き取ることができた手柄を自分のものとしたそうで、呆れた話になったそうです。

話してくださった方は御教えを拝読していたから解ったのですが、僧侶は勉強不足のために解らなかったのです。日蓮上人が叫んだ仏教改革は、実は僧侶の勉強不足を指摘することが第一にありました。

ご承知のように、お釈迦様の説かれたお経の数は膨大です。それを全て読破することは至難な業だ、と受け止められていましたが、日蓮上人は全て原書(中国語)で読んだとされています。そして、読んだ上で各宗の説くところは部分的で神髄ではない、と看破したのです。

全論を読んだ者と部分しか読んでいない者とでは、話にはなりません。不利になった僧侶達が日蓮上人を排撃したのです。

そして、次に指摘したことが僧侶達と為政者との癒着です。これは、歴史に見ることができますので多くの言を必要とはしませんが、当然ながら権力者から迫害を受けました。

それでも尚且つ、日蓮上人は仏教改革を叫んでいったのです。そこに日蓮上人が目指したものとその継承宗団である創価学会の違いを見ることができ、『散花結実』の散花は現状を指していると強く思わされます。

また、日蓮上人の取り組みを通して言えることは、組織ではなく個人の取り組み、その一点において歴史の転換期を迎えたということです。そのことを道にある者は強く受け止めておかなければなりません。

夜昼転換の黎明期の意味と地獄から救ったという意味

それと共に、以上のように『日蓮上人の出現によって夜昼転換の黎明期を迎えた』とある反面、『地獄にいる日蓮を救った』というお言葉もあります。

このことに対する解釈がまた不十分のために、御教えを正しく理解できないことになるのです。夜昼転換の黎明期を切り開いた人物が何故地獄に在籍しなければならなかったか、ということです。

これは異質な場面ではありますが、私の体験から“返り血”のようなものを浴びたということだろう、と推察できます。

かつて教団改革で奔走した折に、「権威の崩壊」が進んでいたにもかかわらず、教団内では多くの年輩者が権威にしがみついていました。そこへ二十代の若造が全く耳にしたことのない情報を手にして動く訳ですから、それが真実といえども逆恨みの対象となりました。

また、せっかく築き上げたと思っている組織を解体する方向へ突き動かす取り組みでもありました。その渦中では、組織の中で生きてきた人々の信念体系が崩落して、真実を知らされたとしても、逆恨みの対象となりました。

その想念は正しくはなくとも、恨みでありますので、返り血の如くこちらの霊体に覆いかぶさってくるのです。そのために、改革を進めつつも個人的な問題も発生しました。それは法則的に起こってくるものですし、神律の下に生じることで、どうしようもならないものなのです。

正しいことを進めるにしても、改革には伴う厳しい現実もある、ということです。それだけに、指導者は信仰をする人々を身を挺して正しく導かねばならないのです。メシヤ様が布教師に対してお説きになったことの中から出来上がった「布教三訓」と「るナ三訓」は、そのためにあると痛切に感じます。

他山の石として考えるべきこと

他山の石として考えておかなければならないことは、かつて世界救世教が公称80万人となった時点で、冒頭のような宿命的な現象が生じているということです。小規模ながらも同じような変遷を辿ってしまった、ということです。メシヤ様を教祖として仰ぐ教団の信者総数は500万人に達しようとしていますが、どの教団も、ともすると同じような道を歩んでしまいます。

また、一元化は内向きの理論になってしまった点が残念な結果を生んでしまいました。本来外向きであらねばならなかったのです。全御教えを公開することで世に問い、真の意味で布教=社会改革を進める体制づくりであるべきなのでした。

ところが、布教=社会改革という取り組みは言葉のみが先行し、具体的な救済のあり方の指導が存在しなかったのです。布教力は個から個への伝承で、組織的な教育システムは生れませんでした。

その原因は、先程も触れたように御教えの解釈が浅いこととが先ず挙げられます。人類史全体を見渡した上で、宗教と科学の変遷に主神様の御意図を求め、メシヤ様の御教えはどのような時代背景の下に出されたのか、という探求です。

「宗教とは何か」ということを解らぬ者が運営し、また、「宗教の時代的諸相」を知らぬ者が宗教を批判して自己満足に浸って、人々はそれに縋り付いてしまいます。悲しい現実です。

次に、解釈が浅いために「教条主義」に走ることで、それが信仰であると錯覚してしまうことです。『宗教と科学の一致』という御教えに照らして考える時に、科学が進歩すればするほど主神様の御意図をより明確に拝察することができるようになる、という解釈の欠如です。

メシヤ様の発せられたお言葉の随所に、科学の進歩に対する解説に合わせて、問い掛けがあります。また、ラジオのニュースや新聞に隈なく耳目を注がれていたご様子からも、御意図を拝察できます。

そのように考えてゆきますと、指導者側は全ご論文、全問答形式御教え、全詩歌集に目を通した上で「教・論・律」を確立しなくてはなりません。重複しますが、そのためには全ご論文、全問答形式御教え、全詩歌集を公開せねばなりません。

メシヤ様の御力の恩恵に浴する取り組み―宗教宗派を超えて授けられる浄霊力

そして、メシヤ様の恩恵に真に浴するように運営してこなかったことがあります。浄霊力の普遍的な強化と問題解決力の強化がなされなかったのです。

メシヤ様は、ご昇天後について『(光を)霊界から出しますから同じ事です。反ってよく出ます。体があると邪魔になりますから』と述べられていますが、このお言葉に対する探求が弱かったことは周知の通りです。

私が賜わった『メシヤ様の御名を唱えれば宗教宗派を超えて浄霊力が授かる』というご啓示は、他の人にもっと早い時期にあっても良かったとさえ思われます。人類にとってこの上ない福音だからです。しかし、浄霊観が確立されなかったために遅れを見たと拝察されます。

今は大変な恩恵を賜わった訳ですので感謝すると共に、広く宣べ伝えてまいりたいという決意でおります。この秋に欧州へ御神体ご奉斎のために渡航しますが、それを契機に、海外で『宗教宗派を超えた浄霊力伝授』の取り組みが緒に就きます。

また、問題解決における、『霊主体従の法則』、『浄化作用の原理』の関連性を整理できて来ませんでした。即時性、合理性に基づく対応策も明示されませんでした。そのために、問題解決力を普遍的に指導することができなかったのです。

問題を抱えた人は、とかくその問題で身も心もいっぱいになってしまい、前に出ることも、また退くこともできなくなりがちです。そして、“右手と左手と、どちらが大事か”というように決めることができないことを決めようとして悩み、唯物的な即効的解決を図るものです。

勿論、金銭問題など素早く現実的な手を打たねばならないこともありますが、即効的に対応しつつ、因縁を解消すること、曇りを浄めること、本人の我執が取れることを同時に進めねばなりません。

その上で、二度と同じ問題が起きないために、霊の曇りが発生しないような生活指導が必要です。「景仰」に記述された内容に対する解釈の仕方が重要になる所以です。また、生活指導のポイントは、悩みを打ち明ける時やご祈願する時よりも、ごく普通の極めて日常的な営みの中に、また無意識の内に言うことや仕種の中に潜在し、時折見え隠れするものです。

問題解決には、指導者側の訓練が必要なのです。その上で大切なことが更にあります。

布教の原則―何故私にご啓示が下ったのか

先程触れたような教団改革やお世話において公私に渉る問題が生じた時に心掛けなければならないことは、“泥を被る”ということです。責任を回避しないということです。泥を被らない者は詭弁を弄します。どこまでも自らが率先して汗を流し、泥を被リ責任を回避しないということ、それが布教の原則とも言えます。

私は、少なくともそれを貫いたからこそ、役職を解かれ一兵卒になった時期もあります。それでも尚且つ、下積みから御神業を勤め直し、やり遂げようと積み上げてまいりました。

一心に人間の問題解決に努めて、また解決のための学びを深めてゆきました。それが「メシヤ様のご精神を現代に求める」という取り組みで、それを重ねたので、救済のための幅広い人脈を得ることができました。

また、権威の崩壊を、活動の中で嫌というほどに目の当たりにして参りましたので、「るナ三訓」にある「威張るナ」ということが身に沁みており、どのように高位に付いたとしても心掛け続けたのです。

その姿勢の延長線上に『宗教宗派を超えて浄霊力を伝授する』というご啓示を賜わったのです。そして、その恩恵に浴する人々は、更に拡がりを見ております。

また、私が賜わったご啓示は、一端宣布すると、私の“専売特許”ではなくなる性質を持っています。何故なら、メシヤ様から賜わる御力であるからです。そのため、他教団で「当方もご啓示をいただいていた」として幅広く浄霊力を伝授していただいても、異論を差し挟むことはないのです。

そうした姿勢が、メシヤ様の恩恵に一人でも多くの方々が浴することになるからです。これが「世界救世(メシヤ)教」復興事業の眼目中の眼目でもあるのです。

≪付記≫

終戦記念日に関連して

私は終戦記念日を前に長崎を訪れるように神様から指示されていました。広島は、支部が発会したお蔭で訪れるようになりまして、原爆ドームへも足を運ぶことができました。長崎の爆心地は未だだったのです。

「浦上天主堂」を訪ねた時に、歴史上の謂れとは異質な思いに包まれました。天主堂が建設された丘は、江戸時代にキリシタン弾圧のために「絵踏み」が行われた庄屋の跡地です。明治28年(1895年)の着工から完成まで30年の歳月を要したと言われていますが、教会の完成は信徒にとって言い表せないような喜びだったと言われます。

しかし、完成からわずか20年後の昭和20年(1945年)8月9日、投下された原子爆弾によって一瞬にして瓦解、炎上してしまったのです。辛うじて正面の壁面や右側面の一部は倒壊せずに残ったようです。(その無残な姿は写真として残り長崎原爆資料館に保管されている)

原爆資料保存委員会が発足(49年)し、天主堂を原爆資料としてそのまま保存する、という結論が出されたようです。ところが、55年、長崎市と米国ミネソタ州・セントポール氏が姉妹都市提携を結んだのを契機に、事態は一変したと言われます。

天主堂の廃墟は、米国にとって、米国への怒りと原爆投下への疑問を助長させる「目障り」なものだったので、当時の長崎市長を取り込んだと揶揄されています。

もし浦上天主堂が廃墟のまま残っていたら、キリスト教国による原爆攻撃が、長年の弾圧に耐えてきたキリスト教徒の悲願の結晶を粉々にしたという意味で、広島の原爆ドーム以上の象徴に成り得たのではないか、との思いを抱く人は少なくないと言います。

今、天主堂の遺壁の一部が爆心地の公園に移設されていますが、それだけを見ても何かは判りません。広島の原爆ドームのように被爆体験を象徴するモニュメントではないからです。そのような歴史に翻弄された人々の悲痛な思いが伝わってきたのでした。

情報の精査を

これに付随して、考えさせられることは流される情報のいい加減さに驚かされることばかりだということです。

先程の広島へ爆撃された原爆は「濃縮ウラン型」で、長崎へ投下されたものは「プルトニウム型」です。米国は、その両方を広島と長崎で試したのです。そして米国主導で進められる北朝鮮の核廃絶問題の実体は、ウラン濃縮に関するというものであるのです。これは何を意味するかはお判りだと思います。

各施設への査察は、老朽化しているためにそれを受け入れても種々の経済的利益を享受したほうが国益になります。しかも、4年間の中断機関に相当量のプルトニウムをすでに抽出しているということが、査察が北朝鮮に痛痒を感じさせていないと見なされています。

日本にとって最悪のシナリオは、北朝鮮が老朽化施設の無力化だけをして、事実上の核保有国宣言をし、その代償として拉致事件未解明のままテロ国家指定解除を手に入れることであります。

この点においては、唯一安倍総理に頼らねばならないことのようです。真実に気付かぬ振りをしているとしか思えないような、格差社会問題、年金問題をはじめとする公務員制度問題等々への対応の仕方ではどうにもなりません。

今、驚くべき現実が日本に横たわっています。例えば、61%強の企業がここ3年間で「心の病」が増加傾向にあると報告しています。これは、派遣会社からの社員は所得が非常に低く悲鳴を上げているのですが、定時で上がります。正社員は収入は安定しているものの、定時で上がったために残された仕事をやり遂げねばならないのです。そのために起きている問題の一つです。

2007「国民生活白書」によりますと、正社員の67%強は5年前と比べ「仕事上の責任や負担が増した」と答えています。男子正社員の4人に1人が週60時間以上働き、サービス残業が4割近くあるというのです。それが、格差社会の実態なのです。「心の病」について以前採り上げた時点よりも更に深刻さを増しています。

日本内外の事例を挙げて、常時垂れ流されている情報について絶えず疑問符を持たなくてはならないことを念押ししておきます。

少なくとも、今日本を取り巻いている問題は、官僚の起こしている問題であり、構造改革は少しも進んではいないということです。そのことが冒頭の選挙結果の実相なのだということを判っておかなければなりません。(今回の資料:8月17日発行「週刊朝日」)

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