メシヤ講座・特選集no.80(平成19年9月分)

<御教え>
文明の創造
(文創 昭和二十七年・未定稿のまま)
科学篇

病気とは何ぞや

愈々(いよいよ)之から病気に就(つい)ての一切を解説する順序となったが、抑々(そもそも)病気とは何かといふと、一言にしていえば体内にあってはならない汚物の排泄作用である。従って体内に汚物さへなければ血行は良く、無病息災で年中潑剌(はつらつ)たる元気を以て活動出来るのである。としたら一体汚物とは何であるかといふと、之こそ薬剤の古くなったもので、毒血又は化膿した不潔物である。では何故其(その)様な病気の原因となる処の薬剤を使用しはじめたかといふと、之には大いに理由があるから詳しくかいてみるが、抑々(そもそも)人類は未開時代は兎も角、漸次人口が増へるに従って、食物が不足になって来た。そこで人間は食物を探し求め、手当り放題に採っては食った。勿論農作法も漁獲法も幼稚の事とて、山野、河川至る処で木の実、草の実、虫類、貝類、小魚等を漁ったが、其(その)良否など見分ける術もないので、矢鱈(やたら)に食欲を満たそうとしたので、毒物に中(あ)てられ、其(その)苦痛を名付けて病気と謂ったのである。そこで何とかして其(その)苦痛を脱れやうとし、草根木皮を試みた処、偶々(たまたま)苦痛が軽くなるものもあるので、之を薬と称して有難がったのである。其(その)中での薬の発見者としての有名なのが、中国漢時代に現はれた盤古氏で、別名神農といふ漢方薬の始祖人であるのは余りにも有名である。

右(上記)の如くであるから、食物中毒の苦痛も勿論其(その)浄化の為であり、薬効とは其(その)毒物の排泄停止によって苦痛が緩和されるので、已に其(その)頃から浄化停止を以て病を治す手段と思ったので、此(この)迷盲が二千有余年も続いて来たのであるから驚くの外はない。そうして西洋に於ても草根木皮以外凡ゆる物から薬を採ったのは現在と雖もそうである。従って薬で病気を治す考え方は、之程開けた今日でも原始時代の人智と些かも変ってゐないのは不思議といっていい。

偖(さ)て愈々之から実際の病気に就(つい)て徹底的に解説してみるが、抑々(そもそも)人間として誰でも必ず罹る病としては感冒であらうから、之から解説するとしやう。先づ感冒に罹るや発熱が先駆となり、次で頭痛、咳嗽(がいそう)、喀痰、盗汗、節々の痛み、懈(だる)さ等、其(その)内の幾つかの症状は必ず出るが、此(この)原因は何かといふと、体内保有毒素に浄化作用が発り、其(その)排除に伴ふ現象である。処が其(その)理を知らない医療は、それを停めやうとするので、之が大変な誤りである。今其(その)理由を詳しく説明してみると斯うである。即ち人間が体内に毒素があると、機能の活動を妨げるので、自然は或程度を越ゆる場合、其(その)排除作用を起すのである。排除作用とは固まった毒素を熱によって溶解し、喀痰、鼻汁、汗、尿、下痢等の排泄物にして体外へ出すのであるから、其(その)間の僅かの苦痛さへ我慢すれば、順調に浄化作用が行はれるから毒素は減り、それだけ健康は増すのである。処が医学は逆に解して、苦痛は体内機能を毀損(きそん)させる現象として悪い意味に解釈する結果、極力停めやうとするのであるから、全く恐るべき誤謬である。そうして元来浄化作用とは、活力旺盛であればある程起り易いのであるから、弱らせに限るから、茲(ここ)に弱らせる方法として生れたのが医療である。勿論弱っただけは症状が減るから之も無理はないが、実際は無智以外の何物でもないのである。其(その)弱らせる方法として最も効果あるものが薬である。つまり薬と称する毒を使って弱らせるのである。人体の方は熱によって毒素を溶かし、液体にして排泄しやうとして神経を刺戟する。それが痛み苦しみであるのを、何時どう間違へたものか、それを悪化と解して溶けないやう元通りに固めやうとする。それが氷冷、湿布、解熱剤等であるから、実に驚くべき程の無智で、之では病気を治すのではなく、治さないやうにする事であり、一時の苦痛緩和を治る課程と思ひ誤ったのである。処が前記の如く苦痛緩和手段其(その)ものが病気を作る原因となるのであるから由々しき問題である。つまり天与の病気といふ健康増進の恩恵を逆解して阻止排撃手段に出る。其(その)方法が医学であるから、其(その)無智なる評する言葉はないのである。近来よく言はれる闘病といふ言葉も、右(上記)の意味から出たのであらう。

右(上記)の如く感冒に罹るや、排泄されやうとする毒素を停めると共に、薬毒をも追加するので、一時は固まって苦痛は解消するから、之で治ったと思ふが、之こそ飛んでもない話で、却って最初出やうとした毒素を出ないやうにして後から追加するのであるから、其(その)結果として今度は前より強い浄化が起るのは当然である。其(その)証拠には一旦風邪を引いて一回で治り切りになる人は殆んどあるまい。又陽気の変り目には大抵な人は風邪を引くし、風邪が持病のやうになる人も少なくないので、そういふ人が之を読んだら成程と肯くであらう。此(この)様に人間にとって感冒程簡単な体内清潔作用はないのであるから、風邪程有難いものはないのである。処が昔から風邪は万病の基などといってゐるが、之程間違った話はない。何よりも近来の如く結核患者が増えるのも風邪を引かないやうにし、偶々引いても固めて毒素を出さないやうにする。従って結核予防は風邪引きを大いに奨励する事である。そうすれば結核問題など訳なく解決するのである。それを知らないから反対の方法を採るので、益々増へるのは当然である。

そうして右(上記)の如く病原としての毒素固結であるが、此(この)原因は先天性と後天性と両方ある。先天性は勿論遺伝毒素であり、後天性は生れた後入れた薬毒である。処が其(その)両毒は人間が神経を使ふ局部へ集中固結する。人間が最も神経を使ふ処としては、上半身特に頭脳を中心とした眼、耳、鼻、口等であるから、毒素は其(その)処を目掛けて集中せんとし、一旦頸部付近に固結するのである。誰でも首の周り、肩の附近を探ればよく分る。其(その)処に固結のない人は殆んどないといっていい。而(しか)も必ず微熱があるのは軽微な浄化が起ってゐるからで、頭痛、頭重、首肩の凝り、耳鳴、目脂、鼻汁、喀痰、歯槽膿漏等は其(その)為である。処が毒結が或程度を越ゆると自然浄化が発生するし、其(その)他運動によって体力が活潑となったり、気候の激変によって自然順応作用が起ったりする等の諸原因によって風邪を引くやうになる。よく肩が張ると風邪を引くといふのは之である。又咳嗽は液体化した毒結排除の為のポンプ作用であるが、之は首の附近とは限らない。各部の毒結もそうである。次に啑(くしゃみ)であるが、之は恰度鼻の裏側、延髄附近の毒素が液体となったのを出すポンプ作用であるから、此(この)理を知れば実際とよく合ふ事が分るのである。

右(上記)の如く頭脳を中心とした上半身の強烈な浄化作用が感冒であるから、此(この)理さへ分れば、仮令(たとえ)感冒に罹っても安心して、自然に委せておけばいいので、体内は清浄となし、順調に割合早く治るのであるから、此(この)ことを知っただけでも、其(その)幸福の大なる事は言ふ迄もない。

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「世界救世(メシヤ)教」
復興事業推進について(3)

メシヤ教 代表  楳木和麿
前回掲載文の反応から

前回の掲載内容については、大要二つの反応がありました。教団(メシヤ様を教祖と仰ぐ)の職員経験者からは「よく分り、涙が出ました」という声が寄せられました。また、信仰歴の浅い方は「何度も読まねば理解できないところがありました」という声が寄せられました。

教団職員経験者は、体験的に宗教や教団のあり方について懐疑的になる場合に出会うことが多く、そのために職を辞してもいます。しかし、メシヤ様への思いは篤いものがあります。メシヤ様への思いは信仰歴の浅い方も同様に強いものを有しております。

しかしながら、いわゆる「宗教概論」を整理できていないところが見受けられますので、今回はそれを再確認すると共に、御教えとの関連性にも触れておきます。

世界の文化の中には様々な宗教の潮流がありますが、次のように諸宗教を大きく二つの類型に分けることができます。

1、自然宗教

2、創唱宗教

自然宗教は、自然発生的に現われて、特に教祖というものもなく成長してきた宗教を指します。原始宗教と言われるものは、これに属します。神道やユダヤ教、道教などもこの類型に属すると岸本英夫氏は解説しています。発生的には、その民族の原始文化の時代に発生し、民族的文化と共に成長しました。そして、その民族の文化が進展するにつれて洗練され、展開してきました。

それに対して、創唱宗教は、その形成が自然発生的ではありません。教祖の開いた宗教です。特定の創唱者が現われて、その創唱者の教えと人格を中心にして出来上がった宗教です。

また、宗教学の分野では今日まで様々な分類がなされました。宗教の伝播性から

1、部族宗教

2、民族宗教

3、世界宗教

とも分類されてきましたし、神観念の特徴からは

1、多神教

2、一神教

3、汎神教(はんしんきょう)

と分類されてきました。さらには本質的な性格を特徴的に捉えて

1、予言的宗教

2、神秘主義的宗教

などという分類も試みられました。これらは学術的な試みの一端ですが、要素という観点からは十を超える宗教の捉え方があります。ここでは自然宗教と創唱宗教の分類と御教えとの関連性について触れてゆきます。

宗教概論

そこで、「現代の文化形態は宗教の要素が遠心分離的に発展してきたもの」と説明した、「信仰読本」の「1、序―宗教について」を再読してみていただきたいのです。余りに簡潔明瞭に記述していますので重みを感じない人が割りと多いようですが、実は「考え方の原点」を提示しているのです。

古代の人間生活は宗教そのものでしたが、現代の文化形態というものは宗教のもつ要素が遠心分離的に発展してきたもの、と解釈できます。

例えば、リーダーの下に部族のしきたりが形成され、集落の運営や交易がなされていたものが現代では政治・経済という形で発展しています。祭りの神楽が芸能という形に発展し、祭りそのものはスポーツやレジャー、各種催しという形になっています。

祭事の呪具や呪器は芸術という形で、しきたりや言い伝えは法律や哲学、民俗学という形で、お呪(まじな)いや毒消しが科学や医学という形で、というように細分化し発展してきました。

ところが、発展した反面で、本来の宗教を現代社会は忘却しているのです。そのために、目覚ましい発展を遂げた科学技術を駆使して、現代人は便利さを享受している一方で、諸問題を抱えています。

大きな視座で捉えれば、温暖化に代表される環境問題や民族紛争は深刻さを増すばかりです。個々を取り巻く社会情勢は不安要素が目立ちます。これ等をはじめとする諸々の問題は、文化の根本にある本来の宗教を忘却したところに生じているのです。

『夜昼転換』という歴史観に基づく文化論

メシヤ様の説かれた御教えは、こうした宗教学を基盤とした論立て、筋立てであるのです。

それが『夜昼転換』の御教えに象徴的に表わされています。その意味で、僭越な表現ですが『夜昼転換』は実に奥の深い教えなのです。『夜昼転換』は歴史観であると共に、それに基づく文化論なのです。

自然宗教の中で秩序だった生活を営みつつ、人間の存在が洗練されてきた後、物質文明を進展させるために『夜の時代』となりました。そして、『夜の時代』の特徴は『悪主善従』でありますので、人類は堕落の一途を辿ります。堕落は滅亡を招きます。

そこで、『夜の時代』の到来と共に創唱宗教が生まれ、人類の良心を維持してまいりました。

メシヤ様の『宗教改革』の中でご指摘された内容は、自然宗教の源とも言うべき神代時代に対する覇権者によって塗り替えられた部分の指摘と歴史の真相の開示なのです。

また、物質文明を発展させる過渡期における創唱宗教の成り立ちの真相と明かされてこなかった真理の開示なのです。

そして、真文明創造の具現化論の展開です。

世俗社会の宗教

一方、宗教団体という限られた視点からは、世俗社会という社会変動過程において「伝統的な宗教的宇宙観や、制度としてあるいは制度的組織の立場からイデオロギー化された神話からの、人々の解放」という動きは決定的に見られ、結果的に分化を生ずることになります。

これは、世界救世(メシヤ)教が内紛を繰り返し、離脱教団を多く生み出した社会的背景としてあります。教団裏面史と合わせて、注視しておかねばならないところです。

それを各教団がどのように捉え、どのように分析するかによって、今後の方向性は決定されます。

メシヤ様もこの点について、ご論文によって解説を加えられているのですが、後継者が把握できておりません。社会変動とご論文を融合する取り組みがなされていないからです。

『科学迷信』という画期的なお言葉を述べておられるのですが、それが社会変動過程の中でどのように有意義なものであるのか、重大性すら気付いていないのです。これは、前述の「人々の解放」という見地に加えて、それを導いた科学にさえも『迷信』に陥ることに警鐘を鳴したのです。

メシヤ様のご精神を

1、利他愛

2、合理性

3、即時性

の三点から説明したことがあります。

神様という存在について『理屈に合えば愛ですが、合わなければどうにもなりません』とお述べになって、合理性を生活の中に取り入れるように強く求められました。

これは米国人的な要素を引き合いに出されたところが多分にあるのですが、ご昇天が50年も早まったために、以後は占領政策が形を変えて日本へ浸透してしまいました。巷間“自己責任”が取り沙汰されていますが、それは、ともすると自分中心の心を作り、自分中心の在り方を当然とする風潮を生じさせます。

また、即時性は「瞬時」という言葉で現代に根付いていますが、情報を得る場合や仕事上の対応の仕方に偏っています。自らの日常生活に定着する形ではないために、自分中心のあり方が加速度的に進み、家族の繋がりを弱くすると共に、両性の境界を弱くしています。

それらが今日の時代苦を形をもって現われる、人々の抱える問題の根っ子にあります。ここが私達が救いの手を掛け、御光を当ててゆくポイントなのです。

「世界救世(メシヤ)教」復興事業推進とは、以上のような宗教に関する二つの観点から取り組むことであると共に、時代苦の根っ子にメシヤ様の御光を当ててゆく取り組みなのです。

浄霊の概念

そして、その取り組みの原動力は浄霊という絶対的救済力です。今月はメシヤ講座参加者に「浄霊法講座」を頒布しますが、頒布の趣旨について次のように記述させていただきました。

「メシヤ様の御名を唱えて授かる浄霊力は、すでに急所を論じなくとも良い程に強化されています。

しかし、浄霊の原理や神律、思想を探求し体得する過程においては、急所を知ることも大切なことです。また、日常生活で私達を取り巻く化学物質の影響を受けて生じる身体の異変に対して考察する原点としても重要な意味をもちます。成長過程で染み付いた精神の癖を変容させ修正を加える場合にも拠り所になります。(以下略)」

浄霊力が強化されていることを活用するために、認識を新たにしていただきたいことは「私達の肉体はどういうものか」ということです。約38億年前に地球に生命が宿って進化を遂げ、最後に出現したものが人間です。ですから、人間は地球上の生命の全てを包含した、言わば総合的な存在だということです。

以前、蜂に刺されてショックを起こす原因を、「蜂の毒を人間も有しているが純度と量によって起こす」ということで説明したことがあります。そこにヒントがあります。例えば、蜂の毒を有しながらも普段は存在せず、必要時に精製して分泌しつつ活動を続けているのが人間の肉体なのです。

かつて日の丸弁当というものがありました。ご飯の中に梅干が一つ入っているだけの弁当です。これは現代の栄養学では欠陥弁当ですが、その弁当を食べて肉体労働を続けた時代がありました。その時代の人々の手で現代の繁栄の礎が築かれました。

栄養学的には不十分であっても、ご飯だけでも、それを食することによって肉体は必要な化学物質を作り出しているのです。肝臓が主として担っております。解毒作用と共に必要な化学物質の精製を行っているので、肝臓が化学工場と言われる所以です

こうしたことから分るように、人間の肉体は全ての生命の総合体のようなものなので、健全であればどのような異変に対してもオールマイティに対応できるのです。

先程の「純度」ということでは、薬毒のうち、洋薬は純度が低く漢方は純度が高い、という見方ができます。洋薬は許認可を受けるために一回の摂取における人体への影響を考慮しています。漢方は何しろ「煎じる」という言葉があるほどです。

これが毒素の排泄に多大な影響を与えることは御教えにある通りです。洋薬の方が痛みは伴いますが、排泄され易いのです。漢方の方は鈍痛を伴い、排泄には時間が掛かるのです。

また、幾度か胎児が辿る生命誌について触れてきましたので、そのことを思い出していただきたいと思います。

卵が受精と共に細胞分裂を重ね、やがて水中動物から陸上動物へと形を変えてまいります。その劇的な変化(血液を造る場所が変わる)の時に「悪阻(つわり)」が起き、胎児を安らかにするために母体を安静にさせる、しかもそのことにより妊娠を自覚させる、という極めて巧妙な仕組みがあることもお話しました。

因みに、流産した場合『五ヶ月を過ぎていたら祀ってやらねばならない』という御教えの裏付は、その時期にほぼ人間の形になるということにも繋がっています。

そして、未熟児で誕生した場合に、保育器で育てると視力に障害が起きる可能性があると懸念されています。これは、かつては保育器に問題があると解釈されていましたが、そうではなく、臨月を迎える最終段階で視神経が行き届くので胎児でいた方が条件が良いからなのです。

こうしたことを見つめてゆくと、先程の「人間は生命の進化の最後に誕生したものである以上、総合的な存在である」ということが再認識できるのではないでしょうか。

ですから、浄霊をいただくと、全ての生命の総合体としての働きができるようになります。そのことを先ず認識していただきたいのです。

また、浄霊はあらゆる因縁を解消する絶対力でもあります。今月(9月)は思いもよらぬ浄霊の奇蹟の報告がありました。極めてプライベートな内容なので、何れ時期が来たら体験記にまとめていただけると思いますが、深刻だった因縁の解消を許された方がいらっしゃいます。

既成概念で浄霊力を捉えたままでは絶対力を弱めてしまいます。メシヤ様のご神格の再認識が重要であると共に、既成概念から脱した浄霊観を持つことが求められます。

科学に対する真摯なご姿勢と「岡田茂吉研究」の捉え方

こうした論立ては御教えにはありませんので、「?」という思いも出てくるかもしれません。しかし、科学の飛躍的な進歩によって、昭和20年代では物質的には不明であったことが現代では詳(つまび)らかに判明しつつあるのです。

メシヤ様は、『科学迷信』として警鐘を鳴らしつつも、科学に対する真摯なご姿勢もお持ちでした。それは、ご面会時の質疑応答の中で『顕微鏡の倍率』についてお付の方へご確認されていることからも拝察されます。

これは、待望されている「岡田茂吉研究」の捉え方にも関係してくることです。未だ御教えに触れたことのない方へは、宣べ伝えつつ、読んでいただく人を増やすことが肝腎なのですが、すでに拝読している人は学術的な学びを重ね、御教えの裏付としての学究の成果を知らねばならないのです。

話題性のある例を採り上げますと、現在95歳として現役の医者で活躍中の日野原重明氏が、様々な場面で人々に元気を与えています。氏の生活は御教えを裏付ける部分が多分にあるのです。まず、「身体のことで大事なのは、首の柔らかさを保つこと」という発言と実践する姿です。

また、食生活のカロリー計算の仕方です。粗食が健康に良いとする考え方とも共通する部分があります。『人間の寿命は120歳』とする御教えを現実のものとしてゆく上で、大変参考になるものです。氏の書籍には人生訓が宝石のように鏤(ちりば)められています。

一例ではありますが、御教えを現代的に裏付ける論理や実践例を組み立ててゆくことが求められます。

全体的な揺れを修正する

現在様々な方々から相談を受ける中で、各教団(メシヤ様を教祖と仰ぐ)の取り組みに滑稽さを覚えることがあります。

それはメシヤ様の進められた事業のうち初期の成果を得られなかった「金鉱事業」に関する検証がなされていない、としか思えないからです。そもそも何故、金鉱事業を始められたのか。その一事を考えただけでも、教団運営における御心は容易に拝察できます。

また、初期の成果を何故得られなかったか、という分析を御教えに基づいて行えば神律も容易に拝察できます。その上で運営上の留意点が明確になるのです。

そして、メシヤ様の尊称が定着しかけると、それを阻止しようとする働きが起きます。ご神格の確定を阻む働きです。

かつて世界救世教が三派に別れる前に、教団役員の間で「明主さん」という呼び方が横行したことがあります。“これはいけないなあ”と危惧していた折に内紛が勃発しました。

メシヤ様のご神格を普段に認識し、絶対的な救いの力を行使できる自分づくりに努めることが何よりも大切であると痛感します。

<参考資料:「宗教学」岸本英夫著・大明堂>
<参考資料:「世俗社会の宗教」出門富二夫著・日本基督教団出版局>

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