メシヤ講座・特選集no.86(平成20年3月分)

<御教え>
世界救世(メシヤ)教早わかり
(昭和25年11月20日)
人間

一体、人間というものは、何の為に何の必要があって、誰が此(この)世の中に生れさせたものであろうか、少し物を考える人なら、此(この)事が一番先に、頭に浮かんで来なければならない。之が判らなければ、どんなに七難しい理屈を解かれても、額に青筋を立てて捲くし立てられても、頭痛の種を頂戴するだけで、屁の突支棒(つっかいぼう)にもなるまい。処が今迄は猫も杓子も、ヤレ文化とか、ヤレ科学とか、丸で蚊に喰われるような名前の学問を、神のように有難がって来たんだ。処が此(この)神様はどういうものか、サッパリ人間に就ては教えて呉れない。唯った一人ダーウィンというオッサンが出て来て、進化論という本をかいた。それを見ると人間の先祖はアミーバーという黴菌(ばいきん)みたいなものだとした。そこ迄は可々として之からが大変だ。というのは、アミーバーが段々進化して蜥蜴(とかげ)となり、大蜥蜴となり、猿となり、類人猿となり、それから人間様になったんだというんだから奇々妙々大魔術である。それが本当とすればゴリラやチンパンヂーやオランウータンなどは、間もなく人間様に進化するんだから、此(この)進化し立ての人間が、アフリカ辺りの蕃地(ばんち)には、ウヨウヨ居なければならない筈だが、一向そんな話は聞いた事がない。とすれば此(この)有名な進化論も眉唾物(まゆつばもの)でしかあるまい。

そこで、吾々が唱える人間説を一つかいてみるが、手近な処で先づ自分自身である。一体俺というものは、どういう訳で何をする為に此(この)世に生れて来たものであろうか。何も生れたいと思って、生れて来たものでもない。只親が生んで了(しま)ったんだ。といっても親とても俺を作ろうと思ったんじゃあるまい。偶然に宿り、月満ちて生れたまでである。斯んな判り切った事が、実は真理なんだから真理というものは案外平々凡々たるもので、当り前すぎる位だ。之を昔から宿命というが巧い言葉だと感心する。処が人間という奴、大人になって世の中の事が段々判ってくると、一番知りたくなるのは、何故人間が生れるかという事だ。然し進化論以外、宗教の方でもチョッピリ説くには説いたが、余り漠然としていてサッパリ摑みどころがない。そこで拙者(せっしゃ)は今人間に就て、みんなが知りたいと思いそうな事を、判り易くかいてみよう。

茲(ここ)に、男と女がいる。するとどこから誰がするのか判らないが、アミーバーのやうな目に見えない人間の種が、植付けられるのだ。それが段々大きくなり、オギャーと生れるや又段々大きくなり、一人前の人間になる。すると働かなければ飯が食えないように出来ているので、一生懸命働くんだが、人によりズルイ奴もあり、怠ける奴もあり、泣く奴も、笑う奴も、生意気な奴も、理屈を捏(こね)る奴もあり、又出世をする奴も、失敗する奴も、種々様々な人間が出来て了(しま)うんだから、人間という代物も随分手数のかかる生物だ。そうして今言ったように人間は食わなければ生きられないように出来ていて、食ひ物もチャンと具わっている。何者がそうしたのか分らないが、山からも海からも平地からも、食いたい美味いものはお誂(あつら)へ通り揃っている。太陽も空気も水も、一切人間に必要なものばかりで、一つも無駄はない。無駄と想うのは、その使ひ途が判らないからで、判る程そこ迄人智が発達していないんだから、人間様もあんまり威張れたものではない。処が人間に必要がなくなったものは自然淘汰といって、無くなって消えて了(しま)う。そうかといって、新しく生れてくるものもある。昔人力車という便利なものが生れて来たが、自動車というそれ以上便利なものが生れたので、淘汰されて了(しま)った。行燈(あんどん)が電燈に、木と紙の家が鉄とセメントの家というように学問でいう新陳代謝である。

此(この)様な具合で、何だ彼んだと言い乍ら、地球は段々拓けてゆく、どんな山の中でも、海の涯(はて)でも行けない処はないようになった。昔テクテク一月掛りで歩いた処も、今は寝乍ら一時間で行けるというんだから、此(この)分でいったらどこ迄拓けるか見当がつかない程だ。斯うかいてみると、どこか人間の目に見えない処に、何者かドエライお方が居て、人間を作り自由自在に働かせ、段々地球を立派なものにしているとしか思えない。どう考えてもそれより他に考えようがない。としたら先づ人間は威張る事も、文句を言う事も出来ない。恐れ入って其(その)何者様に頭を下げる事だ。而も其(その)何者様は人間の命まで自由自在にされるんだから、お気に入れば無事だが、お気に入らないとなると、いつ何時命を召上げられて了(しま)うか判らない。だから精々お気に入られるように努めるのが長生きの秘訣である。

そうして人間という奴、何でも判らなければ承知しないという厄介な代物で学問というものを作って智慧を磨いたんだ。何故学問を作ったかというと、極く昔は信仰という目に見えない空気みたいなものが出来て、之も見えない神様というものがあると言っていろんな事を教えた。第一此(この)世の中には、造物主という得体の知れない変な御方が居て、一切を作ったんだというのである。其(その)時代の人間は、こんな簡単な、此(この)御託宣でも有難がって、随喜の涙を零(おと)したらしい。処が人間という奴段々小賢しくなって来ると、目に見えもしない空気か煙みたいなものは、信じられないという理屈を言い出し、科学というヤヤコしいものをデッチ上げて了(しま)った。処が此奴はハッキリ目に見えるんだから、人間共は鼻高々となって、ヘンどんなもんじゃいと言ったかどうだか知らないが、遂々(とうとう)此(この)科学という奴に人間様は虜(とりこ)にされて了(しま)った。又此奴仲々気の利いた奴で、色々な面白い便利なものを作ったんで、人間を有頂天にして了(しま)ったのはいいがおこがましくも、自分の領分以外何でも彼んでも判ったように自惚れて了(しま)って一々理屈をつけたんだ。ヤレ天文がどうだとか、人間の病気はこうだとか言って、大自然の上っ面をチョッピリ知った位で慢心して了(しま)い、終(つ)いには月の世界迄行けるんだといって、目下準備中というんだから、吾々否何者様も呆れ返って物もいえない次第で御座ろう。

以上のように、科学というものを、神様以上に崇めて来たんだから、御利益イヤチコでサゾ結構な世の中になって居なければならない筈だのに、之は又意外も意外、世界中の人間共はみんな青くなってビクビクしているんだから驚いた。之を御覧になった何者様は、ソーレみた事かと言って、鼻の先で笑っても居られない。というのは元々人間は、みんな何者様の子供なんだから、助けてやらなけりゃ可哀想だという御思召(おぼしめし)で、メシヤという居酒屋の親父みたいな、名前の人間を何者様の代理として、今働かせているんだから有難いでは御座らぬか。

そこでメシヤの親父は、早速此(この)事を大勢に知らして目を醒まさせようとしているが、何しろ今迄の人間共は、科学という神様を有難がっていたんだから、メシヤの言う事は間違っている。第一メシヤなどというのは、飛んでもない贋(にせ)神だよ、だからそんなものに騙されては大変だと言って、警戒オサオサ怠りなしだ。それかと言って、実の処内心はビクビクものらしい。何故かと言えば、科学の神様は色々結構な便利なものを作っては呉れたが、肝腎要めの安心というものを作って呉れなかった。そこで人間共は斯んな筈ではなかったと、少々疑いが起って来たんだが、何しろ長い間惚れ込んで来た恋人みたいな科学様なので今更思い返す事も出来ず、一生懸命科学様を頼りにして噛じりついているのが今の有様だ。そんな訳で科学信者共は贋(にせ)神などのホザク事は、迚(とて)も耳障りになるので、五月蠅(うるさ)い気味の悪い奴だ。エーやっつけて了(しま)えというので、霊界のギャング共を総動員し、贋(にせ)神退治をやらせたんだ。之が誰方も御存知の通りのメシヤ教の法難、受難、税難という訳である。処がよく考えれば、先様も心細くなったんで、最後のあがきと言う奴であろう。

そこで可哀想なのは人間子羊の群なんだ。というのは、今迄の世の中は、科学という結構な道具を、神様から授けて下さったんだが人間の中には、了見の悪い奴もいて、其奴等が人間を倖せにする為の道具を、自分勝手に欲の爪を伸ばして、子羊共を酷(いじ)める道具に使ったんだから堪らない。処が善人の方では、科学を善い方に使い、倖せな世界を作ろうとすると、悪者の方は、そうはさせじと邪魔をするので、年中ゴタゴタしており、其(その)間に挟まった、哀れな子羊共は年中泣きの涙で、ピーピーしているんだから可哀想なものだよ。その上長い間の事とて、科学という道具にも間違ひな点が出来たり、黴(かび)だらけになった処もあるので、今度は天の神様が、すごい腕を揮われて、科学を悪者の手から取戻し、善人に使わせたり、間違いは治して下されたり、汚れた処は奇麗に掃除をされて、愈々此(この)世ながらの天国浄土をお造りなさろうとされるのである。

何しろ、天の神様は、メシヤの親父に色々之からの事を、御指図なさるので親父も向鉢巻、尻ひっぱしょり、水鼻をこすりこすり、獅子奮迅(ししふんじん)の大活躍、愈々面白くなって来たので御座る。こんな素晴しい、後にも先にもない、地上天国を作るという、尻メドの小っぽけな奴は、聞いただけで目がくらみそうな大仕事、折角人間と生れたからにゃ、お手伝せずにはおられまい。もし外づれたら万古末代まで名折れになったり臍を噛むのは知れた事、グズグズしてはおられまい。サアサア、イラッシャイ、イラッシャイ、いいと知ったら思い切って実行するこそ男で御座る、とお勧め申す次第なり。

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『ご論文』より

勘違いや錯覚を明確に認識すべき『機関説』『神の大愛』『最後の審判』の内容

宗教の概論、文化形態の変遷を理解しておかねば、御教えの取り違いを起こす

メシヤ教 代表  楳木和麿

『人間を機関として一大経綸を』

前回に続いて『世界救世(メシヤ)教 早わかり』について、触れてまいります。このご論文を改めて拝読いたしますと、『早わかり』とは当時の教団内の者に向けて仰っているのではないか、と思わされる箇所が随所に拝見できます。現代でも同様に受け止められることは勿論のことです。

そのような感懐に浸りながら3月の「メシヤ講座」では、2月分に掲載したご論文を各会場の代表者に声に出して拝読していただき、「どこが重要だと受け止めますか」と問い掛けました。その返答を交えながら、確認作業を進めました。

確認作業の主たる内容は、明確に認識していただきたいところを抜粋しながらご説明するということです。明文化されているので、そのままを受け止めればよいのですが、深く認識を促すために文言を重ねました。。「メシヤ講座」参加者の皆さんは、その内容を明確に理解してくださいました。中には「そのように一行一行を噛み締めるように拝読したことはありませんでした」と赤裸々に述べてくださる方もいましたが、そうしたお姿を非常に好ましく感じると共に心強く感じました。

信仰生活の要め、取り分け『経綸』を拝察する場合には、勘違いや錯覚をしてしまわないように注意を払わねばなりません。そのためには、“メシヤ様が他の教祖と際立って異なる判釈をお持ちであった”ことをしっかりと認識しておかなくてはなりません。

そこでまず、前回掲載のご論文中の7行目『そうして愈々新文明の創造時代になったとしたら、其(その)雄大なる構想は如何なるものであろうかを予(あらかじ)め知って置く必要があろう』という部分に着目してまいりましょう。そこでは、次のように後述されております。

『勿論其(その)為には神は一個の人間を通じて行わしめると共に、其(その)人間を機関として一大経綸を行わしめるのは当然である。それに選ばれたのが誰あろう、私という者であるとしたら本教の出現の理由も理解出来ない事はあるまい。』

かねてから『機関説』ということが論じられておりましたが、メシヤ様御自らこのように明確に述べられております。『人間を機関として一大経綸を行わしめる』と述べられ、しかも『選ばれた』という表現をご使用になっております。ここは重く受け止めねばならないところです。

そうでなければ、「メシヤ様=主神様」だが「メシヤ様<主神様」であるということを理解できません。度々述べてきたように、メシヤ様が何のために御肉体を以ってご降臨されたかが重要なのです。

そして、更に『故に神は天国の設計を時々刻々私に対って啓示され給うので、私は其(その)命のまにまに経綸を行いつつあるのである。』とも述べられております。ここは、より大きな意味を有します。

経綸とは、この文章に明言されているのです。それが「世界救世(メシヤ)教」を開教して後の『経綸』という表現を用いた時の中身であり、実はこのことを理解しておきませんと勝手な都合の良い使用法をされてしまいます。組織に都合の良いことを信者へ押し付ける際に「経綸だから」という表現を用いるのです。これでは本末転倒になってしまいます。何故なら、メシヤ様は天国的信仰を目指されたのですから。

また、メシヤ様は、全てのご準備をなされてご昇天になっております。「経綸」の中身は縷々述べられているので、根幹になる御神意に基づいて時代の推移を見つめてゆく、それが以前ご説明した「教・論・律」の在り方の基本姿勢になっています。

私達信者にとっては、メシヤ様のご在世中の生き様をそのまま我が物とするように目指し、努力を重ねることが信仰生活なのです。そこで、それらの上でしっかりと認識しておかねばならないことが次に記述されております。

『神の大愛』という場合

『それと共に旧文化の中からも役立つべきものは残され、そうでないものは革正して役立つものにされ給うという事である。それが神の大愛である。』と記述されているのです。

『神の大愛』という表現を使用する場合、『旧文化の中から役立つものは残され』、そして『そうでないものは革正して役立つものにされ給う』ということを指すのです。

とかく何でも虚飾して『神の大愛』という言い方をしがちになることもありますが、厳密に捉えさせていただけば人類の文化形態のことを指すのです。ですから、宗教の代表者は宗教の概論と文化形態の変遷を明確に理解しておかねばなりません。そうしなければ、ミスリードを起こしてしまうのです。

ともすると、浄霊の奇蹟が不思議世界の体験に留まってしまったり、単なる神秘世界追求に走る小道具に使われてしまうのです。そんな小さいもの、限定されたものではなく、人類全体の文化に関わることなのです。奇蹟の背景にある御神意を覚り、大道を見失わないようにしなくてはなりません。

そうしたことを、この行間から汲み取っていただきたいのです。

『最後の審判』は何をさすのか

そして、その文章に続いて『それ以外のものは遺憾乍(いかんなが)ら永遠に滅びるより外はない事になろう。之が最後の審判でなくて何であろう。』と述べられているところがズシリとくるところです。

最後の審判とはある日突然来るのではなく、『神の大愛』を知らされた者がギリギリのところまで宣べ伝えることに取り組んで、尚且つ『それ以外』になったものが永遠に滅びる、ということなのです。

ですから、私達の御神業というものは、ギリギリのところまで宣べ伝える取り組みを指すのです。ギリギリのところまで取り組んで、なおもまだ革正しないものが滅びるのです。

また、このことが認識できていなければ、“裁かれる”というようなニュアンスを刷り込み『脅迫信仰』を形成したり、カルト化へ走ってしまう危険性があります。

そうしたことを踏まえて、『実に有り難くもあり、恐るべきでもある。』とのお言葉を真摯な姿勢で受け止めねばなりません。

『一世紀も二世紀も進歩したもの』

更に進んで拝読いたしますと、『処が私の唱える説は、右(上記)の人達よりも層一層破天荒で一世紀も二世紀も進歩したものである以上、初めて聴く人や、既成文化に固まった人達は、唖然として進んで検討しようともせず、頭から極端な迷信として葬り去るのである。』と述べられているところも、僭越な言い方ですが大変示唆に富んだ部分です。

と言うのも、例えば「生命活動とは何か」と問われた際に、現代人はその科学的な説明を理解できますが、江戸時代以前の人には理解は困難なところがあります。

生命活動とは酸素を吸入して二酸化炭素を排出することを言いますが、現代人は学業の場において空気中に酸素をはじめとする気体があることを知っております。勿論呼吸は空気中の酸素を取り入れて二酸化炭素を排出することであることも知っています。そして酸素を血液の中に取り込み身体全体に運びます。細胞はそれを取り込み燃焼活動し二酸化炭素を出します。

これが所謂生命活動で、その燃焼により体温があるとするのが科学的な説明です。しかし、このことを江戸時代以前の人に説明しても、空気中の気体の種類を知りませんので、理解不能でしょう。

勿論これは科学上の話であって御教えの内容のことではありませんが、一世紀、二世紀の違いというのはこのように隔世の感があることを指しているのです。

私達が普段にいただいている浄霊の奇蹟や浄化作用の原理をはじめとする御教えは、それ程のものだということを是非ご理解しておいていただきたいと思います。メシヤ様の有された判釈の際立つ部分です。とは言え、メシヤ様がご立教されてより半世紀以上が過ぎております。次第に常識化することは、昨今の情勢を鑑みれば十分に予想されます。

また、私達はそうした意味では時代の最先端を歩んでいるということも言える訳です。そうした自負心と責任感を携えて参りたいと思います。

『何人と雖も一宗の教祖位の力を』

自負心、責任感を感じるということでは、『何よりも一度本教の信者となるや、何人と雖も一宗の教祖位の救の力を現わし得る事である。一信者にして奇蹟を現わすなどは、日常茶飯事といってもいい、実に素晴しい現当利益である。』と述べられていることからも、その思いに更に拍車を掛けられます。

冨田博明さんの体験報告を読ませていただくと一目瞭然です。私は、富田さんへは個人的な浄霊は取り次いではおりません。行事の際に集団浄霊を取り次がせていただいたのみです。週に一度、娘さんから浄霊をいただく他は、ほとんどが自己浄霊です。

そのような環境の中で、あのような奇蹟をいただいているのです。まさに、『何人と雖も一宗の教祖位の救の力を現わし得る事である。』とお述べになっている通り、いや有難いことにも、ご表現そのものです。本より、これはメシヤ様へ繋がる誰もが体験できることです。

そして、『一宗の教祖位の救の力』というご表現に、有難さを感ずると共に大きな責任感を抱くのです。その責任感の下に、私達は『救の力』の存在を一人でも多くの人々へ宣べ伝えてゆくのです。

当然のことながら、『救いの方法』も宣べ伝えてまいります。その方法を受け止めさせていただく時に、肝に銘じておきたいことが次の行です。肝に銘じると言っても、一文一文読み上げるだけでも心地よい内容です

『日常生活は改善され』

『そうして本教の教によれば人生の妙諦を会得し、真理に目醒め、日常生活は改善され、心中明朗となり、確固たる信念の下、未来に渉って迄も透見されるので、真の安心立命を得るのである。』

読み上げるだけでも心地よいですね。メシヤ様は根幹になる御教えをこのように示され、人間の日常生活そのものが改善されることを願っておられるのです。

どんなに信仰深そうに振舞っても、あるいは奇蹟の話を並べ立てようとも、生活が整ってゆかなければ、それは自慢話でしかありません。唯物思想に影響された振舞いでしかありません。奇蹟の背景に働かれる御心を求めることが信仰生活なのです。

『本教の教によれば』という文言の背景にはそうした願いがあります。続いてお述べになっている行にも同様の意味を有しているので、一行一行を噛み締めながら改めて拝読していただきたいことを願い、最後に二項を掲げて締めといたします。

『人相がよくなる』『有徳者となる』

『何よりも本教信者は時の経るに従い、人相がよくなる事である。というのは浄血者となる以上、健康は増進し、前途の不安は消え、品性も向上するので、世間の信用は高まり、人々から敬愛されるという有徳者となるからである。』

『天国人たる資格を得る』『地上天国出現となる』

『そうして本教のモットーである地上天国を造る其(その)基本条件としては、先づ個人の向上であり、天国人たる資格を得る事である。此(この)様な人間が増えるとしたら、世界は個人の集団であるから、やがては地上天国出現となるのは勿論である。』

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