メシヤ講座・特選集no.94(平成20年11月分)

<メシヤ様対談記・3>

メシヤ様が教団内外の人々との間で執り行われた対談内容は、私達の御神業推進の方向を再確認させていただけるものです。数多くの対談記中から、「世界救世(メシヤ)教」開教後になされた内容を順次掲載いたします。

或(ある)客との対談
(救六十五号 昭和25年6月3日)

 聞くところによれば、貴教は大分穏かならぬ予言をなさったとの事だが、事実であるか、それを伺いたい

 へー、それは如何いう予言ですか

 何月何日以後は疫病が流行り、貴教の信者のみ助かるとか、又何月何日以後には恐ろしい天災地変が起って死者大多数とか仰有ったそうですが、これは本当でしょうか?

 (呵々大笑)・・・・・

本教では予言は絶対禁じてある、何故なれば予言をして当ればよいが外れた場合信用は零となるからである、又脅(おび)やかされ、助かりたい為に入信するのは自己愛的信仰で本当のものではない、これに就て大本教のお筆先に斯ういう名文があった、「怖さ故の改心はホンマものでないぞよ」と

以上のような訳で、本教には絶対予言はないから、今後そういう事を聞いたら、何かの間違いか、悪意のデマとされたいのである、本教の主義主張や一切は、本教刊行物に載せてあるから、その記事に対しては、一切責任を負うのは勿論だが、噂噺等に対しては一切責任はないから、そのつもりでいて貰いたい

 よく判りました

*     *     *     *     *     *


≪浄霊力伝授と入会について≫
メシヤ様の御光を全ての人に

メシヤ教代表 楳木和麿

1.対談記を再読し覚醒させられる

対談記を掲載したことを契機に、改めてメシヤ様の内外への広報を拝読させていただきますと、世界救世(メシヤ)教を開教された御意図と御神業推進の御構想を再認識させられます。当然のことながら、その甚大さには計り知れないものがあります。

また、平和世界を希求する御心が強烈に伝わり、覚醒させられる思いがいたします。深奥なる人類愛を思い知らされ、感謝の想念が拡大してまいります。

もとより御教えを拝読させていただくと、今日までの人類史における数々の疑問が氷解し、各宗教が担ってきた役割をつぶさに把握させていただけます。真理を知る毎に喜びで満たされてまいりましたが、この度の対談記により、更に今後の方向性が明確になり、御神業へ向かう情熱が沸々としてまいります。

前回の「メシヤ講座・特選集」でも触れさせていただきましたが、『従来のような宗教観念ではとうてい理解できない、もっと神秘にして幽邃(ゆうすい)な御神力がはじめて登場することになる』というお言葉は、大変な重みをもって私達に迫ってまいります。

浄霊を通していただく奇蹟を既成概念で捉えてしまうと、まったく異なった解釈になる可能性があります。それ故に、御神業の担い手である私達自身に、まず、『宗教改革』を求めておられている気がしてなりません。

そして同時に、この御心を受け止めた者に対して、御神業推進を託されているのです。御神業を託されたことを自覚した時に入会という運びになります。

順次掲載しているにもかかわらず、今回の対談記には『脅(おび)やかされ、助かりたい為に入信するのは自己愛的信仰で本当のものではない』というお言葉が登場し、御神慮とも思えるように今回の話にジャストタイミングでした。それ故に、私達に自戒の念を持つように再確認されているようにも受け取れます。

また、この対談記に「浄霊力伝授」と「入会」の違いを見い出すことができるとも言えます。

2.浄霊力伝授

本年も大勢の方々に「浄霊力伝授」のお取り次ぎをさせていただきました。

浄霊力は、メシヤ様へ奉告申し上げ、メシヤ様にお祈りした瞬間から行使できますので、手続きがあまりに簡単過ぎて誰もが驚かされます。絶大なる御力を伝授させていただくにも拘(かかわ)らず、勿体ぶったところがありません。そこがとにかく素晴らしいのです。

そして、熟練者であろうが、初心者であろうが、浄霊の取り次ぎにより日々鮮やかな奇蹟を目の当たりにさせられます。とりわけ病気に対して顕著に体験できるのですが、奇蹟の発露については、次のように御教えくださっております。

 『これで病理と医学の大体は理解されたと思うが、要するに現代医学は根本が不明である為合理性がない低科学である。これに反し浄霊医術は合理的高度の科学であり、未来の科学である。その証拠として低科学の頭脳を以て浄霊の驚異的効果を見る時、奇蹟として驚歎するが、実は奇蹟でも何でもない。治るべき理由があって治るのであるから当然である。これに就て何人も知りたいであろう事は、一体太陽の精などという素晴しい力が、何故私という人間を通じて万人の病を治すのかという事で、全く世紀の謎である。≪『浄霊は科学療法なり』全文へ≫

メシヤ様は『現代医療は根本が不明であるため合理性がない低科学である。』とご指摘されていますが、11月30日付の読売新聞に掲載された国立がんセンター名誉総長垣添忠生氏の論調を読むと、更にメシヤ様のお嘆きが聞こえてきそうです。

何故かと言いますと、氏は世界保健機構(WHO)の2007年の統計で全世界で年間に癌になる人は1100万人に上るという数字を示しつつ「がんになる人を減らす、がんで亡くなる人を減らすことはもちろん最重要課題である。」と述べるにとどまり、「がん経験者の支援を議論したい。」として論説を展開したのです。

これには驚かされました。「最重要課題」と言いつつも、癌に対する根本的な話には言及していません。百歩譲って、支援について考えるとしても、「がん経験者は、医学的にはがんの再発や転移の可能性に関する定期検査、治療に伴う副作用や後遺症への対処、当該がん以外の別ながんになる可能性、さらに、糖尿病とか高血圧といったがん以外の病気の管理など、実に多面的な医学的対応を必要とする。」と述べています。

「がんの再発や転移の可能性」は、「最重要課題」と一致するものですから最初から言及しておかなければならない根本的なことなのです。また、「治療に伴う副作用や後遺症」は、その名の通り医療行為そのものが引き起こす症状なのです。

まさに『合理性がない低科学』とのご指摘通りです。

私達は、メシヤ様から浄霊力を授けられると同時に、これまで「メシヤ講座・特選集」で論じてきたように、癌をはじめとする病の根本原因を教えられております。この上なく有り難いことです。

それ故に、浄霊力を拝受いただいたほとんどの方々が、その後各支部の月次祭へのご参拝やメシヤ講座へのご参加を継続されています。確実に体験を積まれると共に御教えに基づいた学びも深まりを見ております。大変喜ばしいことです。

3.入会とは真の生き甲斐を手に入れること

ところが、行事の中で嬉しい珍現象も起きています。それは、改めてメシヤ教に入会したい旨を申し出られる人があった場合、他の人から「あなた、まだだったの?」と声を掛けられる場面があるのです。しかし、声を掛けるその人自身も未だに入会手続きは取っておらず、「浄霊力拝受」申込書を提出し、継続して行事に参加していることで何時しか入会したと思っていたのです。

そうしたことが頻繁に起きることから、勉強会等で「もう一度、浄霊力伝授と入会の違いを説明してください」というご要望が増えております。メシヤ様や浄霊のことを初めて知る人が急増しているために起きていることですが、こうした時こそ冒頭のような話が大切になるのです。

浄霊力は、国籍を問わず、宗教宗派を超えて、希望した瞬時に伝授させていただいております。大変素晴らしい御力を無償で賜わる訳ですから、幅広く活用することを強くお勧めしています。

浄霊力伝授に対して入会という段階は、浄霊力伝授する取り組みを支える側に回るということです。その意味合いから、自発的に申し出ていただくものであり、こちらから強く勧めるという性質のものではありません。

しかし、体験を重ね、学びを継続してまいりますと、浄霊に対する概念が変化してまいります。高まりを見て深まりを伴ってくるのです。御教えには次のようにあります。

『本教浄霊は病気を治すのが目的のようになっているが、本当からいうとそれだけではないので、もっと大きな意味がある事をかいてみるが、一言にしていえば浄霊とは幸福を生む方法である。というのは単に病気といっても勿論浄化であり、其(その)因は霊の曇りの解消作用であるのは、今更言う迄もないが、そればかりではなく、人間一切の苦悩の無くなる作用である。≪『浄霊と幸福』全文へ≫

こうした御教えが「なるほど!」と思えるようになってゆくのです。浄霊力を拝受したい動機は千差万別ではあっても、学びと体験の積み重ねにより、浄霊観は本来の広がりを見てまいります。また、新たに浄霊力伝授を他の人に勧める行為は、人々を幸福に誘うことができる取り組みですので、真の生き甲斐を自覚することにもなります。

それ故に、浄霊を活用しながら、おぼろげに解りかけたことを整理していただく作業が大切になります。御教えの確認作業です。

4.幸福の原理―霊界の構成と霊層界

『浄霊とは幸福を生む方法である』ということの裏付けとして『霊の曇りの解消作用』というお言葉をいただいていますが、浄霊をいただき奇蹟を体験したら人生観の根底に霊界の存在を置いていただきたいのです。

メシヤ様は、幸不幸の原因と霊界の関連性について次のように御教えをくださっておられます。

『人間の体は現界に呼吸しており、霊は霊界に生きている以上、霊界の状態が其侭(そのまま)霊身に影響し、それが肉体に映るのであるから、人間の運命の其根本は霊界にあるのである。そうして霊界も現界と等しく、上中下多数の段階になっており、之を分ければ大別して三段階になっている。その内の一段が六十階、それが三分され二十段づつになって、合計百八十一階級である。そうして一は主神であるから、主神以外は如何なる神様でも、百八十の中のどれかの段階に居られるのである。右は経(たて)を曰ったものであるが、今度は緯(よこ)を曰ってみると、緯の広がりの一つ一つの段が、地獄から天国迄それぞれ異(ちが)っているから、仮に現在自分の霊とすると、下の六十段の其又下の二十段に居る場合は、最低地獄に相応するから、之以上ない程の苦悩に満ちた世界で、之が体に映って苦境のドン底にある訳である。又其上の二十段に上ると幾分楽になり、其又上の二十段はもっとよくなるというように、夫々(それぞれ)の段階一段一段其苦楽の異うのは勿論である。それで右の如き下の六十段を突破すると、今度は中の段階になる。即ち中有界(ちゅうゆうかい)、八衢(やちまた)であるから、現界に相応するので、其又中から上の六十段へ入ると、此処(ここ)は天国であるから天人の地位となり、歓喜悦楽の境遇となるのである。≪『浄霊と幸福』全文へ≫

このように霊界の構成をお示しいただいていますが、霊界の段階に位置する場所を『霊籍』と教えられております。人の運命は、その霊籍の位置によって変化すのです。

では、その霊籍はどのようなことで変化するのでしょうか。メシヤ様は、幸福の原理として次のように御教えくださっております。

『そうしてこの根本原因であるが、それは霊が下段に堕(お)ちるのは霊に曇りが溜り、霊が重くなるからである。従って曇りが減る程軽くなり上昇するから、それに伴って幸福も増すのである。つまり人間の幸不幸は霊の曇りの多少によるのであるから、この原理を知っただけで、その人は最早幸福者の仲間に入った事になるのである。これこそ霊界に於ける千古不滅(せんこふめつ)の鉄則であるから信ずる外はない。≪『薬が不幸を作る』全文へ≫

幸不幸を左右する『鉄則』が霊界に存在するのです。

次には、霊の曇りの発生源として御教えくださっているところがありますので、引用します。

『では曇りとは何かというと、昔から宗教では罪穢としているが、之は誰も知っているから説明の要はないが、それは表面だけの事であって、その奥の深い処に大きな原因があるのでこれが曇りの本元である。それは何かというと、これこそ世人が最も結構なものとして、昔から現在迄も旺(さか)んに使用している彼(か)の薬剤である。といったら何人(なんぴと)も仰天するであろうが、私は神示によって知り得たのであるから、絶対信じて貰いたい。即ち薬を体内に入れればその毒によって血液が濁る。血液が濁れば霊体一致の法則によって霊が曇るのである。故に薬程恐るべきものはないのである。つまり薬で霊を曇らし、重くなって、霊界に於ける地位が段々下降し地獄界に堕ちる。そこで相応の理によって醜悪な行いをする人間が増える結果、病貧争氾濫の苦の娑婆(しゃば)となったのである。≪『薬が不幸を作る』全文へ≫

この御教えに触れると驚愕する人も多いのではないでしょうか。

『薬毒論』は、私達の健康上の問題だけでなく、幸不幸にまで深く関わってくるということですので、御教えに初めて触れる人には青天の霹靂(へきれき)とでも言える内容です。この御教えを人生観の根底に据えていただきたいものです。

5.霊主体従の法則

さて、次に認識していただきたい御教えに、霊界の存在に基づく法則である『霊主体従の法則』があります。

人生観の根底に霊界の存在を据えていただき、実生活の中では『霊主体従の法則』を絶えず意識していただきたいのです。『霊主体従の法則』については次のように御教えをくださっております。

『そうして現代科学といえば勿論唯物科学であり、唯物科学とは目に見え、手に触るる形あるものを対象として研究し進歩したものであるから、凡ゆる物象の表面だけが或程度判ったに過ぎないのであって、その内面に存在する重要な或物に気附かなかったのである。この或物とは何かというと、これこそ無に等しいもので、名附けて霊という。この霊なるものこそ凡ゆる物象の主体であって、この事の認識が出来ない限り、何程科学が進歩したといっても、それは半分の進歩であり、跛行的でしかない以上、正しい文化の生まれる筈はないのであるから、この事が明らかになって初めて今まで不可解とされていた凡ゆる問題も、容易に解決されるのである。何となれば一切は霊が主で体が従であり、霊主体従が万有の法則であるからである。一例を挙げれば人間が四肢五体を動かすのも、眼に見えざる意志の命によるので、決して五体が勝手に動くのではないと同様である。
≪『霊主体従 』全文へ≫

ここでは『霊主体従 の法則』は『万有の法則である』と示されております。それ故に、日常生活で普段に意識しておくことが、これまた幸福の絶対的条件と言えます。

そして勿論、信仰生活上でも不可欠の考え方と言えます。大切なところですので、もう少し引用させていただきます。

『右の如く、人霊に溜った汚穢即ち曇りであるが、之は透明体である人霊に、不透明体の部分が発生する。そうして此原因には二種類ある。一は霊自体に発生する曇りと、二は体から移写される曇りである。先ず前者から説いてみるが、人霊の内奥は求心的三重になっている。之を中心から逆に遠心的に説いてみれば、中心は所謂(いわゆる)魂である。魂とは人間が此世に生れる場合、最初男性を通じて女性の腹へ宿るヽ(ちょん)である。処が魂を包んでいるものが心であり、心を包んでいるものが霊であるから、魂の如何は其侭心を通じて霊へ反映すると共に、霊の如何は心を通じて魂に反映する。此様に魂と心と霊とは相互関係で三位一体である。勿論如何なる人間と雖も、生きている間善も行えば悪も行う。その場合善よりも悪が多ければ差引多いだけが罪となり、それが魂へ反映して曇りとなる。為に心が曇り、霊が曇るという順序である。すると浄化作用発生によって曇りの排除が行われる。其過程として一旦曇りの容積は縮小され、濃度化し、体内の何れかの局所に集結する。面白い事には罪によって固結場所が異(ちが)う。例えば目の罪は目に、頭の罪は頭に、胸の罪は胸にというように相応するのである。≪『霊主体従 』全文へ≫

6.霊体一致の法則と浄化作用の原理

上記の御教えは、次のように続きます。

『次に後者を解いてみるが、之は前者と反対で、体から霊に映るので、其場合最初血液に濁りが生じ、其通り霊が曇る。元来人体は霊の物質化したものが血液であり、其反対に血液の霊化が霊であるから、つまり霊体は一致している。従而(したがって)、濃度化した曇りが体に映ると濁血となり、それが一層濃度化したものが固結であり、この固結が溶解され液体となって、身体各所から排除されようとする。其苦痛が病気である。≪『霊主体従 』全文へ≫

『霊主体従 の法則』と共に『霊体一致の法則』も、日々意識していただきたい御教えです。この法則については、先ほどの『薬を体内に入れればその毒によって血液が濁る。血液が濁れば霊体一致の法則によって霊が曇るのである。故に薬程恐るべきものはないのである。』という論説でご使用になっているのでお判りのことと思います。

それ故に毒素を溶解し排除する浄化作用が大切になります。次の御教えをご覧ください。

『以上の如く人間は霊と体との両面から成立っており、霊が主で体が従となっているのであって、これが万有の法則である。そうして病気なるものは体にある保有毒素が霊に移写して曇りとなる、それへ自然浄化作用が発生して曇りが解消すると共に、それが又体に写って毒素は溶解し排除されるので、その苦痛を言うのであって、つまり前者は霊体一致の緯(よこ)の作用であり、後者は霊主体従の経(たて)の作用であるのであって、この理を充分知る事が肝腎である。では一体曇りの本質は何かというと、これこそ無色透明である霊に不透明な部分が発生するそれをいうのであって、これが真の病原であるから、これを払拭(ふっしょく)すれば病気は治るに決っている。この方法が浄霊であるから、浄霊とは読んで字の如く霊の曇りを浄める手段で、これが真の医術である。≪『浄霊は科学療法なり』全文へ≫

浄化作用として考え方を整理すると、一見病気として暗く恐ろしく捉えられる症状は、実は毒素を溶解し排除する作用なので有り難い現象だと言えます。

人体を正常に維持してゆくためには、なくてはならないものであることから、「浄化作用は創造主の愛の発露である」と言えます。そして、霊の曇りを払拭(ふっしょく)する浄霊は更なる愛の発露と表現しても良いくらいなのです。

7.一年の御神業奉仕を振り返り『メシヤ様御降臨祭』を迎える準備を

御教えを引用して根本教義を説明させていただきましたが、直接拝読していただくことこそ大切です。そうしたことから、引用の御教え全文を次項ですが掲載いたしました。どうぞ繰り返し拝読を心掛けてください。

また、今回掲げた御教えは生活の根底に据えていただきたい旨を重ねて述べました。そのことは、御神業上において尚重要であります。救いの三本柱と挙げられている浄霊、自然農法、芸術も御教えが貫かれていなければ、本来の取り組みからずれてまいります。

例えば、自然農法にEM菌を取り入れてみたり、“何でも芸術”というように拡大解釈的なことが容認されてゆきますと、御心から遠ざかり、形骸化した活動となってしまいます。とても御神業と呼べる内容ではなくなってしまいます。そのようなことにならないように肝に銘じておきたいものです。

さて、私達は、本年数々の御守護を賜ってまいりました。どうぞ一年の来し方を振り返り、『メシヤ様御降臨祭』を迎える準備を整えさせていただけるようにお過ごしください。

≪御教えの全文―引用順≫

浄霊は科学療法なり



これは以前からよく信者が新しい患者を扱う場合、浄霊の原理を訊(き)かれるので、簡単に分り易(やす)く説明をしたいという希望を聞くので、私はここにかいてみたのである。というのは散々医療を受けても治らない病気が、浄霊を受けるやアッ気ない程速かに治るので、驚くと共にその理由を知りたいと思うのは無理もない話である。尤(もっと)も浄霊をする方にしても、一度はそういう経験が必ずあるであろうが、今までの処(ところ)時期尚早の関係もあって、私は余り徹底的には説かなかったから、ここに詳しくかくのである。処で昔から病気は医者と薬で治すものと相場が決っているばかりか、今日の人間は何事も科学ならでは信じられないという科学至上主義になり切っている以上、解するに苦しみ、訊きたいのも当然であろう。それに就(つい)て最も肝腎な事は医学と科学との関係であって、これを先(ま)ず知る事である。成程他の凡(あら)ゆるものは科学で解決出来るのは言うまでもないが、独(ひと)り医学に限ってそうはゆかない処か寧(むし)ろ見当違いも甚しいのである。というのは人間と人間以外の一切とは根本的に相違している事である。それを詳しくかいてみよう。

抑々(そもそも)人間なるものは万物中最高級なる生物であって、実に神秘霊妙到底人智では計り得ないものがある。処が科学はそのような深い点は全然未知なるが為、人間を以て単なる一個の動物と看做(みな)し、物質である肉体のみを対象として来たのであるから、病気を以て肉体の毀損(きそん)と解し、薬剤や機械等の物質を以て修理しようとする甚だ単純な考え方であった。併(しか)し事実はそんな簡単なものではない。人間は肉体以外生命力という寧ろ肉体以上重要な霊的個体なるものが存在しており、それが体との密接不離な関係にあって、人間は生きて活動出来るのである。併し霊は無に等しいものである為、唯物科学では発見されなかったのである。という訳で科学は肉体のみの研究に耽(ふけ)っていたのは、彼(か)の死体の解剖などを見てもよく分る。従って何程進歩したといっても、両者の一方だけであるから跛行(はこう)的進歩でしかない以上、如何に努力したとて結局徒労以外の何物でもないと言えよう。

以上の如く人間は霊と体との両面から成立っており、霊が主で体が従となっているのであって、これが万有の法則である。そうして病気なるものは体にある保有毒素が霊に移写して曇りとなる、それへ自然浄化作用が発生して曇りが解消すると共に、それが又体に写って毒素は溶解し排除されるので、その苦痛を言うのであって、つまり前者は霊体一致の緯(よこ)の作用であり、後者は霊主体従の経(たて)の作用であるのであって、この理を充分知る事が肝腎である。では一体曇りの本質は何かというと、これこそ無色透明である霊に不透明な部分が発生するそれをいうのであって、これが真の病原であるから、これを払拭(ふっしょく)すれば病気は治るに決っている。この方法が浄霊であるから、浄霊とは読んで字の如く霊の曇りを浄める手段で、これが真の医術である。従ってこれ以外の療法は悉(ことごと)く非医術である事を知るべきである。以上が病原と治療との根本原理であって、一言にしていえば病気とは外部に現われた症状であり、病原は内部にある曇りである以上、この解消こそ真の治病法である。処がその理を知らないが為医学は現われた症状さえ除けばいいとしているので、仮令(たとえ)効果があってもそれは一時的で、必ず再発するのは医師も常に経験している筈(はず)である。

では一層突進んで浄霊の根本原理を科学的に説明してみよう。それには便宜上(べんぎじょう)科学の方程式に則(のっと)り、理論科学と実験科学との両面から検討してみるが、今の処これが最も正しい方法であるからである。そこで霊の曇りとは何であるかというと、これこそ薬剤の毒化したものであって、その本質は不純水素である。不純水素とは水素中に毒粒子が混入されたもので、この毒粒子を潰滅すれば純水素となり、病原は根絶される訳だが、これには非常な高熱を要する。それによってこの毒粒子を焼尽(しょうじん)出来るからである。併しこの高熱は地球上未(いま)だ嘗(かつ)て存在しなかった処のXであるが、幸いなる哉(かな)この説明に最も好都合な一事が発見された。それが彼の原子爆弾であって、人も知る如く原爆の高熱も今まで全然なかったもので、二十世紀の今日初めて発見されたもので、この点よく共通しており、偶然の一致というよりも勿論神意の表現である。只(ただ)異(ちが)う処は原爆の熱は体の熱で、浄霊のそれは霊の熱であるから、その強力さは比較にならない程のものである。即(すなわ)ち体熱の方は限度があるが、霊熱の方は限度がない程の高度であって、勿論科学では発見出来なかったのである。もっとも発見出来ても人為的には作り得ないから、この点から言っても原爆とは比べものにならない程の性能である。しかし科学が現在より数層倍進歩した暁、或(ある)いは発見出来るかも知れないが、それは今の処未知である。ではこの本質は何かというと、これこそ太陽の精であって光と熱の霊である。私はこれを名附けて火素といっているが、この火素が不純水素に向って放射されるや、水素中の毒粒子のみ一瞬にして焼尽される。つまり病原を焼いてしまうのである。というのは体的不純物と異い、霊的の方は霊熱でなくては焼けないからである。その方法としてこれも私は一紙片に『光』の文字を書き、それを希望者に頒(わか)ち与える。するとこれを御守として懐中へ入れるや、太陽から不断に放射されている火素が、私を通じて御守に伝流され、その人の掌から放射される。丁度(ちょうど)太陽が放送局とすれば私は中継所であり、術者は受信機と見ればいい。それによって毒粒子は全滅し純水素となって漿液(しょうえき)中に吸収され、斯(か)くして病気は全治するのである。これを一層分り易くいえば、例えば痛む個所に向って手を翳(かざ)すや忽(たちま)ち痛みは去る。それは患部の曇りが間髪(かんぱつ)を容れず解消し、体に映るからであって、然(しか)も毒粒子は結核菌でも伝染病菌でも凡ゆる菌の発生原であるから、それが全滅するとしたら、これこそ万病治癒の理想的医術である。以上で大体判ったであろうが、これを大雑把(おおざっぱ)に言えば、医療は溶けかかった毒素を固める方法であり、浄霊はより溶解し排除させる方法であるから、前者は病気保存法であり、後者は病気解消法である。としたら公平に見ても、治る方が科学であり治らない方が非科学であるから、私は医学は非科学であるというのである。その例として医学の説明をみればよく分る。成程徴に入り細に亘(わた)ってはいるが、悉(ことごと)く枝葉末節的で、根本には触れていない以上、実際に合わないのは医師も認めている筈であろう。丁度枯死せんとする樹木は、原因が根にあるのを知らず、枝や葉を研究するようなものである。

これで病理と医学の大体は理解されたと思うが、要するに現代医学は根本が不明である為合理性がない低科学である。これに反し浄霊医術は合理的高度の科学であり、未来の科学である。その証拠として低科学の頭脳を以て浄霊の驚異的効果を見る時、奇蹟として驚歎するが、実は奇蹟でも何でもない。治るべき理由があって治るのであるから当然である。これに就て何人も知りたいであろう事は、一体太陽の精などという素晴しい力が、何故私という人間を通じて万人の病を治すのかという事で、全く世紀の謎である。併しこれを説くに当っては深奥なる神秘を露呈しなければならないから、次に譲る事とする。(栄二百四十三号・昭和29年1月13日)

浄霊と幸福


本教浄霊は病気を治すのが目的のようになっているが、本当からいうとそれだけではないので、もっと大きな意味がある事をかいてみるが、一言にしていえば浄霊とは幸福を生む方法である。というのは単に病気といっても勿論浄化であり、其(その)因は霊の曇りの解消作用であるのは、今更言う迄もないが、そればかりではなく、人間一切の苦悩の無くなる作用である。

従って貧乏も争いも浄化の表われで、私の曰(い)う病貧争悉くがそれである。処が一切の浄化作用の中で最も重要なのが病気であって、之は生命に関するものであるからで従って病気さえ解決出来れば、貧乏も争いも自然に解決されるのは当然である。勿論そうなる事が幸福の根本であるから、不幸の原因は全く霊の曇りであるのは、余りにも明かである。それを簡単にして確実な方法こそ、霊の曇りの解消法としての浄霊であるから、最初に述べた如く浄霊は独り病気のみではない事である。それに就て一層詳しくかいてみよう。

以前記いた事があるが、人間の体は現界に呼吸しており、霊は霊界に生きている以上、霊界の状態が其侭(そのまま)霊身に影響し、それが肉体に映るのであるから、人間の運命の其根本は霊界にあるのである。そうして霊界も現界と等しく、上中下多数の段階になっており、之を分ければ大別して三段階になっている。その内の一段が六十階、それが三分され二十段づつになって、合計百八十一階級である。そうして一は主神であるから、主神以外は如何なる神様でも、百八十の中のどれかの段階に居られるのである。右は経(たて)を曰ったものであるが、今度は緯(よこ)を曰ってみると、緯の広がりの一つ一つの段が、地獄から天国迄それぞれ異(ちが)っているから、仮に現在自分の霊とすると、下の六十段の其又下の二十段に居る場合は、最低地獄に相応するから、之以上ない程の苦悩に満ちた世界で、之が体に映って苦境のドン底にある訳である。又其上の二十段に上ると幾分楽になり、其又上の二十段はもっとよくなるというように、夫々(それぞれ)の段階一段一段其苦楽の異うのは勿論である。それで右の如き下の六十段を突破すると、今度は中の段階になる。即ち中有界(ちゅうゆうかい)、八衢(やちまた)であるから、現界に相応するので、其又中から上の六十段へ入ると、此処(ここ)は天国であるから天人の地位となり、歓喜悦楽の境遇となるのである。

右のように其人のいる段階其侭通りが運命となるのだから、一段でも上に行くよう心掛けるべきで、上になる程益々苦しい忌わしい事がなくなり、幸福は増すのである。つまり浄化すべき苦痛の必要がなくなるからである。だから人間は霊身が下段にある間は、どんなに智慧を振い、骨を折っても駄目である。というのは之が神の天則であって、霊主体従の法則も厳として冒す事が出来ないからである。故に幸福になるにはどうしても霊を浄めて軽くし、少しでも上位になるよう心掛くべきで、それ以外に方法は絶対にないので、茲(ここ)に浄霊の大いなる意義があるのである。(地三十四号・昭和27年3月25日)

薬が不幸を作る



薬に就いては今迄凡ゆる角度から検討して来たが、薬と不幸の関係に就いては、まだ余り詳しくかかないような気がするから、茲にかいてみるのである。抑々人間の幸不幸の原因は何処にあるかというと勿論霊界にあるので、この事が充分判らなければならない。では霊界なるものの組織をかいてみるが、抑々霊界は百八十段階の層になっており、これが又上中下六十段宛に分けられている。勿論下段は地獄界、中段は中有(ちゅうゆう)界、上段は天国界となってをり、右の六十段が又上中下二十段宛に分れてをり、その又二十段中でも上中下があるのである。という訳で単に地獄といっても、下段に行く程最も苦悩がは甚だしくなるのは勿論で、最低地獄に至っては難病、飢餓、闘争等が極度になっている世界である。これを神道では根底(ねぞこ)の国といい、仏教では暗黒無明、極寒地獄といい、ダンテは煉獄と曰っている。しかしこれが漸次上段に昇るに従い段々緩和され、中有界に至って初めて普通の社会状態になる。つまり此処は苦も中位、楽も中位というその名称通りである。ところがそこを上方に突破するや、茲に天国界に入るのであって、此処こそ仏語(ぶつご)にある極楽浄土であるから、病なく貧なく、飲食(おんじき)豊かに和気藹々(あいあい)とした幸福に充ちた世界である。

右の如くであって、一般人の大部分は中有界に籍が置かれているのである。処が其処は決して安心は出来ない、というのはその人の心と行い次第で上にも下にも行けるからである。だが多くは下に落ちるので現界もその通りである。以上現界と霊界との関係をザットかいたのであるが、いつもいう如く万有の法則は霊主体従で、人間と雖(いえど)もそうである以上、霊界に於ける霊の地位如何によって幸不幸が決まるのである。これが真理であるから、この事を知ってよく守りさえすれば、幸福者になるのも敢(あえ)て難しい事ではない。という訳で現在如何に幸福と自分も思い、人に思われても霊界に於て天国に籍がなければ、その幸福は一時的で早晩在籍通りの地位に転落すると同様、現在如何に不幸であっても、其人が正しい信仰によって徳を施し、人を救うというように善事を行えば相応の地位に向上し、幸福者となるのである。

そうしてこの根本原因であるが、それは霊が下段に堕(お)ちるのは霊に曇りが溜り、霊が重くなるからである。従って曇りが減る程軽くなり上昇するから、それに伴って幸福も増すのである。つまり人間の幸不幸は霊の曇りの多少によるのであるから、この原理を知っただけで、その人は最早幸福者の仲間に入った事になるのである。これこそ霊界に於ける千古不滅(せんこふめつ)の鉄則であるから信ずる外はない。

では曇りとは何かというと、昔から宗教では罪穢としているが、之は誰も知っているから説明の要はないが、それは表面だけの事であって、その奥の深い処に大きな原因があるのでこれが曇りの本元である。それは何かというと、これこそ世人が最も結構なものとして、昔から現在迄も旺(さか)んに使用している彼(か)の薬剤である。といったら何人(なんぴと)も仰天するであろうが、私は神示によって知り得たのであるから、絶対信じて貰いたい。即ち薬を体内に入れればその毒によって血液が濁る。血液が濁れば霊体一致の法則によって霊が曇るのである。故に薬程恐るべきものはないのである。つまり薬で霊を曇らし、重くなって、霊界に於ける地位が段々下降し地獄界に堕ちる。そこで相応の理によって醜悪な行いをする人間が増える結果、病貧争氾濫の苦の娑婆(しゃば)となったのである。

以上の如く人間を不幸にする根本こそ薬剤であるとしたら、平和幸福の世界たらしむるには、何よりも先ず世の中から薬剤を廃止する事で、茲に根本を開示して警告するのである。(地四十四号、昭和28年1月25日)

霊主体従



そうして現代科学といえば勿論唯物科学であり、唯物科学とは目に見え、手に触るる形あるものを対象として研究し進歩したものであるから、凡ゆる物象の表面だけが或程度判ったに過ぎないのであって、その内面に存在する重要な或物に気附かなかったのである。この或物とは何かというと、これこそ無に等しいもので、名附けて霊という。この霊なるものこそ凡ゆる物象の主体であって、この事の認識が出来ない限り、何程科学が進歩したといっても、それは半分の進歩であり、跛行的でしかない以上、正しい文化の生まれる筈はないのであるから、この事が明らかになって初めて今まで不可解とされていた凡ゆる問題も、容易に解決されるのである。何となれば一切は霊が主で体が従であり、霊主体従が万有の法則であるからである。一例を挙げれば人間が四肢五体を動かすのも、眼に見えざる意志の命によるので、決して五体が勝手に動くのではないと同様である。故に奇蹟と雖も本原は霊に起り、体に移写するのであるから、この理をまず確認する事である。それには病気が最も分り易いから、これによって説明してみよう。

元来病気とは肉体に現われた現象であり、結果であって、勿論本原は霊にある。すなわち最初霊の一部又は数個所に曇りが発生し、それが体に映って病気となるのであるから、この曇りさえ払拭すれば治るのは明らかである。このように病原は霊にある以上、体のみを対象とする医学で治らないのも当然であり、対症療法の名がそれである。これにみても現代医学は全く見当違いである以上、一日も早くこれに目覚めて、再出発されなければならないのである。然もこの無智の結果、如何に多くの犠牲者が作られ、悲惨な運命に泣いている現状は、到底黙止出来ないのである。処が喜ぶべし、茲に神の救いは現われたのである。即ちこの誤れる医学を革正すべき大任を、神は私に委ねられたのみか、この過誤はひとり医学のみではない。凡ゆる文化面に亘(わた)っているのであって、今一つの例を挙げてみよう。それは多くの犯罪である。これも病気と同様表面に現われた結果であり、その病原は霊即ち魂にあるに拘(かかわ)らず、それに気がつかない為、これも医学と等しく対症療法即ち刑罰を以て解決しようとしているが、これも一時的膏薬(こうやく)張りでしかないから、何程骨を折っても犯罪は依然として浜の真砂(まさご)である。故にこの魂の改造こそ、宗教以外にはあり得ないのであるから、この事も早急に気附かねばならない。以上の如き二大事実によっても明らかなごとく原因は霊を無視する処にあるので、これを徹底的に知らせる手段としての奇蹟である。(世界救世教奇蹟集・昭和28年9月10日)

霊主体従



前項に説いた如き、無機質界と人間の病気との関係をかいてみるが、即ち無機質界とは吾々のいう霊界である。そうして人間は体と霊との密合一致によって成立っているものであって、言う迄もなく体とは眼に見ゆる物質で誰にも判るが、霊は眼には見えないが、立派に存在している一種のエーテルの如きものであって、人体が空気界の存在である如く、人霊は勿論霊界の存在である。霊界とは曩(さき)にもかいた如く、空気よりも稀薄な透明体であって、無と同様であるが、実は此世界こそ無処ではなく、絶対無限の力の発生源であって、其本質は太陽の精と、月の精と、土の精との融合による、想像もつかない程の霊妙幽玄な世界である。之を仮に宇宙力と言っておこう。此宇宙力によって万物は生成化育されるが、それと共に汚穢が溜るので、それに対する浄化が行われる。恰度(ちょうど)人体に垢が溜り、入浴が必要となるようなものである。即ち地上霊界に汚濁が溜るや、それが一定の局所に集中され、低気圧という浄化活動が発生して清掃される。雷火も人的火災もそれである。言う迄もなく、人間もそれと同様、汚穢が溜れば、霊を主として浄化作用が発生する。之等を詳しくかいてみよう。

右の如く、人霊に溜った汚穢即ち曇りであるが、之は透明体である人霊に、不透明体の部分が発生する。そうして此原因には二種類ある。一は霊自体に発生する曇りと、二は体から移写される曇りである。先ず前者から説いてみるが、人霊の内奥は求心的三重になっている。之を中心から逆に遠心的に説いてみれば、中心は所謂(いわゆる)魂である。魂とは人間が此世に生れる場合、最初男性を通じて女性の腹へ宿るヽ(ちょん)である。処が魂を包んでいるものが心であり、心を包んでいるものが霊であるから、魂の如何は其侭心を通じて霊へ反映すると共に、霊の如何は心を通じて魂に反映する。此様に魂と心と霊とは相互関係で三位一体である。勿論如何なる人間と雖も、生きている間善も行えば悪も行う。その場合善よりも悪が多ければ差引多いだけが罪となり、それが魂へ反映して曇りとなる。為に心が曇り、霊が曇るという順序である。すると浄化作用発生によって曇りの排除が行われる。其過程として一旦曇りの容積は縮小され、濃度化し、体内の何れかの局所に集結する。面白い事には罪によって固結場所が異(ちが)う。例えば目の罪は目に、頭の罪は頭に、胸の罪は胸にというように相応するのである。

次に後者を解いてみるが、之は前者と反対で、体から霊に映るので、其場合最初血液に濁りが生じ、其通り霊が曇る。元来人体は霊の物質化したものが血液であり、其反対に血液の霊化が霊であるから、つまり霊体は一致している。従而(したがって)、濃度化した曇りが体に映ると濁血となり、それが一層濃度化したものが固結であり、この固結が溶解され液体となって、身体各所から排除されようとする。其苦痛が病気である。

そうして体からの移写とは、勿論濁血のそれである。然らば何故濁血が出来るかというと、此原因こそ実に意外である。というのは医療の王座を占めている薬剤そのものである。即ち薬とは全部毒であるから、薬を体内に入れるだけは濁血が作られるという訳で、何よりも事実がよく證明している。それは病気が医療を受け乍ら、長引いたり、悪化したり、余病が発るというのは其為で、別に不思議はないのである。

そうして体にある濁血が、霊へ映って曇りとなり、之が病原となるとしたら、実は病気を治す方法自体が病気を作る方法という事になる。処が万有の法則は霊が主で、体が従であるから、病気は霊の曇りを解消しない限り、全治しないのは当然である。処が我医術は此原理の応用であるから、霊を浄める事によって、病気は根本的に治る。それで浄霊というのである。其理を知らない医学は、霊を無視し、体のみを治そうとするのである。従而、何ほど進歩したと言っても、一時的治癒でしかない。何よりも事実を見ればよく判る如く、医療は根治が出来ない。一旦治っても殆んど再発する。例えば盲腸炎の場合、患部を剔出(てきしゅつ)するので、盲腸炎は起らないとしても盲腸に近接している腹膜炎や、腎臓病が起り易くなる。之は全く霊の曇りがそのまま残っているからで、再び濁血が作られ、位置を変えて集溜するからである。

そうして濁血の変化であるが、濁血が不断の浄化によって、一層濃度化するや、血粒は漸次白色化する。之が膿である。よく血膿と言って膿と血液が混合しているものは変化の中途である。尚進むと全部膿化する。よく結核の喀痰が血液の混じっているものと、そうでないものとがあるのは、右によって判るであろう。又医学に於ける赤血球と白血球というのもそれであって、それを食菌作用と医学は言うのである。

以上によって、霊体の関係は判ったであろうが、愈々(いよいよ)黴菌の発生源に移るとしよう。(結核の革命的療法・昭和26年8月15日)

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