メシヤ講座・特選集no.105(平成21年10月分)

<メシヤ様対談記・14>

メシヤ様が教団内外の人々との間で執り行われた対談内容は、私達の御神業推進の方向を再確認させていただけるものです。数多くの対談記中から、「世界救世(メシヤ)教」開教後になされた内容を順次掲載いたします。

明主様(メシヤ様)をお訪ねして語る
文芸春秋誌顧問 日置昌一氏
同編集局次長 近藤利弥氏

(栄百八十六号 昭和27年12月10日)

去る十月二十五日、我国の文学雑誌のナンバーワン「文芸春秋」社から、同社顧問日置昌一氏と明主様(メシヤ様)との御対談を同誌に載せたいとの意向にて、日置氏と同社編集次長近藤利弥氏が来訪された。

日置氏については今更御紹介申し上げる迄もなく、ラジオで子供達から「ものしりおじさん」の愛称で親しまれている博識の人である。その風采は明主様(メシヤ様)がよくおっしゃる苦労人博士、といったタイプである。

この日の御対談は碧雲荘の応接間で行われ、本教顧問松井誠勲氏の姿も見えていた。

明主様(メシヤ様)と「ものしり博士」との御対談は、絶えざる爆笑の裡に二時間もの長きに及んだ。以下この日の御会話の一部を茲(ここ)に集録発表させて戴きます。

キリストの奇蹟くらいは弟子がやる

日置氏 本日は、かねがねメシヤ教について不思議に思っていることをいろいろおたずね致したいと思います。

先ず観音教をメシヤ教とお変えになられましたのはどういう理由でございましょうか。

明主様(メシヤ様) 私は世界人類を救うのが目的ですから、その名も世界的でなくてはならぬと常々思っていたからです。つまり観音教では東洋だけに限られているからです。それから私は「メシヤ」という名前が非常に好きなのです。しかし仮名の「メシヤ教」では誤解を受けてはいけないと思って、漢字の「救世」に仮名をつけたのです。愈々(いよいよ)時期が来たと思って変えたのです。

日置氏 農村の方面にも食糧増産とかいろいろの事をなさって居られる様ですが、・・・・・・尤(もっと)もメシヤ(飯屋)教ですからね。(大笑)

明主様(メシヤ様) 兎に角(とにかく)、肥料を全然使わないでやると米の五割増産は何でもありません。その上、できたものがおいしくて大きく出来ます。根本は肥料を使わずに、土の性能を生かす事です。

 近藤氏 荒地でもいいのですか。

明主様(メシヤ様) つまり肥料をやるから荒地になるのです。酸性土壌も肥料の為です。肥料は丁度麻薬と同じです。麻薬を使うと一時気持がよくなるでしょう。それと同じで肥料やれば一時、三年や五年はいいのです。

近藤氏 肥料と麻薬を全面的に否定なさるわけですね。

明主様(メシヤ様) そうです。

 近藤氏 救世(メシヤ)教の信者さん達は少しも薬を使はず病気を治しているのですか。

 明主様(メシヤ様) 薬は全部毒だからです。毒で病気症状を抑えるのです。だから病気は薬が余計に入った程治りにくいのです。肺結核でも百人中九十三人までは治ってますが、残りの七人がいけないのです。というのはこの七人が一番薬を入れているのです。

日置氏 世間では何万人という中から、一人二人が間違った場合に大袈裟(おおげさ)にいっていますが、医者の方はもっと殺してますからね。

明主様(メシヤ様) それで心臓の手術が成功したとか、死人の目玉をくり抜いて移植して治ったという様なことは、われわれの方からいうと子供だましみたいなものです。あれは医学なるものを信じさせる為の慣用手段です。この間画家の吉井さんの、四年間悪い目が五分で治ったということがありました。ですからキリストの奇蹟位のことは私の弟子が毎日やっています。

近藤氏 そうすると薬屋さんやお医者さんは救世(メシヤ)教を商売仇に思うでしょう。そして大変困ってしまいますね。

明主様(メシヤ様) ですから私はお医者さんは、どこにゆくかということを考えています。いずれ、世界的に薬屋や医者がなくなりますから、その救済事業は難問題ですね。

近藤氏 今御家族様は?

明主様(メシヤ様) 子供は六人あります。嫁に行ったり嫁を貰ったりして孫も数人できています。

近藤氏 貴方の宗教の方とは関係ないのですか。

明主様(メシヤ様) 関係しているのもあるし、関係していないのもあります。それも私は本人の希望にまかせています。

 近藤氏 子供様方の御家庭では、病気の時等医者にかかると言うような事はありませんか。

明主様(メシヤ様) 絶対に医者にはゆきません。若(も)し、薬を服んだら親子の縁を切るでしょう。

今にアメリカ一の美術館を作る

日置氏 話は変りますが一個の宗教家が美術館を作ると言う様なことは今までに余り聞きませんが、貴方の場合どう言う御動機で造られたのですか。

明主様(メシヤ様) これは動機とは言えないかもしれませんが人間というものは始終生まれ変って来るのですが、私は聖徳太子に生まれたことがあるのです。大体日本で仏教を弘めたのが聖徳太子で、それは何でやったかと言えば美術によってやったのです。しかしあの時は日本だけですから、今度私は世界的に聖徳太子と同じことをやるのだと言っているのです。箱根の美術館というのはその最初なのです。

二、三日前にアメリカに長く居る日本人ですが、その人が来て、「アメリカに私のところにある美術品を持って行って、是非巡回展覧会をしたらいいだろう」と言うので、私は「今にアメリカにも美術館を造る」と言ってやったのです。今アメリカにある美術館を相当調べてみましたが、私から見れば、ただ名ばかりのものです。私はアメリカ一のものを造ろうと思ってます。

 日置氏 世間では、僅かの間に巨万の富をつくられたことに対して疑問に思ってますが、金儲けの秘伝とでも申しますか、それは何でしょうか。

明主様(メシヤ様) 一番の根本は病気が治る事です。大病院や立派な医者にやって貰ってだんだん悪くなって死の間際まで来たのを、私の弟子が行って命を救われるからその感激は大変なものです。それで何をやるにも教団でやることには金を上げなければならない気持になるのです。それから搾取的なことはやってはいけないと常に言っています。御利益を戴いている人は金の御用を待っている位です。美術館も五千万円くらいかかりましたが、それも去年の十一月あたりに話して、できたのが今年六月です。それだけで全部できたのです。

 日置氏 造幣局はメシヤ教の為にできている様なものですね。(大笑)

 近藤氏 選挙前は代議士が金を借りに来ませんでしたか、よく聞くことですが自由党の吉田、鳩山が大分金に困って、両方とも子分をつくるのに金が要るので借りているという話ですが。

明主様(メシヤ様) 来ませんね。

日置氏 僕が代議士だったら、お伺いするかもしれませんね。

明主様(メシヤ様) 兎に角、私の方は世を救うという大きい仕事がありますので、金には苦しくて年中ピーピーしています。それから再来年は熱海に箱根のよりも大きい美術館を造るのですから、それについても色々買わなければならないから金の苦しさは大変です。その代り借金の催促の苦しさではありません。夫(それ)からこういう事がある。アメリカが最近とても日本の古美術品を欲しがっているのです。「これを貴方の方で買って呉(く)れなければアメリカの方に売る」と言うので、これはどうしてもおさえなければならないというわけです。今月に入ってからも素晴しい仏像でそう言うのがありました。

松井氏 金森徳次郎(国立国会図書館長)さんがとても感謝しておりました。

明主様(メシヤ様) そういう美術品を買わなければならないから大金が要(い)ります。それで又いろいろこっちが経営しているものもありますからね。

阿部執事 必要な金だけは不思議に集まりますからね。

松井氏 メシヤ教の信者から出た代議土が三人ありますが、これにも金はやってありません。明主様(メシヤ様)から浄霊して戴いて、これで大丈夫当選だというわけです。(大笑)

明主様(メシヤ様) それですから私のところに来る人は、みんな運が良くなるのです。

日置氏 近藤君、僕らも来ましょうかね。

明主様(メシヤ様) 徳川夢声さんも私の方に来る様になってから、余計良くなったやうです。そういう訳で金は集まりますが、出る金も大変ですよ。

近藤氏 国税庁が目を光らせるでしょうね。

 明主様(メシヤ様) しかし宗教法人ですからその点は良いです。宗教になりたての時分は、理解がゆかずにかなり税務署から目をつけられましたが、美術館を造ったりしたので、ああこれだなという事が分ったのでしょうか、今は全然ありません。それに美術館は関係方面でも大変好感を持たれています。

 日置氏 文化への貢献ですからね。

明主様(メシヤ様) 博物館では予算が足りないので外国に流れる貴重な美術品も買えないというのです。それで、私の方で買って保存してくれるというので、実に国家の為になるというのです。それで文化財保護委員会も便宜を図って援助して呉れます。

『アメリカを救う』は間題になる

 日置氏 なお現在のこういう時代に、いろんな新しい宗教に国民が魅力を感ずると言うことは、結局従来の日本の宗教に根本の魅力がなくなったということにあるでしょうし、又一つには国民が苦しんで淋しいのですね。

明主様(メシヤ様) 無論そうですね。

日置氏 ですから単にすべてを迷信邪教と片附けるのは間違っている。やはり本願寺も天理教も初めは随分いろんな法難に遭い、日蓮宗もそうですし、キリスト教もそうですからね。

明主様(メシヤ様) 宗教には法難はつきものですね。一番法難に遭ったのはキリストでしょう。命までやられたのですからね。ところがその教が一番世界に拡がったのです。ですから法難の酷(ひど)いほど価値があるのです。

日置氏 人の心理というものは面白いもので、私の方でも、本が出て非難されると売れるのです。悪口言うと一種の広告になるのですね。それで印象に残るのですね。

明主様(メシヤ様) チャタレーのアレを見ても分ります。私がこれから出そうと思っている本があるのですが、きっと問題になると思います。問題になったらしめたものです。屹度(きっと)売れることになりますね。来月あたり出来ますが“アメリカを救う”という本です。

日置氏 なるほど、今度は逆ですね。

明主様(メシヤ様) アメリカの病人は大変なものです。統計では現在医者にかかっている者が千七、八百万人いるのです。(全アメリカ人口の一割以上)それによってアメリカが一番困っている病気を、それは何の原因で、どうして治す、ということをすっかり書いて、大統領始め有識階級、大病院、医者に配るつもりです。今翻訳してますが、日本文の方はもうすぐできます。

日置氏 人間というものは直接お会いしていろいろ話さなければ駄目なものですね。

明主様(メシヤ様) 百聞は一見に如(し)かずですからね。

 日置氏 そうですね。来て良かったですね。

 明主様(メシヤ様) 私もあなた方指導者に知って貰うということが一番良いと思います。

 日置氏 いや、いや、どうも・・・・・・。

ビフテキ食べてかいた画

近藤氏 美術は主に古美術ですか、それとも近代美術の方ですか。

明主様(メシヤ様) 両方やってますが、現代美術はいけないです。それでつい古美術の方になるのです。

日置氏 どうも精神的なものがないですからね。手先の技術ですからね。

 明主様(メシヤ様) 現代の画家の画は筆に力がないのです。それは現代の美術家の不断の生活が違っているのです。力というものは食物が大いに影響するのです。ビフテキを食べたり牛乳を呑んだりしていては、力は出ないのです。それで仕方がないので塗抹絵(とまつえ)になるのです。今のはそれです。

 近藤氏 外国の古い絵などは如何ですか。

 明主様(メシヤ様) 油絵にも良いものがあります。イタリーあたりには素晴しいものがありますが、私の持論は外国の絵は芸術ではなく、芸術と工芸品の中間のものだと言うのです。遠慮なく言えば高級家具です。それで日本画とか東洋画は本当に楽しむものです。そうして季節によって換えるという風に、本当に芸術を楽しむというものです。西洋のは年中同じもので、中には一生涯一つのものを掛けている人もあるそうです。

日置氏 宗達(そうたつ)あたりの、あの雄大さというのは、芸術と言うより精神力ですね。ああいうのは現代の画にはないですね。特にお宅では宮本武蔵の達磨(だるま)と牧谿(もっけい)の「かわせみ」をお持ちとのことですが、あれは名品ですね。

 明主様(メシヤ様) 宋時代のは殆(ほと)ど坊さんですから、坊さんというのは、山に入って菜葉に麦飯を食って行をした。それが画くのですから断然違うのです。要するに菜食して精進せねば駄目です。

日置氏 画くのでなく気魄(きはく)ですね。

 明主様(メシヤ様) そうです。宮本武蔵も剣を筆に変えたものです。宮本武蔵の絵には私は頭が下りますよ。

日置氏 今の人のは生前は値段は高いが、死ぬと下ってしまうのが多いですね。

 明主様(メシヤ様) いや、生きているうちに下っているのがあります。横山大観のは、私は二、三年前までの物は買いますが、今のは駄目です。アル中だからでしょうね。

恋愛は限界がむつかしい

 日置氏 では最後に一つ教主様の恋愛観を承ってみたいと思いますが、・・・・・・どうかそのことについて・・・・・・

 近藤氏 熱海ではいろんなサンプルが一ぱいありましょうから、そんな事からでも。

明主様(メシヤ様) 併し今では爺さんですからね。兎に角(とにかく)恋愛は非常に良いです。あれは神が人間に与えられた大慈悲と言いますか、恩恵と言いますか、そんなものです。ただ恋愛もある程度に制限すれば結構ですが、その限界を突破するから悲劇が起るのです。ですから、限度を外さない様にすれば、恋愛は大いにやるべしです。(大笑され乍ら)しかし限界で止められるのは本当の恋愛ではないかもしれません。(一同大笑)

 日置氏 確かにそうですね。

 明主様(メシヤ様) 私は若い頃恋愛の極致と言いますか、情死の相談までにいったことがありますが、その時に情死する者はこういう心境だなと思った別の私があったのです。オレは経験した、これでいいというので、私の理性が力強く解決してしまったのです。その時私は“自分は偉い”と思ったのです。普通人ではできない。オレにして初めてできるのだと思ったのです。

 日置氏 では徹底的に失恋でなく得恋ですね。

 明主様(メシヤ様) それまでは、心中する奴は馬鹿だなと思っていたのですが、これはオレは今まで考え違いしていた。馬鹿とは言えない。確かにこれから進めば危険だということが分ったのです。つまり恋愛哲学を極めましたね。

日置氏、近藤氏、では長い間いろいろと大変有難うございました。

 

≪「伊都能売観音」様入仏記念式典・挨拶≫
「人間」という存在の認識を新たに

メシヤ教代表 楳木和麿

「主神様とメシヤ様」編纂を通しての最大の慶事

おめでとうございます。今年もこうして道内各地はもとより静岡、三重の遠方からもご参拝されまして、盛大に「伊都能売観音」様入仏記念式典を執り行なわせていただけたことを心より感謝申し上げます。朝から小雨がぱらついていたのですが、今は上がり、しかも非常に暖かい中で式典を行なわせていただけて、例年になく過ごしやすい式典となり、大変有り難いことです。

さて、ただ今、御教え「世界救世(メシヤ)教 教義」を拝読していただきました。現在「主神様とメシヤ様」という研鑚資料を作成中ですが、その編纂作業において、この「世界救世(メシヤ)教 教義」の御教えにまだ改竄(かいざん)の痕(あと)があったことを私は発見できていなかったことが判明しました。このことが資料を作成して最も有り難かったことです。

今お聞きになって、暗記されておられる方は“一箇所少し違うなあ”とお気付きになったと思いますが、『人類救済の聖旨を』という個所ですが、元々は『人類救済の聖業を』であったのです。「聖業」というと、メシヤ様の御神筆に「神代行我聖業」があります。『聖旨』よりも『聖業』という言葉を御使用になり、聖(ひじり)の業(わざ)ということを重視されておられるということをひしひしと感じさせていただくことができます。

今回「研鑚資料」を作らせていただいた中での、このことが最大の慶事であると受け止めさせていただきました。これは12月23日の「メシヤ様御降臨祭」が発刊日になっておりますので、順次申込者にお渡ししたいと思います。その際、改めて「世界救世(メシヤ)教 教義」を見直していただければ幸いであります。

知識は実践に移してこそ活きる

また、今月各地で執り行なわれた「メシヤ講座」の内容を発信する中で、とりわけ(参考資料「メシヤ講座・三重no.24  10月」)で話題に上った“氷の結晶の比較(「水からの伝言」江本勝著・波動教育社刊)”が紹介されております。

「ありがとう」とか「感謝」という言葉を水に転写させて氷らせて結晶を撮影してみると、とても綺麗な結晶になるというものです。「感謝」は輝きまで放っています。反対に「馬鹿」とか「殺す」といった悪い言葉ですと、どろどろの結晶になっています。そういう写真集がずいぶん以前に発刊されたのですけれども、この内容に関するたくさんの反応がありました。

「私も本を持っています」とか、「以前見ました」というメールを多くいただいたのです。そして「存じ上げております。これを日々の生活を営んでいく上での参考にしなければいけませんね」というメールもいただきました。

ここで一番大切なことは、ほとんどの方々が「へーこんなことがあるんだ」というところで留まってしまって、「それだからこそ我々は言葉に気を付けなければならない」「良い言葉を絶えず心掛けるようにしよう」という実践に結びついていない方が非常に多く見受けられました。「私は取り組んでいます」というメールをくださったのは数名の方でした。

こういうものを持っているだけ、あるいは見ただけではどうしても宝の持ち腐れになってしまいます。とすると、この写真撮影に取り組まれた人に申し訳ないと思います。こういうものを通して「言葉」「文字」というものにどれ程の働きがあるかどうかということを認識できるのですが、写真を撮るとういことは唯物的なアプローチの仕方です。

唯物的なアプローチではありますが、人間がそれを見た時に「あーなるほど、それほど言葉、文字というものは大事なのか」と認識できる訳です。

「神界通信」を日々確認して進んでいただきたい

それから、ここで三人の方が出会って神界からのメッセージをいただきました。

メシヤ講座・特選集no.64(平成28年5月分)に掲載した「神界通信」に収録されています。その内容は、専門家からも好評でありました。非常に貴重な内容です。そして、これは非常に神秘的なことが重なって許されたことではありますが、すでに50年も前に御教えによって示されている内容です。すでに拝読したことのある内容なのです。しかし、霊言として新たに賜ると“凄いことだ!”と認識いたします。

これも謂わば唯物的なことなのです。御教えで認識している内容なのに、神秘的に聞かされると真剣に受け止めるのです。形となった時に心を新たにする、ということが唯物的なのです。(霊的なことなので唯心的な考えのように思えますが、実は唯物的な再認識になってしまうという意味です。)

しかし、『時期が来たからこそ賜った』と受け止めたので、決意を新たにすることができたのです。しかも、札幌支部の責任者に参拝を続けていただくようにお願いしてすぐの出来事なのです。そうであるからこそ更にこの場での毎月26日の御参拝に心をこめて取り組ませていただいて、“北海道の御神業というのはこの伊都能売観音様の御許(みもと)を中心にしてさせていただかなければいけない”という思いをふくらませていただいております。

そして、こうして毎年一回は北海道以外からもご参拝いただいて「記念式典」として取り組ませていただいているのです。

改めて申しますと、こういう神界からのメッセージをいただいた時に私達は“大変有難い”と思って、そのお言葉に沿ってより御神業に取り組みたいというように考える訳ですけども、ともするとこのメッセージをですね、日々新鮮なものと受け止めることができないという人間的な弱さの面もあります。

これはですね、何故今、世界がおおよそキリスト教文化圏でリードされているか、と考えてまいりますと、その根っこに遙か昔からのユダヤ教があります。何故、ユダヤ教が世界にこれだけ影響を与えているかというと、ユダヤ教の家庭では数千年前の神話、奇蹟を各家庭で昨日のことのように語り継いでいるということがあります。ユダヤ教の歴史は約六千年余、キリスト教の歴史は約二千年余ですけども、ずーっと受け継がれているということを知っていただきたいと思います。

神界からの通信というのを日々新たな気持ちで思い起こして、そして子孫に伝えていくという取り組みがずーと続けられているということを、我々の学びの一つにしておかなければいけないと思います。

まあ日本人はそういうことが弱いところでもあります。現代人は新しいものに飛びつくところがあり、飽きっぽいというところがありますからね。

感性の豊かな人がいらっしゃる訳なのですけれども、感性が豊か過ぎると真っすぐに正神から流れてくるものと、あるモノを経由して流れてくるものが頻繁に起きてくるので、次から次へと求めていくという心理現象を起こしてしまいます。

しかし、このようにここでいただいた神界からの通信というのは“滅多にいただけるものではない”と受け止めて、それを“日々確認する”という、そういう心掛けが必要な訳であります。

これをまた、今日のような記念式典でより心に持っていただければ大変有難いと思います。

実在の神様を認識させてゆく

そして一方、メシヤ様が説かれた「信仰」というのは「既成宗教」的ではない、あるいは「既成概念」で構築されているものではないということです。例えば「メシヤ様を信ずれば必ず救われる」というような信仰ではないのです。「あなた信じないからダメなのよ」という信仰でもないのです。

これはどういうことかというと、今回のメシヤ講座・特選集の『メシヤ様対談記・13』の中でメシヤ様がはっきり述べられておられるのは『メシヤ教の目標は、最高の文化です。寧ろ文化を指導する位の権威がなければならないのです。』ということです。それから宗教というのは『最高の科学』なんだということも示されております。

そうすると、宗教は最高の科学だという見地から考えてゆきますと信ずるという世界ではない訳です。信ずるという世界ではなく「認識」の世界になってくるのです。

それはどういうことか言いますと、この前皆既日蝕がありました。皆既日蝕はどうして起きるかというと、地球と月の距離の400倍が地球と太陽の距離だということがあります。そして月の大きさの丁度400倍が太陽の大きさであるということがあります。この400倍ということがあるので皆既日蝕ということが起きるのです。

これを「不思議なもんだねー」と思うとそれだけで終わってしまうのです。そのように作られた数字というものがあるのだと。ある絶対的な存在がそのように仕組んでいるのだ、ということを科学的に解明することによって絶対的な存在を認識することができます。

そこでは信ずるというよりも絶対的な存在を認識するということなのです。

だからメシヤ様は『浄霊の力は信じなくても良いんだ。疑っても良いんだ。しかし、試してみなさい。』という御立場です。その試すことによって事実として奇蹟がいただけます。私達の信仰というのは実はそういう信仰なのです。(ですから、浄霊を有り難がるだけに留まってはならないのです。浄霊力を授けてくださった神様の御言葉である御教えを拝読して、それを実践し、自らの価値観として構築してゆかねば何にもならないのです。)

実在の神様を認識させてゆく。そういう信仰なんだということをこの機会にもう一度心に留めておいていただきたいと願っています。

それは今宇宙には宇宙ステーションがあり、随分と建築が進んでいます。そして若田光一さん(JAXA 宇宙飛行士)が「文芸春秋11月号」に寄稿していて、興味の尽きない話を紹介しています。中でも、45分毎に昼になったり夜になったりする生活をしていたというところは、印象深いものでした。宇宙空間には絶対的な法則が存在するというものを思い知らされます。

これは、90分で地球を一周するスピードでないとあの高さを維持できない訳です。それよりスピードを上げると地球から離れて行ってしまいます。スピードを落とすと地球へ近付いてくるということになります。ですからあの高さを維持するためには90分で地球を一周するスピードでなければならないのです。ですから45分で昼と夜が入れ替わるのです。(参考「メシヤ講座・浜松」)

これはですね、先程述べましたことと同じで、信ずる世界とは違う訳です。そうでなければ必要な高度を維持できないということです。そこには、宇宙の法則というものがあるのだということです。

ですから、私達が信仰の対象とさせていただく主神様、メシヤ様はそういう絶対的な法則を創り出された御存在なのだということを、この機会にもう一度ご確認いただきたいと思います。科学が進歩して、宇宙の法則とか地球の中で起きていることを一つひとつ解明するごとに、私達が神様に向かう姿勢というものも高めてゆくような、深めてゆくような、そうした信仰をですね、是非築いていただきたいと思います。

絶対性を認識させていただけるメシヤ様との繋がり

昨日も霊現象の激しい方と面談をしたのですけども、どうしてもですね、理解できていないのは霊障を受けるという概念を自ら持ってしまうということです。これは人間という存在を実は解っていないところから来るのです。人間という存在の偉大さを認識していない、ということになってくる訳です。

何故かと言いますと、例えば、日本の「家」というのは50年経っても100年経っても人が住み続ければ朽ちません。しかし、空家にしていると酷い時は10年くらいで屋根がごそっと落ちてきます。

人間が住んでいることによって家というのは100年でも500年でも存在し続ける。これは御教えにありますように、人間の霊気を吸収して家というのは生命力を保っているのです。

こうしたことに思いを向けてみると、家を維持することができる程、人間というのは実はとてつもなく素晴らしい存在なのだということです。木造が主体ですが、それだけの物を生かし続ける霊力というのを人間というのは発散し続けているのです。

それだけ素晴らしい存在なのに霊障ということが何故起きるかと言いますと、これは自覚の問題です。人間はそれだけの素晴らしい霊力を発散しているのだという意識が薄れた時に影響を受けてきます。(最初から自覚してない場合が多いのですが・・・。)

しかも霊障というのはいろんな想いが寄ってくる時に動物霊に乗っかってくる場合が多い訳です。乗っかてきた動物霊にやられるということは人間性が弱くなっているのです。

昨日は、かなり長い時間そういうことを繰り返し繰り返しお話しすることによって、そういうことが認識できたために霊障を乗り越えることができるようになりました。(そして、その根底に歪な親子関係が内在しており、無意識のうちに精神の癖が浮き出てくるということの認識ができ、修復への在り方が自覚されました。また、動物霊の影響を受けないための、清掃をはじめとする生活上の心得を確認し、取り組みの方向性が明確になりました。そして、浄霊をいただくことは勿論のこと、実践を継続するための御力をいただくために支部の月次祭へ参拝をすることも約束し、道が開かれたのです。)

これは、人間という存在がこの地球の中で38億年の時間の経過を経て、最後に完璧な存在として出てきたからこそ、素晴らしい力を持っているということです。

そういう認識をするための知識を学校教育とかあるいは科学的な文献によって自分達は得てきてはいるのですけども、自分の思考の中で構築しなおすという作業をしていないために、どうしても霊現象に影響を受けるような人間になってしまっているということなのです。

ですから、絶対性を認識させていただけるメシヤ様という御存在に繋がることができた私達は、人間としての存在というものをより高いものにしてゆくという作業を日々の生活の中で進めていただきたいのです。実はこれが信仰生活なのだということです。

神様に祈ったりしていることのみが信仰生活ではなくて、神様から教えられたことを日常生活の中で整理してゆく。自分はどういう生き方をしていったらよいかということを組み立ててゆくことが実は信仰生活なのだ、ということを今日の機会に新たに持っていただけますと、この「記念式典」がさらに意義あるものとなってまいります。

簡単ではございますが、そういうことをお願いして私の挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございました。(要旨・カッコ内は加筆した部分です。)

≪質問者へ返信メール①≫
質問者へ返信した数多くのメールの中で、この時期に普遍化したいと思われる内容を抜粋して掲載します。個人が特定されないようにするために質問メールは掲載しません。そのために解り難いところもありますが、ご賢察ください。

私が教団紛争から得たもののうちに、中村総長(当時)の所信表明を支持することを高知県本部で発表すると同時に、言霊が見え始めた小学生(当時)を許されたことがあります。一人が最も顕著でしたが、同時に10人ほどが突然見え始め、集団浄霊の御光の出る様子、教団施設への参拝時に参拝者がいただく御光の様子、『活字の浄霊』が如実に解る御教え拝読時の御光の出方、想念によって繋がる霊線の様子、等々も併せて見えたのです。

唯物的ではありますが、そうしたことから「教団護持委員会」(当時)支持の専従者は緊張を強いられました。御教えそのものの在り様が見えるので、随分と指摘を受け、姿勢を正されました。

以前のメシヤ講座にも部分的には掲載しています。

現・主之光教団の前身である「教団護持委員会」は、発足当初にはそうした御教えに関する再確認である現象が継続してありました。報告がある毎に真摯な姿勢になったものです。そして、その事を継続して覚えている者と認識の中から消し去った者とに分かれ、やがて覚えている者が減少してゆきました。また、“知っている”のみの状態、“そういうことが続いた”という感懐の世界に留まっている状態になってしまいました。

せっかくのメッセージを忘れてしまう、あるいは記憶が薄れてしまう、ということが清々しい集団がそうではない方向へ変貌する分岐点です。この点、既成宗教には学ぶべき点も存在します。

ユダヤ教などは、例えば2000年前の話であろうと昨日のことの様に信者家庭で語り継がれます。ですから、一度顕現していただいた奇蹟や不思議体験を忘れないということが重要なのです。こうしたところに宗教の原理ということを心得ておかないといけない点があります。残念なことに概ね認識の弱いところがあります。

また、神憑り的なことが現れた場合に、その瞬間は感動し有難く受け止めますが、時が経つと次のものが欲しくなります。世紀の大発見的な内容であろうとも、感動が薄れ興味が他へ移ろうのです。

しかも、注目を浴びている時は良いのですが、想定外にそうした事態が変化した時には活動力が鈍るのです。

霊憑り的なことも同様な点がありますが、こちらの困るところは、やがて自分で物事の判断をすることができなくなる場合が生じます。全てに亘ってお伺いを立てないと不安になってしまいます。

≪質問者へ返信メール②≫

私が「岡田茂吉全集」を手にしてみたところ、最も残念に思うことは宗教学者に解説をさせている点です。奇蹟と言われる現象は理解できる、という段階ではダメなのです。それは宗教というものは究極的な価値を提示するものであり、本教の場合は実在する神様を体感できる訳ですから机上の論理ではないのです。

現代社会においては人権に関する問題が指摘される表現が御教えにあることは確かです。しかし、これは時代性によるものですので、弁護士と学者による助言を受けて但し書きを添えることに終始すれば良いのです。しかし、残念な形にしてしまいました。

私は、「教団護持委員会」(当時)時代に東奔西走し、そのことを中村総長(当時)へ報告する機会が多く、そうしたことが重なることで、全論文集(かつての教学委員会及びMOA研究所による定稿・未定稿)を手にすることができたのです。

また、総長室に保管されていた御教え(ガリ版刷りの御教えまでありました)を全てコピーさせていただきました。これには教義の草稿もあり、色の順位(これは祭服などに今後応用したいと考えています)などをまとめたものもあります。まとめたというより、収録に留まっています。

しかし、そうした貴重品が今日の御神業の礎になっていることは勿論ですし、それがなかったらメシヤ教創立もできませんでした。

全集は、確かに、文字の扱いに粗雑な点もあり、主観的なマーカーも多く入っています。そして何より教団としての信仰形態が曖昧なままに編纂したことが見て取れる内容になっています。

こうしたことを改めるべく様々な作業を進めています。(それが、前回掲載した内容でもあります。)

≪質問者へ返信メール③≫

週刊新潮(10月22日号)を読みました。

この中で重要なのは白鷗大学の石村耕治教授が指摘する「アメリカでは、特定の政治家、政党を支持する宗教団体は税制優遇の特権は受けられません。日本でも同じような法律をつくるべき、という議論がありますが、藤井大臣が今回のようなことをしているようでは、法改正は望めないでしょう」という点です。

民主主義の手本としてきたアメリカで執られている施策を、この機会に問題意識の一つにしなくてはなりません。それは、今回の総選挙では政局と宗教の問題が深く印象に残ったからです。幾つかの視点がありましたが、自民党と公明党が惨敗したことについては、様々に論評が加わりました。それは現代日本の大きな課題となっています。また、「幸福実現党」が一人の当選者も出すことができなかったこともショッキングなものでした。

さて、「週刊新潮」で報じられた世界救世(きゅうせい)教に関する内容は、更に問題意識を深くさせられるものでした。「いづのめ教団」が改革派であると位置付けられた誤認識の内容。「主之光教団」の正しい名称すら認識されていない現状。そのどれもが、宗教と政治の問題と共に驚愕されるものでした。

この点において、「東方之光教団」と「主之光教団」が「週刊新潮」に謝罪の申し入れをしなかったならば、両教団とも“抜け殻教団”と化してしまったと言わざるを得ません。

本来宗教界は政局に対して高い見地から解説を加える立場にあるのです。あるいは判釈(はんじゃく)を与えなければならない立場なのです。次回の「メシヤ講座・特選集」の<メシヤ様対談記・14>を拝読すると、メシヤ様の政治に対する御姿勢がお判りになると思いますので、是非楽しみにしていただきたいと思います。

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