メシヤ講座・特選集no.106(平成21年11月分)

<メシヤ様対談記・15>

メシヤ様が教団内外の人々との間で執り行われた対談内容は、私達の御神業推進の方向を再確認させていただけるものです。数多くの対談記中から、「世界救世(メシヤ)教」開教後になされた内容を順次掲載いたします。

実談・虚談 神がかりな話
日置昌一氏との対談の続き(前半)


(栄百八十六号 昭和27年12月25日)

口寄せに頑固だったスターリン

日置氏 どうも新興宗教というと、霊媒とか口寄せとか、いささか神がかりなことが多いので、ついまゆつばみたいな感じになるんですが、私、璽光尊とは、いろいろ縁があったんで、何度か会ってますけど、これはどう見ても、立ち居振舞いがただの人間じゃない、神様ですよ。それに引きかえ、ここの教祖さんは、まあ、ただの人間ですね。

明主様(メシヤ様) 私は大体神様ぶるのがきらいなんです。窮屈な、いやにてらったりするのはね。大体どんなに偉くても同じ人間なんだから、人間としての扱いをするのが、先もよしこっちもよし、それで気に入らないやつは勝手にしろ、という気持だね。「もう少し重味をつけてくれなくちゃ、どうも有難味がないから困る」と、ちょい、ちょいそういうことを言われるが、いや、ワシはそういうことは大きらい、それで気に入らなかったら、よしたらいいじゃないか、と突っぱねてしまう。今でも教祖なんていうと、ナンか神々しくてね。

日置氏 璽光尊なんか、見ただけでも気どって、神々しくたいへんなんですよ。

明主様(メシヤ様) 私は、それをしない。今でもワイ談を大いにやりたいんですが、信者のいるところでは、どうも具合が悪い。

日置氏 しかし、ああいう口寄せという奴、璽光尊がよくやっていたが死んだ人を呼び寄せたり・・・・・・本当に出来るんですか。こっちの戒名と死んだ人名をいうと、すぐ巫女さんが死んだ人になっていろいろやる。死んでから四、五年の人はすぐ十分ぐらいで呼び出すが、古い人は二十分もかかるらしい、地獄も大分混雑していると見えてね(笑声)。

明主様(メシヤ様) それは霊の階級による、よい霊だと早い、何百年前でも一分かからない。私も、そういうことはできるけれどもやらない。私は低級の霊とかはしないんです。その霊の中の親玉のやつをやる。二十五年に静岡の刑務所に入った時に退屈ですし、静かでちょうどいいと思って大いにやりましたよ。その時にスターリンの霊も呼んだ。共産主義は間違っているからどうしてもよせといったら、スターリンいかにしても、がんとしていうことをきかない。毛沢東は割合に素直だった。あれはいずれソ連と離れる。これは時間の間題だということになった。だから、とうとうスターリンは改心しないうちに死んじゃった。それから釈迦、キリスト、大本教祖、天理教の教祖もやったし、弘法大師も呼びました。

日置氏 ホホウ、それでは教祖さんはソビエト語、中国語、ユダヤ語、なんでもペラペラというワケなんですな(笑声)。じゃ少しも退屈なさらなかったでしょう、むしろ出獄するのが惜しいくらい(笑声)。

生れながらの能力

明主様(メシヤ様) ぜんぜん退屈しません。ごく特殊な信者には話くらいできるが、あまり世間へ知られると、いわば璽光尊的な宗教視される。それではダメで、むしろ、さわりになるので、あくまでも普通にやってます。

日置氏 大本教の王仁三郎さんもやってたのですか。

明主様(メシヤ様) やってた。

日置氏 ああしたことは修養をつめば出来るものですかね。

明主様(メシヤ様) 修行をして出来るのと、生れながらの能力と二つある。璽光尊など、生れながら、そういう能力をもっている。修行したのでは、ある程度までしか出来ない。

日置氏 ぼくなども出来ましょうな。ボクだったら迷宮入り殺人事件の被害者を片っぱしから呼び出すね。そして犯人の名を言ってもらう。そうすりゃ警察の捜査もヘチマもない、ピシピシ判ってしまうワケですからね。人助けだし、第一、こうなったら悪い事をする奴なんかいなくなりますよ。ところが石川五右衛門の歌じゃないが、浜の真砂と悪人の数はいっこう減らない。フシギですね(笑声)。

明主様(メシヤ様) あんたは口寄せの様なことは出来ない。ぽおっとしたバカみたいな人間がかえって、そういう能力があるね。わたしはある程度までやると、もう興味はなくなっちゃう。分かっちゃうから。

日置氏 実際、璽光尊あたり、あまり偉くなって我々と違った世界の人になってしまっている。会うなり頭から「日置、しばらくであった」(笑声)はじめっからこれなんだから、こっちは「ははあ」とかしこまるほか処置なしですよ。

明主様(メシヤ様) 私は、それはきらいで、俗人でも結構だと思ってる。それに一切秘密なしというのが、私の主義だ。ところでメシヤ教だって、外国人が信仰し出したら日本のインテリも、みんなついてくるよ。日本人を認めさせるには、まず米国人を先にする方が早い。(笑声)だから、こんど米国に手をつけてみようと思っている。

米国人をメシヤ教に帰依させる

 日置氏 日本人は、日本人よりも米国人を信ずるからね。

明主様(メシヤ様) 何でも舶来という。宗教も舶来でなければだめだね。絵だって見るでしょう。いつも日本人は自分のよさが分らない。私は米国は機械文明はたいしたものだと思うが、芸術や、美術は日本が先だよ。マチスやピカソを大騒ぎするが、これは、日本の光琳から変って来たんだ。ルネッサンスは光琳がぶち壊した。フランスに“世界を動かす光琳”という本がちゃんとある。それを見ると光琳によって、新しい単純な形式が生れて来たんだね。そしていろんなものに影響した。とくに光琳の影響をうけたのは建築。最初にターポー、それからセセッションになって、次に未来派ができた。今度、私はコルビジューを一層進歩させたものを作っている。コルビジューには、ちょっと安っぽいところがあるけれど。それから画壇も印象派ができてセザンヌ、ゴッホなどがはじめて生れたのだが、みんな光琳の影響をうけたわけだ。その後、写楽、北斎、歌麿などの影響で現在のピカソ、マチス、ルオーなどが出てきたんだが・・・・・・。

日置氏 そこで『米国を救う』という本を書いたってわけなんですね。あれは第一、題がいい。

明主様(メシヤ様) 題に惚れて買ったという人がずいぶんあったよ。いずれ、そのうちに『ソ連を救う』というのを出すかな。(笑声)いま、この本の英訳が出来たが、へたに出して先で無理解なことをされると、あとでこっちの宗教宣伝に差支えるといかんから、よく調査しようと思ってる。

日置氏 題が強すぎるから、米国人は題だけで反感をもつかもしれない。

明主様(メシヤ様) そうでもない、進駐軍の人が翻訳しているから、案外いいと思う。

日置氏 題材はなんですか?

米国医学を救う書

明主様(メシヤ様) 今ね、米国は非常に病人が多い。年々増える傾向なんだ。というのは、まるっきり嘘をやっているから、ますます増える。だから、こうすれば減るということを具体的に教えるわけだ。米国の人間が、なんと日本の生意気な野郎だと思うかもしれんが、しかし、私の言う方が本当だ。

日置氏 どういうような方法ですか?

明主様(メシヤ様) つまり薬です。米国の現代医学は病気を治すのでなく、作る結果になっている。そこを衝(つ)いてある。それもね、ただ独善的ではなくて、本当にいろんな根本的理論から説いて、どうしてもそうである、それが本当だということを思わないわけにいかないように書いてある。例えば手術は米国で非常に進歩しているが、手術の進歩というものは医学の退歩だ。治らないから手術する、仮りに盲腸が悪いという場合、盲腸をとる。ところが臓器をとるということは医学ではない。臓器をそのままにして病気だけをとるのが本当の医学だ。まあ、こういうことだね。この点は日本の医学でもわたしの説に対して困っている。病気はもともと毒素がそこへ固まって臓器を圧迫するんだ。だから、その圧迫する毒素だけをとって臓器をそのままにしておく。そうすれば元通りの健康体になる。盲腸をとるとか腎臓をとるとか内部を手術するということは患者を内部的不具者にする。それを医学の進歩とはとんでもない。医学が進歩したらとる必要はない。医学が進歩しないからやむを得ずそういう野蛮的行為をするんだ。米国人は読んで癪(しゃく)にさわるらしいけれどなんともいわない。とにかく、わたしの方では、外からとれるのだから威張れる。とれなかったら、ただ理屈だけに過ぎない。

日置氏 薬も使わずに、そんなことになるというんだから、やっぱり我々常人は、奇蹟扱いするほかないですね。奇蹟なんてものの存在を、教祖さんはいつごろから信じられたのですか。

関東大震災の予言と奇蹟の体験

明主様(メシヤ様) 大本教に入って神様があるということが分った。なんで分ったかというと、奇蹟が、すばらしい奇蹟が――これはどうしようもない。私が疑がったりすると、これでもか、これでもかと出てくる。

日置氏 どういうような奇蹟ですか。

明主様(メシヤ様) 沢山あるがね。お筆先に「今に東京が火の海となる」ということがある。それを私は信じて、京橋や小田原町に当時五、六万円の二階屋があったのを三万六千円で売って、大森へ引越した。これが大正十年、それから二年経って大正十二年に、すっかり小田原町辺(あたり)は焼けてしまった。これが最初。その他に私の本にいろいろ書いてあるが、大本教に入って、信仰をやっているうちに、だんだん神様が分かってきた。大正天皇がおかくれになる時だったが、暮に私は、神がかりになった。夜十二時くらいになると、ナンカ非常にいい気持になるんだ。変だと思ってたが、なにか、しゃべりたくなる。口から出て来て、とめることが出来ないのだ。そうすると、いろんな知りもしないことをしゃべる。大体それが日本の五十万年から前の歴史で、それを書きとめておこうというんで、家内に書かした。その時、私が何のために生れたか、何の仕事をせねばならぬかをすっかり言われた。嘘とは思えないくらい、実に理路整然としている。そして満州事変とか、日本が今日のようになるということを、すっかり言われた。天皇制がなくなるということも分ったけれど、その当時は言うわけにいかない。あの時分だからね。罫紙に二、四寸ぐらい書いたね。約三ヵ月、十二、一、二と・・・・・・。

日置氏 ははあ、なるほど。

(以下次号)

 

≪解説≫
布教に対する認識を新たに

メシヤ教代表 楳木和麿

意識の高まりに呼応して進展する御神業

11月は、「伊都能売観音様入仏記念式典」挨拶の内容について数々の感想や意識改革に繋がったという声などが寄せられました。地元札幌支部からは、挨拶に引用した「霊現象の激しい方」のご本人が入会され、ご家族で清掃をはじめとする課題に取り組み始めたという嬉しい報告がありました。また、同じ札幌支部の信者さんからは「意識が新たになることで連動するような大きな御守護をいただくと共に、生業を通して御神業に取り組む方向性が明確になった」という意義深い御守護報告もありました。

そして、絶対的な数字という挨拶内容から、三重支部では貴重な学び合いをした内容の報告がありました。既にその一部が「メシヤ講座・三重no.25」でアップしていただいていますが

「ミニ・メシヤ講座」で出た話題で、絶対的な数字、人知を超えた数字ということで、インターネット上のあるサイトでの記述で

○ 大ピラミッドの高さ×10億=1億4700万
・・・これは地球~太陽の最短距離に相当する

○ 大ピラミッドの重量×100兆=地球の質量

というのがありました。

に代表される内容です。

皆さんの意識が高まっている様子がヒシヒシと伝わってきて、身の引き締まる思いがする昨今です。そうした高まりの中、広島支部が移転する運びとなり、更に広い御神前を許されることとなって11月18日から新たな場で改装工事が開始されました。

また、来春は鎌倉支部が発会するように決まりました。広島と時を前後して工事が開始されました。「世界救世(メシヤ)教開教六十周年(メシヤ教創立十周年)」の年には各地で新たな御神業が進展されます。適度な緊張感に包まれると共に大変ワクワクしているところです。

啓蒙活動が布教の一面

只今は「新たな御神業」と申しましたが、そのような言い方をしますと、ともすると難しく考えたり窮屈に捉えたりいたしますが、今回の対談記を拝読しますとメシヤ様ご自身の姿勢というものが拝察できます。

メシヤ様のご姿勢は非常にフランクであられ、人間臭くもあります。とても最高最貴の御神格と合一される絶対的な御存在ということを感じさせない御話しぶりです。親近感を持てる場面でありますが、どこから絶対力が行使されるのかと思えるほどです。しかしながら、現実には日々多大な恩恵に浴しているのです。

恩恵とは、天国の福音として存在する浄霊です。この浄霊力を自分の幸福に留めず、より多くの方々へ宣べ伝えることが布教です。

とりわけ浄霊力はメシヤ教へ入会しなくとも伝授できますので、こんな気軽なことはありません。入会は活動を支えて、素晴しい浄霊力を新たな方々へ伝えてゆきたい人がするのですから、どこまでも自発的なものでお勧めする内容ではないのです。浄霊力伝授はお勧めするものですが、入会はお勧めするものではありません。

ここが今までの布教の概念と異なるところです。浄霊力というのはとにかく素晴らしいものですから、人々に知らせたくてたまらないものです。しかし、入会というものは自発的なものですから相手次第です。気楽に構えていたらよいのです。まさに『道楽』そのものなのです。

“更に御教えを学び人生観を確立して意義ある人生を歩みたい”、“大勢の方々へメシヤ様の恩恵に浴していただきたい”、“真理を知らせ幸福へ誘うことを通して徳を積みたい”、そして、“更に自他ともに幸福になりたい”と、そのように願う人が入会すればよいのです。

そういう意味合いから、布教というものには啓蒙活動という要素も含まれています。11月に浜松支部では

 この前、家に来た人が、会社の中の至る所に消毒液が置いてあるので、手が荒れている人以外はみんな消毒をしなければならないと言うことを話していましたので、「手には大事な菌もあるから、そういう菌まで殺してしまっているそうですよ。変な話、トイレのウォシュレットもお尻にある大事な、お尻を守っている菌まで洗い流してしまっているので、必要のない時以外は使わない方が良いということですよ。」とお話しましたら、「考えてもみませんでしたけれど、その通りですね。悪い菌もあるけれど、良い菌もあるのですからね。気が付きませんでした。」と言っていました。消毒しなさいと言われるとそうするのが当り前になってしまいますが、本当の話を聞けば、それではおかしいとわかる方もいらっしゃるのですね。「メシヤ講座・浜松」より)

と報告してくださった方がいます。

このように人々へ啓蒙してゆく作業が布教の一つの場面なのです。これは御教えの研鑚が進み学習が身に付いたからこそ、会話として繋げることができるのです。こうした会話の積み重ねによって神様の存在を認識できるように導くことが大切なのです。

消毒ということでは、浜松支部で報告された「箱根神仙郷・奥津城の受付に消毒薬が置いてあった」という話にも驚かされました。『若(も)し、薬を服んだら親子の縁を切るでしょう。』というメシヤ様の御言葉を拝読した直後だけに、一同驚愕の声を挙げたのでした。消毒した手で、メシヤ様の御前で手を合わせることは参拝したことになるのか、ということをどうして考えないのかが不思議でたまりませんでした。

消毒についての見解は「ブログ岩戸開き」において

人間にとって悪いと思われる病原菌を排除しようと薬剤を使っても、病原菌だけを殺すことは難しいのです。例えば、皮膚には身体を守ってくれるよい常在菌がいます。病原菌に感染したとき、身体に侵入しないように防いでいるのです。

しかし、病原菌を殺そうと抗生物質や消毒剤などを使うと、よい常在菌も死んでしまい、抵抗力が低下してしまいます。そして身体を守ってくれる常在菌が少なくなれば、病原菌に感染し発病しやすくなります。まさに抗生物質や消毒剤が、恐るべき病原菌を生み出し、いろんな病気を作っているのです。

と解説されています。この機会にジックリと目を通していただいて再確認していただければ幸いです。

何故なら、布教とは人々の迷妄を晴らすにあるからです。

私達はメシヤ様から真理を教えていただいています。浄霊力という絶対的な救済力とその力の根源から垂示された御教えを宣べ伝えることによって幸福者へと誘うことができるのです。

≪御論文に対するメシヤ様の御解説≫

とは申しても、日々研鑚を重ね、御教えを十二分に拝読させていただいていても時として思うようにゆかないこともあります。

御対談の中で話されている『アメリカを救う』を脱稿された時にメシヤ様は御面会でどのような御話をされたかを確認するために、『御教え集』を紐解いてみますと、布教に臨む上で心得ていなくてはならない内容がありました。

私が説明するよりもジックリと拝読していただきたいことを望みますので、御論文『運命は自由に作られる』を朗読した後に解説を施されている御言葉を掲載いたします。まず初めに御論文を掲載し、次に二日に亘って多角的に取り上げられた御言葉を掲載いたします。

御論文『運命は自由に作られる』

之から運命に就てかいてみるが、茲(ここ)で知っておかねばならない事は、世人はよく宿命と運命とを同一にしている事である。然(しか)し之は全然違うのでそれをかいてみるが、宿命とは生れ乍(なが)らに決ったものであるが、運命の方は人間次第でどうにでもなるもので、此(この)点を知らなくてはならないのである。誰でもそうだが、いくらああしたい、斯(こ)うなりたいと思っても、仲々思うようにゆかないのが、前記の如く人各々の宿命という枠で決められているからで、それから抜け出る事は無論出来ないようになっている。従って人間は自分の有って生れた宿命の限度をハッキリ知る事が肝腎であるが、実は之(これ)が仲々難しいので、寧(むし)ろ不可能といってもいい位である。

此(この)限度が分らない為、自分の力以上の計画を立てたり、身の程知らずの望みを起したりするので失敗するのである。処が其(その)場合でも早い内に気が附き、一旦陣を引いて出直せば苦しみも軽くて済むが、宿命の限度が分っていないから、無理に押通そうとするので失敗を大きくするのである。又世の中を甘く見すぎた為であった事も勿論である。そんな訳で盛返そうとしては失敗し、出直そうとしては腰を折られ、散々な目に遭ってやっと目が醒める人が大部分である。然(しか)しまだ目が覚めればいいが、中には不幸のドン底に陥ったまま死ぬまで目の醒めない人も大いにあるが可哀相なものである。以上は信仰のない人の運命をかいたのであるが、そこへゆくと信仰者は別である。

それに就(つい)ては霊の方面から説かねばならないが、つまり一切の苦しみは浄化作用である。浄化作用といえば病気だけのように思うかも知れないが、決してそうではない。凡(すべ)ての悩み苦しみの因は悉く浄化作用である。例えば人に瞞(だま)され損をする、火事で焼ける、怪我や泥棒、家族の不幸、商売上の損や失敗、金の苦しみ、夫婦喧嘩、親子兄弟の仲違い、親戚知人との争いなど何も彼も浄化作用である。此(この)様に普通浄化作用といえば苦しみで曇りを除るより方法はないから、曇りがあるだけは免れる事は出来ないので、曇りを減らすのが開運の絶対的条件である。つまり或(ある)程度魂が浄まれば、浄化の必要がないから不幸が幸福に変る事になる。之(これ)が真理であるから、運は寝て待てではなく、運は浄めて待てというのが本当である。

処が前記のように苦しまないで魂が浄まる其(その)方法が信仰であるから、無信仰者に幸福は絶対ない訳である。併(しか)し信仰にも色々あるから、立派な力のある信仰でなくては、真の幸福は得られない。そこへゆくと我メシヤ教こそ右(上記)の条件に叶う宗教である事を知らねばならない。(『地上天国』四十一号、昭和27年10月25日)

≪昭和27年10月6日の御解説≫

『いま読んだ通り、すべての苦しみは浄化です。それで霊の曇りが除(と)れるのです。そこでいままでの宗教での難行苦行というのが、その方法なのです。というのは、ふつう世間で苦しむのは、やむを得ずなるのです。苦しみのほうがぶつかってくるのです。ところが難行苦行というのは、自分で一生懸命苦しむのです。それでも魂が磨けるのです。それでバラモン教のほうは、苦しんで悟りが開けるといっているのですが、苦しんで悟りが開けるということは、曇りがなくなると悟りが開けるのです。つまり曇りがないから、物事が良く分かるのです。すると悟りが開けるのです。悟りが開けるということは、物事が分かることです。つまり真理が分かるわけです。けれども真理にもいろいろあるのです。やっぱり上中下あります。だから、みんなが真理と思っているところが、ごく下の真理というのが多いです。それで前よりも魂が浄まるのです。迷いが少なくなってくる、判断力が出てくる。しかし、迷いというものは、ぜんぜんなくなるということはないのです。どんな偉い人でも……私でもあります。ただ迷いがなくなるのが早いのと遅いのとの異(ちが)いです。私などは、迷っても半日くらいです。私は、物事をみるとすぐ結論が分かるのです。ですから、こうして庭や建築とかいろいろなことをみても、すぐパッと分かるのです。首をひねるようなことはありません。もしそのときパッと出ないと、考えないでほったらかしておくのです。それはやはり時があって、なにかのときにパッと分かるのです。というのは順序があって、神様のほうで、早過ぎると知らせないのです。それで時期が来ると分かるわけです。ですから迷わないで分かるわけです。ところがいまの人は霊が曇ってますから、どんな偉い人でも始終迷いに迷い、考えに考えているのです。で、あんまり考えたりするのに、ろくな智慧は出ないのです。だからやり損なったり、自分で求めて失敗を作っているのです。特に政治家方面などは……よく新聞なんかに出てますが、実にあまりに智慧がなさすぎる。ということをよく感じますが、それは霊が曇っているからです。そこで人間は、その曇りをできるだけ除ると、健康になるばかりでなくやっぱり頭が良くなります。そこで頭を良くするのに、つまり曇りを除るのに難行苦行をしなくても除れるというのは、おそらくメシヤ教だけだろうと思います。これはつまり天国的宗教、昼間の宗教だから、明るいから早く曇りが除れ、魂が磨けるから智慧証覚が得られるというわけです。

すなわち病気を治す場合に、疑ってもなんでも治るということは、つまり難行苦行ということはいらないというのと、理屈は一つです。他力です。他動的です。そこにすばらしい値打ちがあるわけです。そんなわけだから運というものは、霊の曇りと平均するものです。つまり曇りのあるだけは、どうしても苦しみはぶつかってくるのですから、いっさいは相応の理といって、すべてなんでも食い違いはないのです。人間には食い違いがあるように見えるのは、つまり人間が上っ面だけを見て判断するからです。仮に一家にどうしても信仰に入らない人があって、その人が反対したりするが、そうすると反対された人のほうは、始終やきもきしてますが、そのやきもきするほうに曇りがある。その人に曇りがなくなって魂が浄まると、他の人が悩み苦しめることはできなくなる。するとその人は信仰に入ることになる。あの畜生、人を酷い目に遭わせやがる、あいつのためにとんでもないことになった、あいつはとんでもない損をさせた。またいくら言っても入らないとか、そういうのはやっぱり御自分を見なければいけない。それはそれだけの曇りがこっちにあるからなのです。それによってこっちの曇りを除ってくれるのです。ですから自分を酷い目に遭わせたり苦しめたりするという人は、自分の曇りを除ってくれているわけです。浄化作用の仕事をやってくれているわけです。そこまで来ると、感謝してもよいことになってくるのです。この間裁判所で、公判がすんだときに被告の感想を言わせたのですが、ほかの人はいままで間違った調べをして、検事や検察官はけしからんと、いままでの言い足りない不満足を言ってましたが、私はいままで検察官やなにかのお蔭で、私はたいへん磨かれた、そのために教団も堅実になった、大いに御苦労であった、それを感謝する。ということを言ったのです。で、なにも迎合したり、そんなような意味ではないのです。いま言うように、大乗的に考えればそうなるのですから、大いに感謝してよいのです。だから、考え方というのはそこの点です。そういう考え方が信仰の価値なのです。価値ではない、それが芯です。本当なのです。だからこっちに反対する奴は、私も一時は癪(しゃく)に障(さわ)ったが、考えてみると、そのためにかえって結果が良かった、というように言いましたが、それが本当なのです。ですから、思うようにいかないということは、まだ自分に霊的に資格がないのです。で、霊が浄まって魂が浄まれば思うようにいくのです。そういうふうにできているのです。思うようにいかないということは、それはまだ自分に曇りがあるのです。その曇りを苦しんで除らないで、愉快に除るというのがメシヤ教の真髄です。それには人を助けるのです。そうすると人の感謝によってその人は始終光を受けますから、それでこっちの魂が浄まるのです。つまり難行苦行の代わりに人を喜ばせ、人を助ける、それによって同じ結果を得られるというわけです。そこで人を助けるには、やっぱり話や説明やなにかが上手(うま)くできなければならないから、そのために御神書を読む。また御神書によって、いろんな真理を知りますから魂も浄まります。それとともに人を救う力もそれだけ出ます。そうして人を救い、喜ばせながら、自分も向上するということになるのです。大本教のお筆先におもしろいことが言ってあります。艮の金神は神代の時に人から嫌われて押込められたのです。それで、「今に返報返(へんぽうがえ)しを致すぞよ」……仇討ちです。それだけでは神様も人間みたいですが、けれども「艮の金神は喜ばして返報返しを致すぞよ」そういうのがある。喜ばして返報返しをするというのが非常におもしろいです。仇討ちといっても、忠臣蔵のように上野介の首を取るというのではないのです。先方を喜ばすというのですから逆です。これが本当です。ですから私は大祭の余興のときに、講談の貞丈(ていじょう)に「忠臣蔵をやってはいかん」と条件をつけたのです。これは喜ばせて返報返しをするのとは逆です。私はそういうのは嫌いです。仇討ちという思想は非常に悪いのです。これを日本から絶対に除かなければいけないのです。けれども日本人はそれに非常に憧れるのです。曾我兄弟とか……と。その仇討ち思想を除らなければ、世界は平和にはならないのです。個人としても争いが絶えないわけです。支那の言葉に「怨に報ゆるに徳を以てする」というのは非常に良いです。それから蒋介石が終戦後日本に非常に好意をもっているのです。日本に対しても良くしなければいけないというので、蒋介石はいまもって日本から賠償を取ろうとは思っていないのです。そのためにいまも台湾だけでも地位を保っていられるというわけでしょう。そんなような具合で、ただ信者は浄化作用というと、病気だけに限るように思うきらいがありますから、それで話したのです。あらゆる苦しみというのは、全部自分にあるということを知れば良いのです。』

≪昭和27年10月7日の御解説≫

『よく、奥さんが信者になっていて、どうも親父は分からないといって煩悶しますが、親父が分からないといって煩悶するのが浄化作用なのです。その奥さんの浄化作用なのです。だから奥さんが浄化されるということは、それだけ曇りがあるからです。ですからその奥さんの曇りが除(と)れると、その親父は反対できなくなり、やっぱり信仰したくなるのです。やっぱり相応の理です。その点を良く知らなければならない。「あいつはオレがあんなに親切にするのが分からない、むしろオレを苦しめたりいじめたりする、けしからん」と言うが、それはやはり自分に曇りがあるからです。ですから人間のいっさいの悩み苦しみは、みんな浄化されているわけです。「あの畜生、人を酷い目に遭わせやがる、あいつのためになんて酷い目に遭った」とかという「あいつ」というのは、浄化作用をやってくれている人です。その点が分かると、自分を苦しめる人を恨むことができなくなるのです。それを知るのが人間には肝腎です。で、すべて浄化作用は苦しみによって除るということに、昔からなっている。そこで信仰すれば良いということになるが、信仰といっても難行苦行をするのです。無理に断食をしたり水を浴びたり、苦しむようにするのです。よく、お百度参りをしたり、襦袢(じゅばん)一枚で町を駆け出したりするのがありますが、あれでやはり魂が浄まるのです。ところがそれは夜の世界の時代だったから、どうしても地獄的に身魂を浄めるのです。ところがメシヤ教はそれとは反対に楽しみながら、苦しまないで浄めるのです。ですから美術館なんかというのは、そういった意味です。あれは、美術を見ていると、美術を楽しみながら自然に浄まる。向上するのです。魂のレベルが上がります。それからお祭りのときの余興とかもそうです。だいたい余興をする芸能人なども、だいぶ信者になるのが増えてきましたが、ああいう人たちが信仰が分かり……まあ、信者なら結構ですが、そうするとその人は霊的にそれだけ高くなりますから、そういう人の言葉や声を大衆に聞かせると、大衆がそれによって楽しみながらいくぶん浄化作用が行なわれるのです。神様のそういう仕組みなのです。そこでメシヤ教はいままでと反対に、苦しまないでつまり楽しみながら磨けていくのです。これが天国的宗教です。つまり昼間の世界の宗教です。これはたいへんな異(ちが)いです。ですから私はいつも、苦しんでやることに、ろくなことはないというわけです。私はその方針です。譬(たと)えてみれば、私が物を造ったりしますが、そういう場合に苦心したり考えたりしないのです。ですから人が、これだけのものを造るのはずいぶん苦心なさったでしょうと言われますが、返事に困るのです。しかし信者以外の人には「なかなか骨折って苦労しました」と調子を合わせておきます。それから私は、なにか考えてちょっと考えが出ないと、止(や)めてしまうのです。それをどうしても考え通そうとはしないのです。止(や)めるのです。そうして忘れていると、ある場合にヒョッと気がつくのです。ああこれだということになる。ですからちょっと考えて良い考えが浮かばないと止(よ)すのです。考えが浮かばないということは、時が来ないのです。それで時が来ると神様のほうでヒョッと知らせますから楽なものです。ですから、苦しまないで実にスラスラと順序良くいくのです。とにかくこの味というものは、いままでの頭では信じられないのです。ですから私は苦しむようなことはしないのです。よく展覧会などに行って思うことは、絵が苦しんでいるのです。だから、それが楽しみながら画けば良いのですが、一生懸命画こうとか、なんとかの苦悩が画面に表われているのです。ですからそれを見てそれから受けるから楽な良い気持ちはしないのです。楽しみながら画くとそれが画面に出ますから、それを見て楽しい気持ちがするのです。ですから展覧会などをまわってみても、良い気持ちがしないのです。なんとなく変な気持ちがする。それは骨折って画いてあるからです。そういうことはいまの人は知らないのですが、メシヤ教はそういうことをだんだん教えるのです。そんなわけで運命というものは自由なのです。自由ということは、こっちの魂の状態さえ曇りがなくなれば良いのです。曇りに相応して苦しみは来るのです。だから伝染病が伝染するといっても、濁った血があるから伝染するのです。濁った血がないと徽菌は死んでしまうのです。それと同じで、苦しみや禍(わざわい)もこっちに曇りがなければ来ないのです。よくお蔭話で「高い所から落ちて助かった」ということがあるが、そこに曇りがあればそのときに死ぬとかするが、御守りによって曇りが減っているから、そこでどうしてもそれを避けてしまうということになる。いっさいは相応の理によって動いているのです。それを知れば楽にうまくいくのです。どうも、自分はこれほど骨折っても成績が上がらない、ということは、まだそこに曇りがあるのです。成績が良くないということは、こういう層(良い運命と悪い運命の上下の層)があるが、自分はここ(下の層)にいるから、良い運命は上を通り越してしまう。こっち(下の層)は成績が悪い運命です。そういうわけです。』

胸にズシリと来たのではないかと思います。また、同時期に再三浄霊について御注意がありました。現代でも心得てゆきたい内容ですので、最後に掲載いたします。

≪昭和27年10月27日の御注意――『このごろまた浄霊に少し力が入るようです』≫

『最初に注意したいことは、このごろまた浄霊に少し力が入るようです。みんなではないですが、人によっては力が入るようです。これはそういうものなのですが、お蔭話にでも御守護の電報にでも、それが良く出ているのです。「一生懸命に浄霊しても、どうだ」ということがあるが、一生懸命浄霊したらいけないのです。治りが悪いのです。だから先にずいぶん言いましたが、決して一生懸命にやってはいけないのです。一生懸命といっても、腹の中は一生懸命でも良いですが、その一生懸命が手に出てしまうから力が入るのです。ですから軽い気持ちで力を抜くのです。そうすると治りが良いのです。こう(御浄霊)やって、どうも治りが悪いなと思ったら、力が入っているのです。ますます霊界が変わってきて火素が増えるに従って、よけいそうなるのです。つまり人間の力というものが邪魔するのです。力を入れるとせっかくの霊を邪魔してしまうのです。それだけ治りが悪くなる。ですから私なんかでも、始終力を入れないようにしてます。そうすると、とても良く治る。いままでの人間は、たいていなことはあべこべをやっていたのですから、これなんかも理屈からいうとあべこべです。なんでもなく治るようなことが割合に治ってないが、それはみんな力が入るからです。いまは非常に火素が増えてますから、病気は非常に簡単に治るのです。あなた方でも、たいていな病気は簡単に治ります。どうも治らないということは力が入っているのです。』

私達は一年余に亘って「メシヤ様対談記」を拝読してまいりました。そして、御神業推進の方向を再確認すると共に信仰態勢の在り方について大所高所から多大なる示唆を賜わりました。

来たる「メシヤ様御降臨祭」では、その学びの集大成をさせていただきます。その上で、冒頭で述べましたような“新たに進展する御神業”に共々臨ませていただけるように、各般に渉って整えてまいりたい所存です。

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