メシヤ講座・特選集no.122(平成23年3月分)

<御教え>

『文明の創造』総篇
天国建設の順序と悪の追放

(文創  昭和二十七年)
抑々(そもそも)此(この)世界を天国化するに就(つい)ては、一つの根本条件がある。それは何かといふと、現在大部分の人類が心中深く蔵(かく)されてゐる悪の追放である。それに就(つい)て不可解な事には、一般人の常識からいっても悪を不可とし、悪に触れる事を避けるのは勿論(もちろん)、倫理、道徳等を作って悪を戒め、教育も之を主眼としてをり、宗教に於ても善を勧(すす)め、悪を排斥してゐる。其(その)他社会何(いず)れの方面を見ても、親が子を、夫は妻を、妻は夫を、主人は部下の悪を咎(とが)め戒めてゐる。法律も亦(また)刑罰を以て悪を犯さぬやうにしてゐる等、之程の努力を払ってゐるに拘(かか)はらず、事実世界は善人より悪人の方が多く、厳密に言へば十人中九人迄が、大なり小なりの悪人で、善人は一人あるかなしかといふのが現実であらう。

併(しか)し乍(なが)ら単に悪人といっても、それには大中小様々な種類がある。例へば一は心からの悪、即ち意識的に行ふ悪、二は不知不識(しらずしらず)無意識に行ふ悪、三は無智故(ゆえ)の悪、四は悪を善と信じて行ふ悪等である。之等に就(つい)て簡単に説明してみると斯(こ)うであらう。一は論外で説明の要はないが、二は一番多い一般的のものであり、三は民族的には野蛮人、個人的には白痴、狂人、児童等であるから問題とはならないが、四に至っては悪を善と信じて行ふ以上正々堂々として而(しか)も熱烈であるから、其(その)害毒も大きい訳である。之に就(つい)ては最後に詳しくかく事として、次に善から見た悪の世界観をかいてみよう。

前記の如く現在の世界を大観すると、全く悪の世界といってもいい程で、何よりも昔から善人が悪人に苦しめられる例は幾らでも聞くが、悪人が善人に苦しめられる話は聞いた事がない。此(この)様に悪人には味方が多く、善人には味方が少ないので、悪人は法網を潜(くぐ)り、堂々世の中を横行闊歩するに反し、善人は小さくなって戦々兢々としてゐるのが社会の姿である。此(この)様に弱者である善人は、強者である悪人から常に虐(しいた)げられ、苦しめられるので、此(この)不合理に反抗して生れたのが彼(か)の民主々義であるから、之も自然発生のものである。処が日本に於ては長い間の封建思想の為、弱肉強食的社会が続いて来たのであるが、幸ひにも外国の力を借りて、今日の如く民主々義となったので、自然発生と言うよりも、自然の結果といった方がよからう。といふやうに此(この)一事だけは、珍らしくも悪に対して善が勝利を得た例である。併(しか)し外国と異って日本は今の処生温(なまぬる)い民主々義で、まだまだ色々な面に封建の滓(かす)が残ってゐると見るのは私ばかりではあるまい。

茲(ここ)で悪と文化の関係に就(つい)てかいてみるが、抑々(そもそも)文化なるものの発生原理は何処(どこ)にあったかといふと、根本は善悪の闘争である。それは古(いにし)への野蛮未開時代からの歴史を見れば分る通り、最初強者が弱者を苦しめ、自由を奪ひ、掠奪殺人等恣(ほし)いままに振舞ふ結果、弱者にあってはそれを防止せんとして種々の防禦法(ぼうぎょほう)を考へた。武器は固より垣を作り、備へをし、交通を便にする等、集団的にも個人的にも、凡(あら)ゆる工夫を凝らしたのであって、此(この)事が如何に文化を進めるに役立ったかは言う迄もない。それから漸次(ぜんじ)進んで人智は発達し、文字の如きものも生れ、集団的契約を結ぶやうになったが、今日の国際条約の嚆矢(こうし)であらう。尚(なお)社会的には悪を制圧するに法や罰則を作り、之が条文化したものが今日の法律であらう。処が現実はそんな生易しい事では、人間から悪を除く事は到底出来なかった。寧(むし)ろ人智の進むにつれて悪の手段が益々巧妙になるばかりである。といふやうに人類は原始時代から悪の横行とそれを防止する善との闘争は絶へる事なく今日に至ったのである。然(しか)しそれによって如何に人智が進み文化が発達したかは知る通りであって其(その)為の犠牲も亦(また)少なくなかったのは亦(また)止むを得ないといふべく、兎(と)に角(かく)現在迄は善悪闘争時代が続いて来たのである。処がそれら善人の悩みを幾分でも緩和すべく、時々現はれたのが彼の宗教的偉人で、其(その)教(おしえ)の建前としては物欲を制限し、諦観(ていかん)思想を本位とし、従順を諭(おし)へると共に、将来に希望を有(も)たせるべく地上天国、ミロクの世等の理想世界実現を予言したのである。又一方悪に対しては極力因果の理を説き、速(すみや)かに悔(く)ひ改めるべく戒めたのは勿論(もちろん)で、それが為幾多の苦難に遭ひ、血の滲むやうな暴圧に堪(た)へつつ教へを弘通(ぐつう)した事蹟は、涙なくしては読まれないものがある。成程之によって相当の効果は挙げたが、然(しか)し大勢はどうする事も出来なかった。又反対側である無神主義者の方でも学問を作り、唯物的方法を以て悪による災害を防ごうとして努力した。其(その)結果科学は益々進歩し、文化は予期以上の成果を挙げたのである。然(しか)るに一方思はざる障碍(しょうがい)が生れたといふのは、右の如く進歩した科学を悪の方でも利用するやうになった事である。

先づ戦争を見ても判る通り、兵器は益々進歩すると共に、凡(すべ)てが大規模になりつつある結果生れたのが彼(か)の原子爆弾である。之こそ全く夢想だもしなかった恐怖の結晶であるから、此(この)発見を知った誰もは、愈々(いよいよ)戦争終焉(しゅうえん)の時が来たと喜んだのも束(つか)の間(ま)、之を悪の方でも利用する危険が生じて来たので、不安は寧(むし)ろ増大したといってもいい。とはいふものの結局戦争不可能の時代の接近した事も確かであらう。之等を深く考えてみる時結局悪が戦争を作り、悪が戦争を終結させるといふ奇妙な結果となったのである。斯(こ)う見てくると、善も悪も全く深遠なる神の経綸に外ならなかった事はよく窺(うかが)はれる。そうして精神文化の側にある人も、物質文化の側にある人も、心からの悪人は別とし、共に平和幸福なる理想世界を念願してゐるのは言う迄もないが、只(ただ)問題は果して其(その)実現の可能性がありやといふ事と、ありとすれば其(その)時期である。処がそれらに就(つい)ての何等の見通しもつかない為、人類の悩みは深くなるばかりである。そこで心ある者は怪疑の雲に閉(とざ)されつつ、突当った壁を見詰めてゐるばかりであるし、中には宗教に求める者、哲学で此(この)謎を解こうとする者などもあるが、大部分は科学の進歩によってのみ達成するものと信じ努力してゐるが、之も確実な期待は得られそうもないので、行詰り状態になってゐる。処が現実を見れば人類は相変らず病貧争の三大災厄の中に喘(あえ)ぎ苦しみ乍(なが)ら日々を送ってゐる。処が之等一切の根本を神示によって知り得た私は、凡(あら)ゆる文化の誤謬(ごびゅう)を是正すべく解説するのである。

前記の如く悪なるものが、人間の不幸を作るとしたら、神は何故悪を作られたかといふ疑問である。然(しか)し此(この)様な不可解極まる難問題は、到底人智では窺(うかが)ひ知る由もないから、諦めるより致し方ないとして、宗教は固より如何なる学問も、今日迄之に触れなかったのであらう。然(しか)し何といっても之が明かにならない限り、真の文明は成立される筈(はず)はないのである。そこで之から其(その)根本義を開示してみるが、実は現在迄の世界に於ては悪の存在が必要であったので、此(この)事こそ今日迄の世界の謎でしかなかったのである。そうして悪の中で最も人間の脅威とされてゐたものは、何といっても生命の問題としての戦争と病気の二大災厄であらう。そこで先づ戦争からかいてみるが、戦争が多数の人命を奪ひ、悲惨極まるものであるのは今更言う迄もないが、此(この)災厄から免(まぬが)れやうとして、人間はあらん限りの智能を絞り努力を払って来た事によって、思ひもつかない文化の発達は促進されたのである。見よ勝った国でも負けた国でも、戦争後の目覚ましい発展振りは如何なる国でも例外はあるまい。仮(かり)に若(も)し最初から戦争がないとしたら、文化は今以て未開のままか、さもなくば僅かの進歩しか見られなかったであらう。そのやうにして戦争と平和は糾(あざな)える繩の如くにして、一歩一歩進んで来たのが現在迄の文化の推移である。之が又社会事情にも人間の運命にも共通してゐる処に面白味がある。之によって之をみれば善悪の摩擦相剋(そうこく)こそ、実は進歩の段階である。

斯(こ)うみてくると、今日迄は悪も大きな役割をして来た訳になる。といっても悪の期間は無限ではなく限度がある。それは世界の主宰者たる主神(すしん)の意図であり、哲学的に言へば絶対者とそうして宇宙意志である。即ちキリストが予言された世界の終末であり、そうして次に来(きた)るべき時代こそ、人類待望の天国世界であり、病貧争絶無の真善美の世界、ミロクの世等名は異るが意味は一つで、帰(き)する処善の勝った世界である。此(この)様な素晴しい世界を作るとしたら、それ相応の準備が必要である。準備とは精神物質共に、右の世界を形成するに足るだけの条件の揃(そろ)ふ事である。処が神は其(その)順序として物質面を先にされたのである。といふのは精神面の方は時を要せず、一挙に引上げられるからで、それに反し物質面の方はそう容易ではない。非常に歳月を要すると共に、其(その)為には何よりも神の実在を無視させる事である。之によって人間の想念は自然物質面に向く。茲(ここ)に無神論が生れたのである。故(ゆえ)に無神論こそ実は悪を作る為の必要な思想であったのである。斯(か)くして悪が生れ、漸次(ぜんじ)勢を得て善を苦しめ争闘を起し、人類をして苦悩のドン底に陥らしめたので、人間は這上(はいあが)らうとして足掻(あが)くのは勿論(もちろん)、発奮努力によって苦境から脱(のが)れやうとした。それが文化発展に拍車を掛けたのであるから、悲惨ではあるが止むを得なかったのである。

以上によって善悪に就(つい)ての根本義は大体分ったであらうが、愈々(いよいよ)茲(ここ)に悪追放の時が来たので、それは善悪切替の境目(さかいめ)であるから、悪にとっては容易ならぬ事態となったのである。右は臆測でも希望でも推理でもない。世界経綸の神のプログラムの現はれであるから、信ずると信ぜざるとに拘(かか)はらず、右は人類の決定的運命であって、悪の輪止(りんどま)りであり、悪が自由にして来た文化は、一転して善の手に帰する事となり、茲(ここ)に地上天国樹立の段階に入ったのである。

 

≪解説≫
一つひとつの認識を改めさせる
御論文『文明の創造』

メシヤ教代表 楳木和麿

主神様、メシヤ様へのお詫び

初めに、東日本大震災で犠牲になられた身魂様方の救霊をご祈願申し上げます。そして、被災者の皆様に心からお見舞い申し上げます。併せて行方不明の方々の捜索が進展し、皆々様の精神の安定が図られ少しでも復興に向かわれる気が漲られますことをお祈り申し上げます。

しかしながら、被害の実態(行方不明者をはじめとして)を未だ把握することさえできない現状に“壊滅的”という言葉が重く圧(の)し掛かってきます。「巨大な現実に言葉が追いつかない」という識者の言葉に頷かざるを得ません。大震災の凄まじさを思い知らされると共に、有数の防潮堤を完備して海外からも視察に訪れるほどの土地で「想定を超えた大津波」という文言が飛び交うたびに人知の浅さが身に染みてきます。

岩手・宮城両県で9市町村の役場庁舎が襲われ、3市町村で文書やデータをそっくり失ったという報道は唖然とさせられました。幸いにも一年前に副本として法務局支局に送信していたために「戸籍の再製は可能」ということがせめてもの報ですが、課税台帳や契約書類、条例・規則などのバックアップデータがないこと自体、市町村そのものの存在が消えたことになり、(職員の方々は復旧に努力されていることは勿論ですが)底知れぬ恐ろしさです。

しかも、福島第一原発事故によって有事における“不安”を思い知らされました。日本は、電力需要の約3割を原発で発電しているそうですが、“低炭素社会”を実現するためには更なる建設が予定されている中、大変な課題を突き付けられたことになります。ここへきて、日本のどの原発も10メートルの津波を想定していない、という現実が明らかにされたのです。今起こっている問題の責任回避を止め、今後のエネルギー対策に一層の衆智を結集せねばならないところです。

経済的痛手も阪神・淡路大震災時の倍を遥かに超えると言われています。現在私達が御教え拝読のツールとして注目しているiPad2の重要部品を製造する部品メーカーが被害を受け、それを代用する部品を中国では製造できないことから発売延期になりました。日本人の持つ能力が遮断された状態となり海外の産業にも多大な影響をもたらしています。東北という地域が、自動車や家電など産業界の生産拠点として脚光を浴び始めた中での震災だけに、ショックは筆舌に尽くし難いものがあります。

こうした中、被害を受けた方々の秩序を乱さぬ姿に対して海外からその美点を称賛する声が寄せられましたが、被災地以外で風評に流されての恥ずべき行動が目立ったことも事実です。報道姿勢の問題点が招いたものです。私自身も関東、北関東でその実態に触れ驚愕いたしました。

「船は助かったが養殖筏(いかだ)は失った」と話す言葉や、ハウス園芸のビニールハウスが津波に飲み込まれてゆく映像は、本来の御神業推進を遅らせてしまった私に有無を言わせぬ圧力で迫ってまいりました。

私は、この10年余「日本人は、履き違えた民主主義、欲望を増幅させる経済至上主義、思考を画一化させる教育システム、秩序を乱し品格を貶めるマスメディア等によって視野狭窄状態に陥らされている」と指摘してきましたが、力及ばず、このような大震災を以ってしか覚醒させることができなかったのか、と深く塞ぎ込みました。

無力さに苛まれながらも深く自らを見つめ直し、その内容を「メシヤ様の御精神を現代に求める座談会」へ次のように書き込んだ次第です。

(前略)

大震災が起きた際に三重支部で「メシヤ講座」の後の直会に臨んでいました。「メシヤ講座」の質疑応答では『文明の創造』中の

即ち火は経(たて)に燃え、水は緯(よこ)に流れ地は不動体となってゐるが、之は絶対ではなく、呼吸運動による動体中の不動体である。そうして経(たて)と緯(よこ)とは超微粒子の綾状的気流となって、地球を中心として貫流し、運動してゐるのである。

について論究していました。このたびの地震が日本列島が影響を受けている4プレートによって起きたことを勘案すれば、御教えに対する求め方の浅薄さに大鉄槌を揮われた思いがいたしました。これは被災された方に対してではなく、メシヤ様の御教えを学んできた者たちに対してです。

昨日、MOAの東京療院の建物が耐震構造になっていることから臨時の避難地になった情報が入り、“かつて環境科学研究所が世界救世(きゅうせい)教にはあった”ということが急に脳裏に浮かびました。『文明の創造』を基に環境科学に対する研究を構築していたら、もっと啓蒙運動が進展していたのでは・・・、と思わされました。それを権力闘争に明け暮れ、人類のために貢献することができずに来てしまいました。ひたすら主神様、メシヤ様にお詫び申し上げました。

「すぐにでも被災地に駆けつけ救援活動に参加したい」と口にする信者さんも大勢いますが、この惨状では、プロでなければ成す術もありません。やはり自衛隊、消防隊の方々の活躍に頼るしかありません。政治に関わるならば、自衛隊を災害救助隊というように性格を明確にして厚遇するような働きかけが必要不可欠です。災害には自然、人為に対しても権限を内閣に集中して瞬時に対応できる体制こそ急務です。これは戦時逐次投入を避けるためです。

「御教えに対する探求」とそれに伴う「人類への貢献」を、可能な限りメシヤ様信者に働きかけてください。遅すぎる観がありますが怠惰な罪を重ねてはなりません。

(後略)

大震災直後は種々安否確認や情報収集に努め、せめてもの心情として大震災翌々日の「浜松支部月次祭」を前に記述した内容です。

地震国だからこそ必要な教育と備え

しかし、打ちのめされた時こそ早急に必要な対処に努めると共に、やはり理性を以って感謝を引き出さねばなりません。それ故に浜松支部での「メシヤ講座」では次のような話を冒頭にいたしました。

先生
ただ今拝読していただいた御論文に、先ほどお渡しした中(通達文「メシヤ様の弟子は反省しなくてはならない」)に引用した箇所があります。『即ち火は経(たて)に燃え、水は緯(よこ)に流れ地は不動体となってゐるが、之は絶対ではなく、呼吸運動による動体中の不動体である。そうして経(たて)と緯(よこ)とは超微粒子の綾状的気流となって、地球を中心として貫流し、運動してゐるのである。』この部分を・・・、三重支部で『動体中の不動体』についての問答のやりとりを随分しましたが、その後に大地震が起きたので、その後随分考えさせられたのです。夕べもずっと考えて、それでやはりきちんとしたことを主神様、メシヤ様に奉告しないといけない、お詫びをしないといけない、ということで、今朝この文章を作った訳です。このような大震災が起きたのでそのことにも触れないといけないのですが、まだまだ一万人以上の所在がわからないことをはじめとして全体が全くわからないので、なかなか話す事が難しいのですが、言葉を口に出しただけでも表現が適格ではなく虚しくなるような事態です。各機関が全力を尽して救済に取り組んでいただければありがたいと思います。

そして、元々はここの東海沖大地震の警告が出されていたことなので、やはりこういうことを通して、犠牲になった方々にお見舞いを申し上げて、お亡くなりになった方々のご冥福を祈りながらも、自分達は自分達として大地震が来たときにはどうあらねばならないかということを、家族を中心に話し合いをして、備えをきちんとさせていただきたいと思います。

それから、救援に動く自衛隊やレスキュー隊などの隊員の志は尊いと共に、動く経費は全部税金です。こういう機会にもう一度子供たちに、「精一杯勉強をして立派な社会人になって、税金を一円でも多く支払えるような人間になって、国家のために役立つ人間にならなくてはいけないのだよ。」という納税の意義をよく教えてあげて欲しいと思います。

戦後教育の中で一番の問題点は、権利ばかりの教育をしていて、義務面の教育をほとんどしていなかったことです。やはり、いかに良い所に就職をして、あるいは自分で仕事を持って、その収入の中から税金を納める、その税金を納めることが世の中をよくしていくのだ、と。そういう人間観、世界観を教育していかないといけないけれど、ほとんどしてこなかったのです。学校でも納税の意義の話をほとんどしません。しかし、馬鹿なことに「誰にでも〈さん〉付けをしましょう。」とか言うような事を「男の子でも女の子でもみんな〈さん〉を付けて呼びましょう。」「みんな平等に扱いましょう」なんて馬鹿な考え方ばかりしています。やはり男性は男性、女性は女性として生れて来た以上、その役割をキチンと認識させるために呼び方を変えていくべきです。男の子は〈くん〉を付けて呼べば、男として自覚していくし、女の子には〈さん〉と呼んだほうが自覚をしていくのです。そういう役割を明確にする教育をしない限り、国家としては駄目になっていくのです。

ヘリコプターで人を救っているのも税金で救っているのです。彼らが動いて救ってくれているけれど、我々の納税が人々を救っているのだという認識を絶えず持っていかないと、何のために税金を払っているのかという意義がそこには生まれてこないので、こういう機会に自分達は直接手を出す事は出来ないけれど、我々の納めた税金によって、自衛隊が動いている、レスキュー隊が動いている、そして茫然自失にいる人たちに少しでも光明を当てているのだ、と。そういうような精神構造を自分もこの機会に持つし、子どもにも持たせていくと。そういうような家庭教育を徹底していただきたいと思います。

そして、また同時に、与野党が国会を休会するかどうかというようなことを盛んにやっていますが、税金を納めるからこそ、その税金を有効に使う政治家に投票しないといけないという、そういうような精神が芽生えてくるので、選挙に対する考え方もまた変わってきます。我々が身を削って納めた税金をあの人だったら必ず有効に使うように動いてくれると思うからこそ、その人に投票する、と。世の中の事を考えれば考えるからこそ、納税と選挙に対して真剣になっていくのです。そういうことを我々、直接被害を受けていない人間がこの次の世の中をよくするためにそうしたことを家庭でよく話し合うということを今日はお願いしておきたいと思います。

また、そういう話をする時には我々には叡智をいただかないといけないので、より一層御教え拝読に取り組んでいくということをお願いしたいと思います。過去繋がっていた救世(きゅうせい)教関係の人たちに、この文章を必ず伝えてください。浄霊力と御教えに出会った人間はどうもボーっとしているのでね。こうやってメシヤ教に出会った人たちは一生懸命勉強をしているけれど、何々先生の指導とかそんなことばかりやっているところもありますから。そんなことでは天国建設に繋がっていかないし、こうした大浄化が起きた時に適切に対応できないからね、一つみんなに知らせてあげてください。出来るだけ関係者を調べて、「今月、月次祭でこういう話が出ましたので・・・」と言って知らせてあげてください。<御教え拝読のための機器の説明・・・う~ん素晴らしい>

「真の三大事業」と豪語した取り組みが招いた惨事

また、「メシヤ様の御精神を現代に求める座談会」への書き込み内容の根底には、メシヤ様を教祖と仰いできた教団の指導者が抱いてきた妄想を顧みなくてはならない、ということがあります。

メシヤ様は浄化に入られて5日後、大峠の様相を知らされ滂沱(ぼうだ)と涙を流され嗚咽(おえつ)さえ上げられた、と伝えられています。その『大峠の様相』の根源は薬禍薬害です。現代においては経済至上主義が招いた化学物質による環境汚染が加わっています。この度の大震災は「千年に一度」ということから『最後の審判』の型ではありません。『最後の審判』は三千年来の大峠であるからです。当然起きるであろうと想定していた、その想定を遥かに超えた大津波だったということから、叫ばれる「想定外」に象徴される人為的ミスを起こす原因です。

そして、この「想定外」は私達の生活にもヒタヒタと忍び寄っています。現代病(癌をはじめとした突然変異性原素による罹病や血液病、精神性罹病など)の真因です。それを“社会性”“間口を広げる”という“まやかしの表現”によって容認する姿勢は、メシヤ様の弟子としてあってはならないのです。

その点に置いて、枚方支部が「メシヤ様の御精神を現代に求める座談会」に書き込んだ内容は、重く受け止めなければならないことです。

(前略)

本来は、こうした大事態の真因を事前に知っている私達としては、被害という面において、出来る限りこうした人災や贖罪的浄化を回避させていく努めが、宇宙凡てを御統率あそばされている主神様、メシヤ様の信徒としての大使命の一事でもあります。

かつての熱海大火災、東京大空襲、広島、長崎の原爆投下におきましても、メシヤ様だけを見詰め、忠実に信じ、真なる意を仰ぎつつ実践されておられた信者方々は、一人だも被害無く奇蹟の御守護を頂き、原爆投下時も、政府の医療テントを横目に、被災された方々がみるみる行列となっていき、大火傷の被曝者や白血病を尋常でないスピードをもって完治せしめたことを思い起こします。むろん医療を受けてから、浄霊に来られた方は、「雲泥の差」で悪かったということです。

そうした信仰者であるべき方々が、現実多数、命を落とされたことが、東北地方や北海道地方の方々より連絡が入りました。

それらによりますと、東方之光教団の大船渡センターと、石巻センターが、大津波によって壊滅状態となり、センター長や事務などの専従者、周辺信者も行方不明となり、専従者や信者さん達も、次々遺体で発見されたという、教団史上、前代未聞の一惨事に絶句しました。

「あれだけ御心のまま(方針に)熱心に信仰をしていても、命を落とすなんて・・・」と、信者間では、意味がわからずウロたえて涙し、絶望感が湧き上がっているようです。

私は数々の知らせを聞いて、こみ上げる悲しみと同時に、かねて、世界救世(きゅうせい)教、特に先般、東方之光教団が和合決裂に際し、“今さら方向転換はしない、一層力強くして突き進むだけだ”と決定した時、大変な悲しさと危機を感じました。

「神」を180度ネジ曲げたまま良かれと進んだ末路として、最悪、今回のようなこうした大悲劇が起こる事は予見できておりましたゆえ、親しい方々には伝えておりましたが、一方、インターネットという広範な手段で、“大急ぎで東方之光教団の大錯覚を伝えなければならない”と“時期”を感じ、問題提起し続けたのです。

“どちらかというと、間に合わないかもしれない”“これ以上、大経綸を延ばされることは、無い”という事は知らされておりましたので、やるせない気持ちと、こうした大地震の時こそ、被災地で一般の人々を救い上げる側に変わっていけるようにとの啓蒙が全く乏しかったのではないか、と主之大神様、メシヤ様にお詫び申し上げ奉った次第です。

(中略)

『真の信仰』『真の三大事業』について、上司に意見しようものなら、常套文句のトドメとして、「お前は、明主様からはじき飛ばされるぞ!はじき飛ばされる!!」とゾッとするような言葉を吐くことです。

そうして、不思議にも、言った本人は日々安泰で、はじき飛ばされることは無いのですが、今回大震災で、尊様から命を取り上げあげられた専従者諸氏は、東方之光教団にとっては申し子ような忠実な教団信奉者であったのですが、その中の一人は、「そんな事(社会迎合論否定)を言っていたら、明主様からはじき飛ばれるぞ!」と言っていたのですが、自らがこの地上天国になっていく世界から“はじき飛ばされた”という結果となったのです。

この常套文句は、私も、何度も聞いております。時に攻撃的言葉に変わった都度、専従諸氏は、長い病、にかかって苦しまれているように思います。実に、お気の毒、です。

死も救い、です。あの世で救われるというメシヤ様の御恵みなのですが、出来る限り、人としてこの世に生まれた以上、天国人として使命をまっとうして頂けたら、と、本当に涙が溢れてなりません。一切は、神がかり的覇権者が悪に染まり、因縁者も染まったところの可哀想な大事態の始まりなのです。

もう少し遅い時期かと思っていたのですが、代表先生の真珠の話をお聞きした時に、いろいろ考えさせられました。

〔その件につきましては、『枚方支部ブログ』の中の直会にて記述しております〕

そうして、いよいよ始まった、ということで、何事も段階的意味があるのですが、日本からいよいよ信者を巻き込み始まったという感がしています。あらゆる教団、宗教界、そうして、信者、人類は、メシヤ様に対してどうあるべきことになっていくか、という事も少しずつ知らされています。

役員次第です。方針をいきなり撤廃できないでしょうから、『停止』する勇気を出してください。命がけの事を、世間が今やっているのです。

そうして、メシヤ様はどこにおられるか、白紙になって、論と結果をもって、素直に『メシヤ教』を学ぶようにしていただきたい、と思います。私ももう、謙遜している場合でもありませんから、他教団の上層部の方のように、急いで、メシヤ講座を片っ端から読んで行って下さるように、お願いしておきます。

(後略)

一部辛辣な表現もありますが、メシヤ様の弟子として考えさせられる内容です。枚方支部責任者がかつて「東方之光」教団の信者であり、教団首脳部に進言を重ねていただけに、その心情を汲み取っていただきたい、と願うものです。全文は、「メシヤ様の御精神を現代に求める座談会」に記載されていますので、再読していただければ幸いです。

メシヤ様への認識の違いが信仰の変貌を招いている

割愛した部分には「筆書き職人」なる表現までありますが、メシヤ様への認識に対する指導者の捉え方が大きな問題を生み出し、それが延々と続いているのです。それは根源的なことから日常的なことまであります。にもかかわらず気付こうともしない後継者達は、故意なのか、浅学のためなのか、それは判りませんが哀れなことです。

こうした際に、3月13日の「岩戸開き」で取り上げた内容が覚醒に繋がればよいのだが、と考えています。メシヤ様が示され実行された「生活の規範」の一つであるからです。

 次に、メシヤ様(岡田茂吉教祖)は、食について、このように仰っておられます。

『食物に就ては面白い事には私はいつも栄養が多過ぎる事を心配するのである。というのは多くの信者からの献納の食物が勿体ない程沢山あるので、出来るだけ少しずつでも信者の誠を食べるようにしている為もあって先ず美食家といってよかろう。それを調節する為に朝食後は必ず相当量の薩摩芋を食う。』

 

以前、メシヤ講座において学ばせていただいた指導を裏付ける御教えです。

 

 ○メシヤ講座での指導

「メシヤ様は献上品については信者の誠に対してできるだけ全て召し上がるように心掛けられていました。すると、美食になりすぎます。そこで、サツマイモをお食べになり、調整されていたのです。」

 

美食に慣れている現代人に対する警告と受け止めることもでき、生活習慣を省みることが必要と思います。

 

『又就寝前は茶漬をよく食い汁粉を一杯は欠かしたことがない。そうして食物にも陰陽があって、陰に傾いても陽に傾いてもよくない。勿論陰とは野菜で陽とは魚や肉である。これを偏らないように加減する。朝は陰七分陽三分、昼は陰陽半々、夜は陽七分陰三分の割合を守っている。香の物にも陰陽がある。陰とは青菜類、陽とは大根蕪の如き白色のもので、之等も半々にしている。』

 

飽食の時代が長く続いている現代だからこそ、上記の御教えを熟読し、食のあり方も含め、正しい生活習慣を身につけることが重要であると考えます。

近年、メシヤ様(岡田茂吉教祖)の信徒でありながら、糖尿病と診断され、極端な食事療法をされ、しかも、専従者の指導も、現代医学に則った指導をしております。本来、御教えに即した指導を行うことが教団の使命であり、専従者の使命であると考えます。

ご飯を主食とした自然食と、運動の重要性、特に、歩くことの重要さを説いておられます。

三好先生は、講演のとき、一日五千歩、歩くよう、仰っておられます。

ご飯を中心とした食生活、一日五千歩以上歩くこと、日々の浄霊実践が健康な霊体、肉体をつくるうえで、最重要と思います。

私達は、浄霊という絶対力を拝受いただいていますが、それをただ単に利用するというのは初心者的な在り方です。浄めていただいたら、再び霊を曇らせないように、血液を汚さないように努めることが、人としての歩む本来の姿勢です。その教導に取り組むことこそ、地上天国建設への歩みなのです。

メシヤ様の示された内容は、現代人こそ大切なのです。それは現代人の生活が、御晩年の生活と同じ水準になっているからなのです。メシヤ様が『調節』のために食されたサツマイモを「お好きであった」と解する低いレベルでは、どうしようもありませんから、一つひとつ認識を改めていただきたい、と願っています。

『世界の創造主たる主之大御神(エホバ)』様を認識する時

そして、改める根幹が『世界の創造主たる主之大御神(エホバ)』様への認識です。

今、私達は自然に対する畏敬の念を深く心に留めました。しかし、それで『世界の創造主たる主之大御神(エホバ)』様を理解した訳ではありません。絶対の御存在であると共に『天国の福音』をメシヤ様を通してお示しくださり、選択の自由をお与えくださっているのです。

人間の真の自由がここにあります。ですから、自由であればあるほど、主神様、メシヤ様に真向かう姿勢を明確にさせていただき、人間本来の在り方を目指したいのです。

そこで、最後に「三重支部・メシヤ講座(平成23年2月分)」でまとめていただいている内容を引用しますので、熟読玩味していただければ幸甚です。

〇智慧証覚得るには御教え拝読は欠かせない

(質問者)
そうしますとその御経綸ということを自分なりに理解しようとすれば、普通の考え方ではなくて全く違うところからの考え方が無ければいけませんね。

(先生)
ですので、全く違うところからの考え方が必要というよりも、智慧証覚(ちえしょうかく)がないといけないということですね。それでこの智慧証覚(ちえしょうかく)を得るためには御教え拝読が欠かせないわけですね。ですから日々御教え拝読をしながら物事を見て行くと大体当たってくると思います。これが智慧証覚(ちえしょうかく)、叡智が閃(ひらめ)いていく生活になってくるのだと思います。そういうふうに捉えて行って頂ければいいんじゃないかなと思います。

(先生)
今度、主神様についてメシヤ様はどう仰っておられるのか、といいますと『この主神に対しては、これを表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根元であるというよりほかない。「宗教と科学」(無限 創刊号 昭和24年1月1日)』

と仰っておられますので、要するにこうして話している間にも拡がっているわけなのです。主神様という御存在というのは、我々がイメージとして摑んだと思ったらもう摑んだ瞬間から違う御存在になっている、というぐらい大きな御存在なので、その御存在に向かってお祈りをする時に「主之大御神守り給へ幸給へ」と唱えることによって主神様を限定してしまいますが、“表現し奉ることもできない、そういう尊い御神名をただいまから唱えさせて頂きます”という気持ちで先達者は「主之大御神守り給へ幸給へ」というふうに日々祝詞を奏上して頂きたいのです。

ですから、「主之大御神守り給へ幸給へ」という前に、本当は“表現し奉る言葉もないのですけども尊い御神名なので唱えさせて頂きます”という気持ちで、「主之大御神守り給へ幸給へ」と唱えると、少しでも主神様に真向かう姿勢ができて唱えられていきますからね。

これが朝拝、夕拝において一層想念を確立する上で持っておいて頂きたいと思うことです。

そして、後ろで参拝している人達も先達に続いて「主之大御神守り給へ幸給へ」と同じような想念で唱えるということが大事なことであると思います。

〇惟神霊幸倍坐せ(かむながらたまちはへませ)とは

ですから、少し「惟神霊幸倍坐せ(かむながらたまちはへませ)」も節回しが違うでしょう。今までとね。

二つの言葉がくっついて「惟神霊幸倍坐せ」になるのです。所謂(いわゆる)これはね、信者としては決意を述べる言葉なのです。ですから「主之大御神守り給へ幸給へ」というのは“尊い御神名を唱えさせて頂きます”という姿勢で唱えるのですけども、今度、「惟神霊幸倍坐せ(かむながらたまちはへませ)」と唱える時には、“私は神様の御心のまにまに進ませて頂きます”という決意を以って「惟神(かむながら)」というふうに言わないといけません。

そして、霊幸倍坐せ(たまちはへませ)、“魂を大きくして頂いて幸せにして頂きますように”というのが霊幸倍坐せ(たまちはへませ)だからね。この想念を凝縮して惟神霊幸倍坐せ(かむながらたまちはへませ)という言葉になっているから、「かむながら/たまちはへませ」と区切ってしまうとおかしいですが、その位の気持ちで唱えると、どんどん御心に我々の姿勢が近づいていくと思いますので、意識してお参りして頂けると良いと思います。

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