メシヤ講座・特選集no.124(平成23年5月分)

<御教え>

『文明の創造』総篇
悪の発生と病

(文創  昭和二十七年)

前項の如く悪の九分九厘に対して、善の一厘が現はれ、絶対神力を揮(ふる)って既成文化を是正すると共に、新文化を打ち樹(た)てる。早くいえば掌(てのひら)を反(か)えすのである。之が今後に於ける神の経綸の骨子であって、其(その)破天荒的企図は想像に絶するといってよかろう。之に就(つい)ては彼(か)の旧約聖書創生記中にある禁断の木の実の寓話(ぐうわ)である。勿論(もちろん)之は比喩(ひゆ)であって、エデンの園にゐたアダムとイブの物語は、実に深遠なる神の謎が秘められてゐる。それを追々説いてゆくが、之を読むに就(つい)ては全然白紙にならなければ、到底分りやうがないのである。言う迄もなく木の実を食ふ事によって悪の発生である。といふのは木の実とは薬の事であって、薬によって病気が作られ、病気によって悪が発生する。処が人類は紀元以前から、病気を治す目的として使ひ始めたのが彼(か)の薬剤であって、禁断の木の実とは、何ぞ知らん此(この)薬剤を曰(い)ったものである。といふ訳を知ったなら何人も愕然(がくぜん)として驚かない者はあるまい。ではそのやうな到底想像もつかない程の理由は何かといふと、之を説くとしたら理論と実際から徹底的に説かねばならないから、充分活眼を開いて見られん事である。

茲(ここ)で曩(さき)に説いた如く、人間は霊と体とから成立ってをり、霊が主で体が従であるといふ原則も已(すで)に判ったであらうが、そのやうに悪の発生原は霊に発生した曇りであり、此(この)曇りに元から憑依(ひょうい)してゐた動物霊と、後から憑依(ひょうい)した動物霊と相俟って、人間は動物的行為をさせられる。それが悪の行為である。早く言えば霊の曇り即悪である以上、悪を撲滅するには霊の曇りの解消である事は言う迄もない。処が曇りの因(もと)こそ薬剤であるから茲(ここ)に大きな問題がある。勿論(もちろん)霊の曇りは濁血の移写で、濁血は薬剤が造るのであるから、人間薬剤さへ用ひなくなれば悪は発生しないのである。斯(こ)う判ってくると禁断の木の実、即ち薬剤こそ悪発生の根本である事が分るであらう。

茲(ここ)で今一つの重要な事をかかねばならないが、之も曩(さき)に説いた如く文化の進歩促進の為の悪を作った薬は、他にも大きな役目をして来た事である。といふのは血液の濁(にご)りを排除すべき自然浄化作用である。勿論(もちろん)曇りが溜ると健康に影響し、人間本来の活動に支障を及ぼすからである。処が人智未発達の為、右の浄化作用による苦痛をマイナスに解して了(しま)ひ病気の苦痛を免(まぬが)れやうとし、薬を用ひはじめたのである。といふのは浄化作用停止には身体を弱らせる事であって、弱れば浄化作用も弱るから、それだけ苦痛は緩和される。それを病気が治る作用と錯覚したのである。といふ訳で抑々(そもそも)此(この)誤りこそ、今日の如き苦悩に満ちた地獄世界を作った根本原因である。

右によってみても、薬といふものは其(その)毒によって単に痛苦を軽減するだけのもので、治す力は聊(いささ)かもない処か、其(その)毒が病気の原因となるのであるから、其(その)無智なる言うべき言葉はないのである。処が驚くべし此(この)病気に対する盲目は、実は深い神の意図があったのである。それを之から詳しくかいてみるが、先づ文化を発展させる上には二つの方法があった。其(その)一は曩(さき)に説いた如く悪を作って善と闘はす事と、今一つは人間の健康を弱らす事である。前者は已(すで)に説いたから省くとして、後者に就(つい)て説明してみれば、先づ原始時代からの人間の歴史をみれば分る如く、最初はありのままの自然生活であって、衣食住に対しても殆(ほと)んど獣と同様で、健康も体力もそうであったから常に山野を馳駆(ちく)し、猛獣毒蛇やあらゆる動物と闘ったのは勿論(もちろん)で、之がその時代に於ける人間生活の全部といってもいいのである。そのやうに獣的暴力的であった行動は漸次(ぜんじ)其(その)必要がなくなるに従ひ、今度は人間と人間との闘争が始まったと共に、漸次(ぜんじ)激しくなったのであるが、それらによって人智は大いに発達すると共に、長い年代を経て遂に文化を作り出すまでになったのである。このやうな訳で若(も)し最初から闘争がなく平穏無事な生活としたら、人類は原始時代のままか幾分進歩した程度で、智識の発達は少なく、相変らず未開人的生活に甘んじてゐたであらう事は想像されるのである。

処が前記の如く禁断の木の実を食った事によって病が作られ悪が作られたのである。処が今日迄全然それに気が付かない為、今日の如く根強い薬剤迷信に陥ったのであるから、最も大きな過誤を続けて来たのである。而(しか)も一面原始人的健康であった人間は、前記の如く動物を征服し、生活の安全を得るに従ひ体力も弱ったと共に、智識は進んだので茲(ここ)に平坦な道を作り、馬や牛に車を牽(ひ)かせて歩行せずとも移動出来るやうになったのである。右は日本であるが、外国に於ては石炭を焚(た)き、レールの上を走る汽車を考え出し、一層進んで現在の如き自動車、飛行機の如き素晴しい便利な交通機関を作り出すと共に、他面電気ラヂオ等の機械を作る事になったのである。尚(なお)又人間の不幸をより減らすべく社会の組織機構は固より、政治、経済、教育、道徳、芸術等、凡(あら)ゆる文化面に亘(わた)って学問を進歩させ巧妙な機関施設等を作り、それが進歩発達して、現在の如き文明社会を作ったのであるから、帰する処来るべき地上天国樹立の為の準備に外ならなかったのである。

以上の如く医学の根本は、人間の悪を作り健康を弱らす目的にあるので、予期の如く現在の如き世界が出来たのである。処が之以上進むとしたら、逆に人類破滅の危険に迄晒(さら)されるので、最早之以上の進歩は不可とし、茲(ここ)に神は文明の大転換を行はんが為、私に対し真理を開示されたのであるから、之によって悪を或(ある)程度制約し、善主悪従の文明世界樹立の時となったのである。

 

≪解説≫
長年の錯覚、勘違いを発見できる
御論文『文明の創造』

メシヤ教代表 楳木和麿

素晴らしい出会いから、現実のように閃(ひらめ)くメシヤ様の御言葉

5月5日に「御神体御奉斎記念式典」を執り行なわせていただき、参拝の皆様へ御書「救世教(メシヤ教)」を始めとする御直筆御書をお披露目することができましたことは、この上なき喜びであり感謝に堪えないことでありました。そして、そのことを慶祝するかのように各支部月次祭、メシヤ講座各会場において素晴らしい出会いが許されました。

取り分け、中国地方で執り行われた御神体御奉斎式では、御在世中に御神縁をいただかれ教会で専従、開拓布教をされていた方にもお会いしました。浄まった感じのする上品さに触れ、清々しい気持ちになりました。一途にメシヤ様信仰をさせていただくとこのようになるのか、と頷いた次第です。御神体御奉斎家の導き親という間柄の方で、支部発会の運びとなった際には教会時代からのことを詳細に報告していただきたいと考えています。

また、その御奉斎式には熱海・瑞雲郷で専従者仲間として共に御神業を担っていた方もいて懐かしさが込み上げてきました。合計4名の専従経験者が集い、教会時代からの信者さん方も参列し、皆さん私より年上ですが真摯な姿勢で式典に臨んでくださいました。御奉斎式の挨拶が終わると、自然な形で教会時代からのお蔭話に花が咲き、その姿からメシヤ様の御言葉が現実のように閃(ひらめ)いてまいりました。

『いよいよの時、初めて諸々、浄まった者それぞれに因縁通りに諸々の御用を申しつける。神格をいただける者もいる。その人によって御用は変わる。』

今こそ『いよいよの時』と思わせられる昨今ですが、5月度は当御奉斎式までに二県で支部発会への打ち合わせをすることが許されましたので、尚更そのように感じたのです。そして、今まさに『諸々の御用』をメシヤ様から申しつけられる『時』を迎えているように感じずにはおれませんでした。それぞれ発会の暁には詳細報告がありますので、楽しみにしておいていただきたいと思います。

お気の毒な現状に直面されている方にも出会う

しかし、一方では、お気の毒な現状に直面されている方にも出会いました。その様子に居た堪れなくて「メシヤ様の御精神を現代に求める座談会」へ次の文章を書き込んだのです。

本部です。今月は『文明の創造(二・下)』の校正作業を三重支部の方々と進めまして、昨日校了いたしました。明日から印刷製本に取り掛かりますので、「地上天国祭」において頒布できますことを嬉しく思います。

校正作業を通して改めて感じたことは、メシヤ様がそれまで説かれたことを集大成する御意図を以って御記述されたように拝されるということです。今回は病気の原因を腎臓に集約されてお説きになられた項であり、今後浄霊に取り組む上で更に力となります。

また、これまで病気に対する「判釈」が他の教祖と際立って異なる、という見方で説明してきましたが、校正を通して改めて拝読を重ねますと、肉体の仕組みを昭和27年(文創時)にこれほど詳細に解説されていたのだ、と驚かされます。“正に『医学革命』なのだ”との思いが今更のように突き上げてきます。

これは、中国地区で出会った方々の話が印象的であったからかもしれません。代表例を紹介しますと・・・。

お一人は、胃癌についてMOA療院で「これまで浄霊をして、御用も取り組んできて癌になったのだから、全摘して、その後浄霊に取り組めば良いのではないか」と医者に言われたとのことです。悩んで全摘に傾いたが、長年共に取り組んできた方(今月メシヤ教入会)から「メシヤ様の御教えはそんなものではないでしょ。浄霊に賭けよう」と励まされ、非常に良い経過である、ということでした。

しかしながら、療院の医者の言った内容は、“今日までのMOAの取り組み、東方之光教団が進める療法を以ってしても癌になりますよ”という意味で、療法を慰め程度にしか扱っていないということです。つまり、東方之光教団の進める取り組みを全面否定していることなのです。全面否定している医者をMOA療院の医者に据えているという矛盾です。

私は、その方に取り組む上での諸注意をお話して、ご家族に対して浄霊の解説を取り次ぎ、御守護をお祈りいたしました。

もうお一方は、御神体御奉斎式で出会いました。御奉斎式参列者と御在世当時から一元化以前までにいただいた数々の御守護の話に花が咲きました。私は「今、メシヤ教ではそうした御在世当時と同じ御守護を信者の皆さんが不断にいただいていますよ」と答えると、不思議そうな顔をしていました。

その方も鮮やかな奇蹟を数々体験(代表例は農薬で自殺した人を浄霊で救った)してきているのですが、先般「膝の手術をした」とのことでした。片方の膝も手術の予定だと言うので、「メシヤ様に直に繋がって浄霊をすれば、必ず良い方向へ繋がります」と答え、浄霊の仕方をお話しました。

こうした方々と出会うたびに、東方之光教団の姿勢が不可解でなりません。かつて教条的ですらあったグループが、何故御教えに反する取り組みを重ねるのでしょうか。『文明の創造』を始めとする真理を東方之光教団はどのように捉えているのでしょうか。

きっと、教団幹部は、「明主様は薬はいけないとおっしゃってる。でも、うちは薬を 出している。それによって間口が広くなり、岡田茂吉の名前が世に広く知れ渡るんですよ。理想は高く、でも、間口は広くで活動するのがMOAです。」という意味のことを説明するでしょう。

しかし、それで人が救われるのですか、ということです。

先ほどのブログ「岩戸開き」で指摘している内容は深刻です。

「取り分け化粧品販売の戦略に対する在り方として、『感覚美』という御表現は正に心理学的な対応であると考えられます。

今日まで、各教団はこうした企業側の戦略に対して対応していなかったために、御教えへの探求が浅かった、と言わざるを得ません。また、メシヤ様と比べて大幅に社会性が欠落していた、とも言えます。

現在、MOAを通して社会性を強調していますが、如何に的外れかが解ると思います。(後略)」

本来、宗教は社会改革を進めるものであって、けっして社会迎合ではないのです。

メシヤ様は可能な限り全人類を救うために降臨され、宗教を以って救済を展開したのです。『超宗教』と仰った意味をどうも履き違えているようです。

今回も批判的になりましたが、新たに出会う方々が余りにもお気の毒なので書かざるを得ませんでした。

ここに書き込みましたように、5月は同時進行で『文明の創造(二・下)』の校正作業、御教え電子版試作品の確認作業などに取り組みました。繰り返しの拝読の中で、“新発見”の如く数々確認させられることがありました。

『文明の創造』を基に、より深く掘り下げて考えていただきたい

正に『医学革命』だと思わされることばかりですが、その中で、以下のような文章が出てまいります。

『以前斯(こ)ういふ患者があった。最初身体の一部に湿疹が出来た処、医師は悪性として強い塗布薬を塗ったので、段々拡がり二、三年の内には全身に及んで了った。それまで有名な病院に掛かってゐたが、もう駄目と曰はれ、私の所へやって来たのであるが、私は一目見て驚いたのは、身体中隙間もなく紫色になっており、処々に湿疹が崩れ、汁が流れてをり、痒みよりもそれを打消す痛みの方が酷いそうで、夜も碌々眠れないといふ始末なので、流石の私も見込ないとして断ったが、それから一、二ケ月後死んだそうである。』

この内容をどのように受け止めるか、ということです。「地上天国祭」で受け取りますので、共に深く掘り下げて考えていただくことを望んでおります。メシヤ様は、救済に立ちあがられた初期の頃を振り返られて『俺はもっと薄情にならなくてはいけないと、自分で自分を責めたものである。(「栄光」257号・昭和29年4月21日付)』という内容の御言葉を述べられています。それは、縋られると断り切れずに結果次第では恨まれることもあった時代の回想の一コマです。

こうしたことを取り上げると、「救世主であるのにどうして救えないのですか」という幼児性をそのままぶつけてくる人もいます。らい病患者が瞬時に全快した映画のシーンや海面が割れるシーンを想起してのことであるでしょうが、メシヤ様の論立てを時系列で整理して論理的に考えてゆかねば理解できないところがあります。

もともと「どうして救えないのですか」を向けるべきは、現代医療なのです。医療が取り組んだ末に救えない状態になってしまっているのです。しかし、メシヤ様は惻隠の情を以って取り組まれた過去があるのですが、やはり医療によって臓器を切除あるいは組織破壊してしまった後には『見込みない』と判断せざるを得ない場合もある、ということなのです。

メシヤ様は総論と各論を具体的にお述べになっています。それを幼児性を以って感情論で批判すると、その延長線上に、“肉体は医療で魂は浄霊で救う”というとんでもない論立てになってしまいます。そして、それを「経綸」という言葉で塗り替えて提示してしまうと善人善女は騙されてしまいます。これは、御教えの全体的構成を整理して理解できていない指導者が陥るところでもあるのです。

「禁断の木の実」に秘められた真実

今回掲載の御教えを細かく区切って拝読するとより、鮮明に論立てが浮かび上がってまいります。

『前項の如く悪の九分九厘に対して、善の一厘が現はれ、絶対神力を揮(ふる)って既成文化を是正すると共に、新文化を打ち樹(た)てる。早くいえば掌(てのひら)を反(か)えすのである。之が今後に於ける神の経綸の骨子であって、其(その)破天荒的企図は想像に絶するといってよかろう。』

昭和27年文創の折に『経綸の骨子』として示されており、御在世中にその変更はありませんでした。ですから、先程の『経綸』として打ち出したとしても、如何に御神意から逸脱しているかがお判りだと思います。

そして、『破天荒的企図は想像に絶する』という前書きに沿って次のように解明してくださっているのです。

『之に就(つい)ては彼(か)の旧約聖書創生記中にある禁断の木の実の寓話(ぐうわ)である。勿論(もちろん)之は比喩(ひゆ)であって、エデンの園にゐたアダムとイブの物語は、実に深遠なる神の謎が秘められてゐる。それを追々説いてゆくが、之を読むに就(つい)ては全然白紙にならなければ、到底分りやうがないのである。言う迄もなく木の実を食ふ事によって悪の発生である。といふのは木の実とは薬の事であって、薬によって病気が作られ、病気によって悪が発生する。処が人類は紀元以前から、病気を治す目的として使ひ始めたのが彼(か)の薬剤であって、禁断の木の実とは、何ぞ知らん此(この)薬剤を曰(い)ったものである。

メシヤ様は、寓話「禁断の木の実」に秘められた神の謎を解き明かされたのです。この重大な御解説は、欧米人を始めとする人々が太古の昔から抱えていた謎の核心を氷解させるものだったのです。しかし、このことは世界へ知らしめてはおりません。それどころか、残念なことに本家本元が埋めてしまおうとしているとしか思えないことが続いているのです。前掲の書き込みの通りです。

薬剤こそ悪発生の根本

そして、メシヤ様は、寓話に秘された真実の暴露をスタートに、以下のように具体的手段の根源の説明を加えてくださっているのです。

『茲(ここ)で曩(さき)に説いた如く、人間は霊と体とから成立ってをり、霊が主で体が従であるといふ原則も已(すで)に判ったであらうが、そのやうに悪の発生原は霊に発生した曇りであり、此(この)曇りに元から憑依(ひょうい)してゐた動物霊と、後から憑依(ひょうい)した動物霊と相俟って、人間は動物的行為をさせられる。それが悪の行為である。』

『早く言えば霊の曇り即悪である以上、悪を撲滅するには霊の曇りの解消である事は言う迄もない。』

『処が曇りの因(もと)こそ薬剤であるから茲(ここ)に大きな問題がある。勿論(もちろん)霊の曇りは濁血の移写で、濁血は薬剤が造るのであるから、人間薬剤さへ用ひなくなれば悪は発生しないのである。斯(こ)う判ってくると禁断の木の実、即ち薬剤こそ悪発生の根本である事が分るであらう。』

この論立てを見ると、極論ながら仮に浄霊力がなくとも宗教の使命として、悪をなくすために『薬剤を用いない』姿勢を貫かなければならないはずなのです。ただし、当然のことながら信者に強要し束縛するということではありません。

これに対して貫かないという団体は「御教えを信じない」ということを公言しなくてはなりません。信者は御教えを信じて所属しているのですから、「信じていない」と公言して離脱してゆくか、方向転換の根拠として「御教えを信じない」ことを提示して、所属信者に選択の自由を与えなければなりません。

「医療拒否」という姿勢ではない

方向転換する背景には「医療拒否」という社会問題もあります。しかしながら、これに対する考え方も不十分です。そのため、ここで教団方針がぐらついてしまうのです。ですから、次の文章を引用しまして更に考えてまいりたいと思います。

「栄光270号(昭和29年8月18日付)」『御注意』

先般七月十七日及び十八日に亘り、ラジオ放送及び東京新聞をはじめとする各新聞紙上に大々的に報道せられたる、埼玉県児玉郡上里村の「同村における本教信者が赤痢患者であったにもかかわらず、そこに他の信者が集合会食せる為、二十一名の真性赤痢が発生し、内一名は死亡した。然(しか)も狂信の信者達は医療も消毒も拒否した」云々の記事は、痛く世上の耳目(じもく)を刺戟し、各方面に御迷惑を御掛けしたる向もあるやと承り、誠に遺憾に存ずる次第であります。

右に就いては、当本部においても係員出張実地調査したる処、事実に相違せる点も多くあり、非常に誇大に誤報され、ことに赤痢菌が、本教信者によって蔓延せしめられたかの如き印象を与えたるは、誠に残念に存じます。

本教においては常にかかる誤解の生ずる事なきを期し、各大中教会、支部を通じ、又本紙及び地上天国誌を通じて注意を促し、苟(いやしく)も法治国民として国法の定むる処に従い又法定伝染病等に対する心構えについては、慎重の上にも慎重を希望している次第でありますが、薬毒に関して充分その害を知る信者としては、不知不識の間に、何時の間にか逸脱の虞(おそ)れなしとせず、以て不測の事態を引起すが如き事あり、本教の発展にも影響する処あるが如きは、明主様の御慈みに対しても誠に申訳のない事であります。

何卒信者各位の慎重なる御配意を希望する次第であります。

(世界救世(メシヤ)教本部)

この日付の時期には、メシヤ様は御浄化に入られていたので、役員会による文章だと考えられます。世界救世(メシヤ)教本部と記されていることからも、御論文集に収録されてはいるものの、そのことが窺えます。また、この事件までに様々に教団への誹謗中傷による金品要求の圧力が続いていたようです。

そして、次の文章の解釈が非常に重要になります。記述された文章全体を受け止めている分には問題は生じないのですが、区切って解釈すると、その重点を置く箇所によって信仰姿勢は雲泥の差を生じてしまうのです。

「栄光279号(昭和29年10月20日付)」『信徒諸士に告ぐ!』

本教信徒の中に、浄霊の場合、医師にかかること、薬をのむこと、注射をすること等について、否定する如き言葉ありやにて、本教の主旨を履(は)き違え、社会の誤解を受くることは、本教を傷つける結果となることは勿論で、この点充分注意され、決して医療を否定する如き事無きよう、ここに重ねて戒意を促す次第である。

以上に対し私の所見を述べてみたいと思う。先ず我がメシヤ教は宗教法人として認証され、国法によって保護を受け、信教の白由を認められている以上、法を重んじなければならないのは当然で、医師法に触れるが如きことは厳に慎まねばならない意味は誰しも分ると思う。

処が本教浄霊法は現代医学と全く相異なる立場にたつ治病原理である以上、事実を事実として書いたり喋ったりすることが悪意に解されれば医療否定という事になる。とすれば右の一文に対し一見矛盾を感ずる人もあろうがそうではない。それは本教浄霊法の、他に追随を許さない大奇蹟である。先ず第一に医師に見放された重症患者を起死回生せしめる力の発揮である。しかもそれが入信すれば誰でもできること、疑っても治る事、お説教は第二第三で、直接人間の魂に集中透過し改過遷善できる、人を救えば救う程大きな御神力をいただくことができる、如何なる遠隔僻遠(えんかくへきえん)の地にあっても同様奇蹟をいただくことができること等々、無限絶対の力徳の根源でありその発揮であることは論をまたないところである。従って本教浄霊の原理、病理臨床上のことについて人に伝える場合、聊(いささ)かも先方の意志を無視して強要する必要はないのである。否執拗に繰返すことは、熱心のようであって実は御神意に対する冒瀆であると御垂教(ごすいきょう)賜わっている。

次に今一つ重要な事は、最後の時期が迫ってくるとともに救われるものと救われざるものとの審判が厳しくなって来ることである。従って本教の話をして分らなかったり、事実に目を背(そむ)けたり、御神書を見せても分らない人は、時期が来ていないか既に滅びの方に運命づけられているのであるから、如何に救わんとして努力すると雖(いえど)も徒労に過ぎないばかりか、救われるべき人に対してそれだけ救いが遅れることになるので、この点も厳に戒しめられているところである。

従って問題が起きる場合を振返ってみると、悉(ことごと)く小乗信仰の結果であり、何(いず)れも右の御教えに抵触していることは言うまでもない。小乗信仰とは自力本位であるから、如何に本教信者とは言え、否本教信者であるが故に御守護がないと言えよう。我々は、今後如何なる事態が起ろうとも、心を謙虚にし、神の愛を胸に畳んで、正邪善悪の判別力即ち叡智を賜わり進むならば、世に恐るもののないことを一層銘記するのである。

この二つの引用文は、非常に大きな意味を有していることはご承知の通りです。メシヤ様が御浄化に入られていたために、社会問題となる恐れのある事象にどのように対応するかの練り上げが不十分のまま歳月を費やしまったのです。そのため『信徒諸士に告ぐ!』の前半を重視すると、今日においては結果的に、問題回避のためにともすると医者の言いなりになってしまっているのです。

全文の趣旨を受け止めず、冒頭の部分のみを重視すると、それでは偏った考えになり、メシヤ様御指摘の『錯覚』を起こしてしまうのです。つまり、浄化停止と治癒を勘違いしていた『夜の時代』に逆戻りしてしまうのです。

そうした点で、書き込みの中にある医者の言「これまで浄霊をして、御用も取り組んできて癌になったのだから、全摘して、その後浄霊に取り組めば良いのではないか」は、大きな意味を有しているのです。一つは、「東方之光教団の進める取り組みを全面否定していることなのです。」と書き込んだ通りです。

そうして、書き込みでは記述しなかった、もう一つの見方が非常に重要になってくるのです。

信仰を説いてこなかった

二つ目については「枚方支部」で話した内容をそのまま引用しますので、繰り返しになりますがお読みください。


代表先生
(前略)せっかく「メシヤ様」が、こうして「顕現」されたのに、そういうことを「認識」しないで、お祈りをしていると、やはり、他の代理の神様が御神前に出てくる、ということになりますね。以前私が教団に所属していた頃、布教所を転勤して回っていた時に、そこで信者さん方に必ず言ってきたことがありますが、我々は『浄霊』力を授けられたということは、メシヤ様はこれは『霊』の行使だと仰っておられるから、(浄霊をさせていただいていると、)そこら辺りの霊能者同等あるいはそれ以上の力を発揮するわけだから、いわば、我々の(生活上の)『心言行』は、『祈祷師のよう』になっていくわけですね。まあ、世間では”飯縄使い”とかあるでしょ?また、相手を呪い殺すような魔界の”呪術の使い手”というのがあるでしょ?それと同じように、(メシヤ様の御浄霊を、人が直接的に手をかざして、祈り放射するということは)「霊的な力を行使」出来るようになっているんだ、ということですね。

これは「御浄霊」だけれども、また、御神前で『祝詞奏上』するときに、“不平不満”や、“あいつコン畜生”とか、“あいつ許せんな“と思っていると、呪術的に相手を苦しめる祈りをしているようなものなんですよね。

で、最高神に天降っていただけるので、「最高神に合わせた想念で祝詞を奏上しなくてはいけない」、と思ってしてきた人達は、最高神が御降りいただいているんだけれども、”不平不満”な気持ちとか、”敵対心”とかで、奏上していると、“許せん”“敵を討ちたい”という役を担った神霊が(周辺や自分に)降りてきて、守護していくことになっていくということになるので、どうしても、ここにメシヤ様が御解説して下さっているように、「いくら熱心でも良からぬことが起きていく」という方向になっていくというのは、そういう『仕組み』がある、ということを、この『文明の創造』を拝読しながら、より一層わかって頂きたいと思います。

で、そういう点からすると、今日の「善言讃詞」をあげた時にですね、「無量無邊の大慈悲に 天魔羅刹も服ひて諸悪邪法は改り 夜叉龍神も解脱為し諸善佛神咸く 其志を遂ぐるなり」という言葉が実現化していくように、われわれは信仰していかないといけない。

ですから、○○教団の人をお導きする、改心して頂く時には、「諸善佛神咸く 其志を遂ぐるなり」という想念で行かないと・・・。

“みんな、良かれ、と御神業に臨んでいる”んだけれども、結局、「薬を併用するという、邪神界の代理」をしているわけで、そうすると本来の志を、「死ぬまで、永遠に、遂げることが出来ない」ような状態にあるので、それでは「お気の毒」ということで、「手を差し伸べていくんだ」、という想念で、働きかけてください。

私達は『夜昼転換』の御教えをいただき、大変高い視座による歴史観を提示していただいているのですが、信仰生活の中に『夜昼転換』が実践されていなかった面もあるのです。いや残念ながら、そのように指導されてこなかった訳なのです。

そのために、「これまで浄霊をして、御用も取り組んできて癌になったのだから・・・」という医者の話は、違う意味で重要なのです。「新しい経綸」と言われても、御教えに照らして考えた時に“ちょっと違うのではないか”と考えてしまいます。これは当然なのです。しかし、モヤモヤを抱えながら御神業と称して取り組みに参加すると曇りを発生してしまうのです。また、『夜の時代』の精神の癖を指摘されずに活動に臨んでいると、『知っているからこそ生じる罪』が発生してしまうのです。

それが医者が言った意図とは違うものの、根本的な意味での課題なのです。

つまり、浄霊をいただいて癌は消えるのですが、『夜の時代』の精神の癖を取り除いてゆかねば新たな霊の曇りを発生させてしまうのです。このことに気付かねば、信者は救われません。初めてご縁をいただく方は、『知らなかったので罪は軽い』ということから、浄霊をいただけば瞬く間に救われるのです。しかし、信者は曇りを発生させ続けたことのお詫びから再スタートを切らねばならないのです。

この詳細については「地上天国祭」での報告を受けて、詳細に解説を加える予定です。

5月の素晴らしい出会いの中には、御在世中から支部長の任を担った方のご家族もいらっしゃいました。支部長だった方の遺品中に「霊学」についての書籍が相当数ありました。どれにも赤線が引かれてあり、その軌跡を目の当たりにした時に“先達はやっとの思いでメシヤ様に辿り着いたのだな!”と思わされました。

『今日の如き苦悩に満ちた地獄世界を作った根本原因』を知った時の、幸せの根源を見つけることができた時の、『根強い薬剤迷信』から脱却できた時の、その喜びを胸に膨らませて御神業に邁進されたのであろうことが伝わり、心が満たされました。

[print_link]

 

Print Friendly, PDF & Email