メシヤ講座・特選集no.126(平成23年7月分)

<御教え>

『文明の創造』総篇
救い主と贖罪主


(文創  昭和二十七年)

私は之迄悪に就(つい)ての根本理論として、悪が必要であった事、悪によって今日の如き文化の進歩発展を見た事をかいて来たが、茲(ここ)で今一つの重要な事をかかねばならない。それは有史以来今日迄幾多の宗教が生れ、其(その)説く処は例外なく善を勧(すす)め、悪を極力排斥したのであった。勿論(もちろん)之は悪其(その)ものを除くのが宗教の建前であるから勿論(もちろん)当然であるが、それに就(つい)て私はよく斯(こ)ういふ質問を受けたものである。“一体神や仏は愛と慈悲の権化であり乍(なが)ら悪人を作ってをいて罪を犯させ、それを罰するといふのは大いに矛盾してゐるではないか。それならいっそ最初から悪など造ってをかなければ、罰を当てる必要もないから、それこそ真の神の愛ではないか”といふのである。成程此(この)質問は尤(もっと)も千万(せんばん)で一言もないが、実をいふと私にしても同様の考へ方であるから、其(その)都度私は斯(こ)う答へる。“成程それには違ひないが、元々私が悪を作ったのでないから、私には説明は出来ない。つまり神様が何か訳があって悪を作られたのであるから、何(いず)れ神様はそれに就(つい)ての、根本的理由をお示しになるに違いないから、それ迄待つより仕方がない”と曰(い)ったものである。

処が愈々(いよいよ)其(その)時が来たので神は其(その)事を詳しく啓示されたので、私は喜びに堪(た)へないのである。そうして右と同様の疑問を有(も)ってゐる人も多数あるであらうから、之を読んだなら、暗夜に燈火を得た如く豁然(かつぜん)と眼を開くのは勿論(もちろん)であらう。では何故今迄の宗教開祖の悉(ことごと)くが悪を非難したかといふと、曩(さき)にも詳しくかいた如く、或(ある)期間悪が必要であったから其(その)深い意味を主神は知らさなかったのである。従って仮令(たとえ)正神と雖(いえど)も知り得る由はなかったので、正神は何処(どこ)迄も正義のみによって天国世界を作らんとするに反し、邪神は何処(どこ)迄も目的の為手段を撰ばず式で、悪によって野望を遂げんとしたのである。

処が愈々(いよいよ)悪の期限が来たので、主神の直接的力の発揮となった事で、茲(ここ)に私といふ人間を選び、善と悪との根本義を開示されたのである。それといふのは今迄の各宗開祖は力が足りなかった。其(その)最もいい例としては彼(か)のキリストである。キリスト自身は贖罪主といったが、救ひ主とは曰(い)はなかった。贖罪主とは読んで字の如く、罪の贖(あがな)ひ主である。つまり万人(ばんにん)の罪を一身に引受け、主神に謝罪をし、赦(ゆる)しを乞ふ役目である。早くいえば万人(ばんにん)の代理者であり、赦(ゆる)される側の神で、赦(ゆる)す方の神ではなかった。其(その)為罪の代償として十字架に懸(かか)ったのである。

此(この)理は仏教に就(つい)てもいえる。彼(か)の釈尊が最初は仏教によって、極楽世界を造るべく数多くの経文を説き、専心教へを垂(た)れたのであるが、どうも予期の如く進展しなかった処へ仏典にもある通り“吾七十二歳にして見真実を得た”と曰(い)はれた通り、此(この)時自己の因縁と使命を本当に知ったのである。そこで之迄の誤りを覚り、極楽世界出現は遙かに先の未来である事が分ったので、之迄説いた処の経説には誤謬(ごびゅう)の点少なからずあり、之から説くものこそ真実でありと告白し、説いたのが彼(か)の法滅尽経であり、彌勒(みろく)出現成就経であり、法華経二十八品(ぼん)であったのである。一言にしていえば釈尊は仏滅即ち仏法は必ず滅するといふ事を知り、其(その)後に至って現世的極楽世界である彌勒(みろく)の世が来ると曰(い)はれたのは有名な話である。只(ただ)茲(ここ)で時期に就(つい)て注意したい事は、釈尊は五十六億七千万年後ミロクの世が来ると曰(い)はれた。併(しか)しよく考えてみると、いくら釈尊でも其(その)様な途轍(とてつ)もない先の事を予言する筈(はず)はない。第一そんな先の事を予言したとて、何の意味もないではないか。何故ならばそんな遠い時代、地球も人類もどうなってゐるか、到底想像もつかないからである。之は神示によれば五六七の数字を現はす為で、此(この)数字こそ深い意味が秘めてあった。即ち五は日(火)、六は月(水)、七は地(土)であり、之が正しい順序であって、今日迄は六七五の不正な順序であった。之は後に詳しくかく事として、兎(と)に角(かく)キリスト、釈尊の二大聖者と雖(いえど)も、真理は説けなかったのである。何よりも経文やバイブルにしても明確を欠き、何人と雖(いえど)も到底真理の把握は不可能であったにみて明かである。勿論(もちろん)時期の関係上止むを得なかったのである。

処が茲(ここ)に主神は深奥なる真理を愈々(いよいよ)開示される事となった。此(この)著に説く処明快にして些かの疑点なく、何人も容易に真理を掴み得るのである。そうして今迄強大なる悪の力が一切を九分九厘迄掌握し、後一厘といふ間際(まぎわ)に来て、意外にも茲(ここ)に一厘の力が現はれ、邪神の謀略を一挙に覆(くつが)へすのである。つまり悪主善従であった世界が、善主悪従となるのである。そうして之を具体的にいえば斯(こ)うである。即ち九分九厘の悪とは現代医学であって、之も曩(さき)にかいた通り必要悪であるから、今迄はそれでよかったのである。然(しか)し其(その)結果として人間の最大貴重な生命を完全に握って了(しま)った。若(も)し医学が誤ってゐるとすれば、生命の危険は言語に絶するといってもいいであらう。之程世界人類から固く信じられてゐる医学を是正するのであるから、容易な業でない事は言う迄もない。

 

≪『出雲支部』発会式挨拶≫
集大成されて導こうとされる
御論文『文明の創造』

メシヤ教代表 楳木和麿

救世の情熱が再燃して支部発会へ

「出雲支部」発会式おめでとうございます。思えば、責任者の立石さんが巻紙によるお手紙をくださったところから、本日の慶事の運びとなりました。

参列の皆さんご承知のように、立石さんは教会時代に萩の平本先生のところへ毎月通われ信仰を育まれました。そして、布教に身を捧げ、奉職もされていました。しかし、その後の教団(現・東方之光教団)の姿勢に疑問を持ち、御神業の一線から身を引かれていました。幸いなことに私との出会い、話し合いを契機に救世の情熱が再燃することとなりました。

私は、そのお手紙を目にして非常に身に迫るものを感じました。お許しがあれば、その際のお手紙をホームページにてアップさせていただきたいと思います。

 拝啓

先般は寒さの中御面会のお許しをいただけ誠に嬉しく存じました。

自分の方で勝手にお話し乍(なが)ら此(こ)れからの方向が整理出来、先生の御力徳のお蔭と感謝して居ります。

扨(さ)て善は急げと申します。早速改めて活動を再開いたしたく、その手順をお教え頂きたく先般の御礼に合せお願いいたします。

私なりの最強の光がお取り次ぎ出来るために・・・・・。

入会、御神体の御奉斎、大黒天様の御奉斎等経費に係ることまでお知らせ頂きますようお願いいたします。

急ぎ救わねばならない方々が浮かんで参ります。         敬具

奉職者の本来の姿勢を貫いた青年時代を持つ出張所責任者

また、同時に「奥出雲出張所」を発会していただくことになりました植田さんからは、先月詳しく教会奉職時代からのことをお聞きすることができました。この内容も、私がここで語らずとも皆さんご承知の通りです。しかし、他県の各支部、各「メシヤ講座」会場にて今月お話していますので、この内容もお許しがあればアップさせていただきたいと思います。

今月、明後日「出雲支部」が出来ます。出雲支部と同時に「出張所」も出来まして、(中略)この出張所の責任者が、○○教会の50数年前に専従者だったんです。それで、出雲支部をしてくださる方の妹さんですが、かつて病気で、浄霊に通ってくれたということです。バイクで40分かけて、毎日浄霊に通って救われた。そして、このご一家が入信したんです。そして、自分達一家で浄霊を始められたんですが、この妹さんは、救われたということがご縁で、この人(出張所 責任者)と結婚したので、それでご兄弟になったという関係なんです。

この人(出張所 責任者)は非常にもの静かな人で、メシヤ講座に書いてあるように、非常に上品な浄まりきったような紳士なんですよね。小柄な、ちょっと背骨が曲がってるのでこんな感じでね、人の話を始終ニコニコと聞いて、自分の事をあまりしゃべらなかったんです。

あまり事情を知らなかったんだけれども、先月の月次祭の時に、みんなが食事の準備に行って、その人だけポツンと座っていたので、「専従を止めた理由を聞かせてください」と話をしたんです。

すると、○○教会の教会長が、ある農家の信者さんの頭を畳にこすりつけながら、「田圃を全部売って献金せい」と指導している所に出食わして、

「教会長、何を言ってるんですか!この人は農家なんですから、田圃を売ったら生活が出来なくなるじゃないですか。その中で作物を作って、農家だから現金は作れないけど、その中から真心を捧げているので、それを売ってしまったらこの人はどうして生活するんですか」

と言ったら、まぁその場は教会長が「わしが言い過ぎた」ということで引いたので、おさまったんですが、また違う人に、それを言っているので、この人は怒って、もう2度目なのでその時には教会長に言わないで、支部長と専従者の会合の時に、

「教会長、あんな指導をしてもらっては、明主様の御心に叶いません。すぐにああいう指導はやめてもらいたい」

と、言った。

そうすると、他の支部長達が「おい、植田さん、上司に向かって、そんな事言うもんじゃないよ。謝りなさい」と。しかし「冗談ではない、私達は明主様の御心に基づいて御神業をしているんであって、教会長のあんな指導を鵜呑みにしていたら、かえって大変なことになる」と。しかし、教会長は黙ってしまって、知らんふりしているから、他の人が「早く謝れ謝れ」と言う。

冗談じゃない、こんな教会では御神業が出来ないということで、スパッと止めてしまった。(中略)

「そこまでやって来られたなら、メシヤ教の方針はこういう方針なので、今この方針に基づいて出雲支部が出来ますから、こちらの方をお世話する出張所のお世話をやってもらえませんか」

と、話しましたら、「ああいいですよ」と言ってくれたので、先月決まったんです。

だから教会時代にも、そういう素晴らしいメシヤ様の御心に基づいて御用をするという、素晴らしい人材がいたという事は非常に嬉しいし、今の東方之光は非常に情けないなと思うね。「メシヤ様の御心」というものを前面に置かないで、「方針」ばっかりを打ち出している。(中略)専従者というのは、「そういう気概」をもってメシヤ様の御神業を担わなければいけないんだと、その人がそういう話をしてくれた時に、本当に私は嬉しかったです。こういう専従者の方が先輩としていらっしゃったんだなぁと、嬉しく聞かせていただいたんです。

(枚方支部月次祭での話から引用)

メシヤ教への入会は“転会”することではない

さて、既に皆様から本部の方へ「入会お願い書」が届けられ、本日も御神前へ捧げられております。そこで初めに、入会の概念についてお話しておきたいと思います。お集まりの皆さんは、大半の方々が東方之光教団所属でしたので、メシヤ教に入会するというと、“転会”するという意味合いをお持ちになるのではないかと推測されます。そういうことではない、ということをまずお伝えしておきます。

メシヤ様御昇天後、「世界救世(メシヤ)教」から「世界救世(きゅうせい)教」へ呼称を変更して、メシヤ様が本来進められようとされた御神業から離れたものになってしまいました。私は、そのことを憂い、「世界救世(メシヤ)教」を復興して、メシヤ様が示された本来の御神業を推進させていただこう、と考えたのです。そして、メシヤ教としてその取り組みを進めさせていただいているのです。ですから、入会というのはメシヤ様が推進されようとした本来の御神業を担わせていただく、という志を持つということなのです。

ですから今回、出雲支部を発会させていただいたのですが、東方之光教団からメシヤ教に移る、という概念ではないのです。本来の「世界救世(メシヤ)教」という取り組みを進めるということで、偶々(たまたま)現在のところメシヤ教出雲支部となった訳なのです。これをいきなり「世界救世(メシヤ)教」とすると、対立関係が生じたりしかねませんからね。

そういうことで、メシヤ様が願われた本来の「世界救世(メシヤ)教」の取り組みを進めることに参加するということなんだ、というように理解していただきたいと思います。 しつこいようですが、移籍とか転会とか、ということではないのです。

本来メシヤ様が進めようとなされた取り組みに高まっていくということなんだ、と申した方が相応しいかも知れません。偶々(たまたま)お世話上、メシヤ教がその取り組みをお世話するということです。「世界救世(メシヤ)教」時代でも通称は「メシヤ教」だった訳ですから、私は通称を使っていることになりますが、本来は「世界救世(メシヤ)教」の御神業推進ということです。

そういう構造になっているのですから、意味合いからすると、どの教団に所属していても良い訳です。本来の「世界救世(メシヤ)教」をやってゆく訳ですから・・・・・。しかしながら、そういうことを考えると、今までの取り組み自体が怪訝(けげん)に思えてくるのではないかと思います。いや、情けなくなってきませんか、指導などを聞いていると・・・・・。

先月お配りした御論文『文明の創造』を改めて拝読させていただきつつ、御創業時からの御教え全てと対比しますと、「世界救世(メシヤ)教」開教が如何に大きな分岐点となったかが拝察されます。皆さんもご承知のように、終戦までは官憲の弾圧を避け歯に衣着せぬ表現を控えられて御執筆になられていました。また、神観についての御記述では、皇室に御配慮されて御論文を御執筆になられていました。それはともすると、真実を覆い隠す部分も存在することになりました。

しかし、信教の自由が保障され、表現の自由も保障され、メシヤ様は教団体制を整えるべく「世界救世(メシヤ)教」の開教に踏み切られたのです。それは明らかに本来進められようとされた御神業を本格的に推進する御意図の表れであります。そして、それまで御発表になられた御論文も、御神業の本格化に併せて真実を明らかにするべく集大成されようとなされた、と拝察されるのです。

ですから、このような説明を重ねさせていただくと、皆さんにとっては、これまでの所属教団の動きに対して情けないお気持ちになられることと思います。こんな素晴らしい御教えをですね、メシヤ様は集大成してくださっているのに、これを除(の)けておいて運営しようとしている訳ですから・・・・・。

メシヤ様が示された道を日々歩む生活に

では、これから出雲支部を中心にしてどのような取り組みをさせていただくか、と申しますと・・・・・。先程、「入会というのはメシヤ様が推進されようとした本来の御神業を担わせていただく、という志を持つということなのです。」とお伝えいたしましたが、その志に基づいて具体的に行動するということなのです。

具体的とは、まず想念の問題です。メシヤ様の御神格を明確に認識し、直に太くメシヤ様に繋がらせていただく想念を確立する取り組みが第一にあります。皆さんは長い信仰歴をお持ちですが、組織論に翻弄されてきた面がおありです。そうであるからこそ、メシヤ様に直結することの重要性にもお気付きになり、こうして支部発会に賛同されたのです。

しかしながら、無意識のうちに過去の指導内容に引きずられることも生じます。どうか、意識して、日々心を新たにして、メシヤ様へ直に太く繋がる想念をお持ちいただきたい、と願っております。

そして次に、メシヤ様が信者の課題としてお示しになられている

『信者たる者、常に魂を磨き、言葉を練り、上魂の人間たることを心掛けるべきである。』

というお言葉の実践です。

これが、組織論に翻弄された過去の精神の癖から脱却できる道であります。これも日々心新たに意識しながら生活していただきたく願っております。

メシヤ様の御存在に対する認識が明確になれば、浄霊力は自然に強化されますので、ご縁のある方々へ救いの手を差し伸べて差し上げてください。

また、先程から度重ねて申しているように、メシヤ様が本来進められようとされた御神業に身を捧げようとされた時に、そのことを阻むものを改革してゆく必要があります。

御教えの拝読に深みを、そして時代に即した受け止め方を

それがそのまま教団紛争の終結に対する姿勢でもあります。何故教団浄化が続くかと申しますと、メシヤ様が本来進められようとする御神業に到達していないからなのです。これは、当然のことながら和解が成就できないということも、御心に適うところまで今一歩という状態なのです。人間的な問題に目を奪われ、御教えの受け止め方にも全くの勘違いがあるということなのです。

メシヤ様は今月の「メシヤ講座」に掲載されている『文明の創造』において『医学を全面的に批判解剖してみる』と記述されています。

この一文を拝読した際に、『夜の時代』の癖で理解しようとすると対立的に捉えてしまいます。つまり医学を全面的に否定している、と解釈してしまいます。そういうレベルではないのです。「地上天国祭」で頒布した『文明の創造(二・下)』では、種痘を評価しています。それは、その時代の人々が、その時点での不幸を免れることに寄与した、という意味において評価したのです。

しかし、それはその時代だからであって、その後本来の「抵抗力」の概念をお示しになり、予防接種について考え方を正しておられます。

その論理の根底は何かと言いますと、人類の幸福を希(こいねが)うということにあるのです。この願いの下に『医学を全面的に批判解剖してみる』のだということなのです。ですから、対立的な考え方ではないのです。本来『医学とはこうあるべきだ』ということで、導こうとされたのです。そこのところを勘違いすると、医者と対立することを生み医療拒否のような問題が生じます。また、その反対に医療容認という姿勢から薬併用の浄霊という馬鹿げた在り方を生んでもしまいます。

そういうレベルではないのです。創造主の御存在からお示しいただいた内容が御教え、ということが重要なのです。これはどういうことかと申しますと、病理学、生理学、薬理学などが解明する内容というものは、創造主の仕組まれた様々な作用の裏付けをしているという部分が含まれている、という認識です。そうした考え方を持つということなのです。

前回もお話しましたが、血圧について考えればよく理解できます。昨日初めてのコマーシャルを見たのですが、サプリメント販売のために高血圧の数値を130として脅かし始めています。恐怖心を煽るのが邪神界の常套手段でありますので、「早めに心掛けましょう」と優しく言いながら、そこはかとない不安感を植え付けているのです。ついでながら、邪神界の常套手段は和を乱すということもありますので、この機会に心に留めておいていただければ幸いです。

高血圧が何故起きるかということは、「メシヤ講座」で再三取り上げてきました。腎臓のろ過機能が低下すると、血圧上昇を促すホルモンが腎臓から分泌され、それが心臓に届くと血圧を上げます。血液の流れに勢いがつくと、ろ過能力がアップするからです。対症療法的には、そのホルモンの分泌をブロックすれば血圧は上がらないという点に目を付けます。ですから、血圧降下剤はホルモンの分泌をブロックするものなのです。高血圧の原因を改善することではないのです。

血圧降下剤を服用すると血圧は下がりますが、ろ過能力が低下したままなので夜寝ている間も腎臓は働き続けなければなりません。すると、腎臓は更に疲れてしまい、血液のろ過をしきれなくなります。そうなってくると、体を正常に保つため血液を薄めようとします。尿の水分を再度血液に取り込み、糖分や塩分の濃度を保ち、老廃物や毒素も薄めようとします。これが浮腫みを生み、排尿量が減少するという症状を招きます。

こうなってくると、患者は心配になり「オシッコが出ませんので、何とかしてください」と医者に訴えます。医者は利尿剤を処方します。尿が出ると心理的には安心を得ますが、体が良くなっている訳ではないのです。それは、利尿剤は血液への水分の補給をブロックするものだからです。水分補給が断たれた結果どうなるかと言いますと、血液中の糖分や塩分の濃度、老廃物や毒素の量が異常になり、脳の病気を併発するようなことに繋がるのです。

こうしたことを知ると、血圧降下剤を服用しつつ浄霊をするというのは、如何にもナンセンスなのです。腎臓を浄霊すれば済むことだからです。そして、腎臓を疲れさせる生活習慣を改めるようにすれば、血圧が再び上がるということは避けられるのです。それを薬に頼ると、結果的に大きい病気を誘発してしまうのです。メシヤ様の医療に対する概念を取り違えると、大変な問題を生むのです。(関連する内容を浜松支部HP、三重支部HP、枚方支部HPにてご参照ください。)

批判のための批判ではない、教団改革のためのもの

繰り返しになりますが、そうしたことが先程拝読していただいた御論文の冒頭の受け止め方に繋がってまいります。『医学を全面的に批判解剖してみる』という御記述を目にすると、医学と対立的に写ると受け止める人もいますが、そうした短絡的な御精神ではないのです。そうかと言って、先程のように薬併用の浄霊を容認することでもないのです。

メシヤ様は人類救済のために、考え方を引き上げるために批判解剖しているのです。ですから、「地上天国祭」で取り上げたように、種痘の発見を評価している訳ですし、抵抗力の考え方に覚醒を促されてもいるのです。そうしたメシヤ様の論立てを拝察する努力を重ねる姿勢を持たねば、結果的に低レベルの取り組みになってしまうのです。

私が今、東方之光教団に対して批判的なことを申し上げるのは、取り組んでいる皆さんがメシヤ様の御意図に反する取り組みであるということを感じつつも、『素直が一等』というお言葉を使用されての取り次ぎに惑わされて動いている現状について、覚醒していただきたいからなのです。

間違えている最たるものは、先程から説明しておりますように薬理学の捉え方です。生理学上の仕組みの解明は評価すべきなのです。つまり症状が治まるように感じる作用を生むシステムを参考にしてメシヤ様の御教えの裏付けに繋げる作業が必要なのです。先程の高血圧の仕組みが解明されたのですから、腎臓を重点的に浄霊することを導き出す、という姿勢です。

そして、ここに『人間が間違った事さへしなければ、百二十歳は普通である』とお書きになっておられます。メシヤ様がこの御論文をお書きになられたのは昭和27年です。昭和27年と現代を比べた時に「間違ったこと」の違いは何かということを提示してゆくのが教団側の役割なのです。

こうした話を重ねると、信仰歴の長い皆さんは「心言行」、「衣食住」を見つめて整理できることと思います。(この内容についても、浜松支部HP、三重支部HP、枚方支部HPにてご参照ください。)

そのことが、御教えを拝読しつつ生活を整えてゆく、という信仰生活なのです。

支部へのご参拝で心掛けていただきたいこと

そこで、出雲支部を通して信仰生活を送る根底に参拝ということがありますので、主神様の御神名をお唱えさせていただくことの意義というものを最後にお話しさせていただきます。

天津祝詞、善言讃詞の奏上における意義、意味については、長い信仰生活において身につけられてきた思います。メシヤ様は、主神様という御存在について『表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すよりほかはないのである』と述べられております。その御存在に対してご参拝させていただきますので、今一度参拝姿勢について触れさせていただきます。

まずもって、『尊い御神名をお唱えすると、御神格の高さに応じて光がいただける』ということがあります。

主神様は、一切の創造主であられ主宰神であられる訳ですから、その御神名を唱えるだけで絶大なる御光を賜わります。

ですから、もう主神様にはお願いすることはないですからね、ただただ感謝申し上げるという姿勢ですね。主神様の御神名をお唱えする前に「この世で最も尊い御神名を唱えさせていただきます」という想念で「主之大御神守給へ幸倍給へ(すのおおみかみまもりたまえさきはえたまえ)」 と、一呼吸置いてお祈りさせていただきたいと思います。この御神名を唱えることが如何に有り難いかということです。そういう気持ちを膨らませて御神名を唱えさせていただきます。

そして、「御神名を唱えさせていただき感謝申し上げます」という気持ちで「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはえませ)」とお唱えさせていただきます。「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはえませ)」の場合は、メシヤ様はこの角度で私共の腹を見られている訳です。

本当に惟神(かむながら)なのか、ですね。「神様の御心のまにまに」というのが惟神(かむながら)ですから、「御神意のまにまに生活させていただきます」という決意を膨らませて「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはえませ)」と唱えれば良いのですね。それを参拝の度に自らに質(ただ)してゆくと存分に光を注いでくださいます。つまり、「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはえませ)」を叶えていただけるのです。魂を太く大きくしていただき、幸せを倍増していただけるのです。

メシヤ様は御名の通り救世主であられますので、救いに関する具体的なお願いをメシヤ様へさせていただきます。月次祭の時などでは、前もって具体的なお祈りを捧げてください。自らが救済に動く際には「御力をください」とお願い申し上げます。また、困った時には『私の名前を呼びなさい』と仰ってくださっておりますので、日々心掛けていただければ大変有り難いことになります。

それで、御神格の高い神様と低い神様の参拝の仕方は異なります。御神格が低いと、より具体的になってくる訳です。そういう意味では、大黒様は人格神として身近なお祈りで良いです。毎回「お金を運んでください」と直接ハッキリとお願いしてください。(笑い)

しかし、主之大御神様は宇宙をお創りになられた御存在で、地球を創られた御存在ですから、具体的なお祈りではない訳です。ただただ御神名をお唱えすることが相応しい訳です。そういう差が出てきます。そういう姿勢で支部へ来た時にお参りしてくだされば幸いです。これからどうぞ宜しくお願いいたします。

本日は誠におめでとうございました。(要旨)

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