メシヤ講座・特選集no.129(平成23年10月分)

<御教え>

『文明の創造』科学篇
病気と医学


(文創  昭和二十七年)

前述の如く、私は反文明の原因としての、戦争と病気の二大苦を挙げたが、その外に今一つの貧困がある。しかし之は戦争と病気とが解決出来れば、自然に解決さるるものであるからかかないが、づ戦争の原因から説いてみると、之は勿論もちろん精神的欠陥即ち心の病気にあるので、之も肉体の病気さへ解決出来れば、共に解決さるべきものである。

右の如く病気も、戦争も、貧困も同一原因であるとしたら、真の健康人即ち霊肉共に完全な人間を作ればいいのである。しかう言えば至極簡単のやうであるが、実は之が容易でない事は誰も想像されるであらう。しかし私から言えば、決して不可能ではない。何となれば必ず解決出来得るだけの方法を、神から啓示されてゐるからで、之が私の使命でもあり、その一段階としてのこの著である。

従ってづ病気なるものからかいてみるが、病と言っても前述の通り、肉体と精神との両方であるが、現代人は普通病とさへ言えば、肉体のみのものと思ってゐる処に誤りがあるので、この精神の不健康者こそ、戦争の原因となるのである。その様な訳でどうしても人間が肉体と精神と共に本当にならない限り、真の文明世界は生れないのは言う迄もない。ではどうすればそれが実現され得るかといふと、それには勿論もちろんその根本わかると共に、可能の方法も発見せられなければならない。処が私はそれに関する根本義を発見し、しかも絶対解決の方法迄も把握し得たので、ここに詳細徹底的にかくのである。それについてはづ吾々が住んでゐるこの地上の実相からいてみるが、元来この上の一切、今日迄の学問では物質のみの存在とされてをり、それ以外は無とされて来たのである。しかこの考え方たるや非常な誤りであって、どころではない。人類にとって之程重要なるものはない程のものが、確実に存在してゐる事である。にもかかはらずそれが何故なぜ今日迄分ってゐなかったかといふと、全く唯物科学にのみ依存して来た結果であるからで、即ち唯物科学に於ての理論は、見へざるものは無と決めてゐた以上、之程進歩したと思はれる唯物科学でも把握出来得なかったのである。右の如く唯物科学で知り得ないものは、ことごとく否定の闇に葬ってしまったその独断的観念こそ、学者の頭脳なるもののいともかたくなな偏見さである。之については多くをいふ必要はあるまい程、人類の幸福が文化の進歩に伴はない事実である。それを之から漸次ぜんじ説き進めてみよう。

以上説いた如く精神と肉体共に完全なる人間を作るのが真の医学であるとしたら、現代医学は果してその目的通り進んでゐるであらうかをここで検討する時、それは余りにも背反してゐる事実である。それ処ではない。むしろ病気を作り、病人を増やしてゐると言っても過言ではない程の誤りを犯してゐる事で、それを之から詳しくかいてみるが、づ医学なるものの今日迄の根本的考へ方である。といふのは医学は病気の原因が全然分ってゐないから、べて反対に解釈してゐる。勿論もちろん唯物科学本位で進んで来たものとすれば致し方ないであらう。

右の結果医学は病気の場合外部に表はれたる苦痛を緩和するのみに専念してゐる。従って医学の進歩とは一時的苦痛緩和法の進歩したものであって、その方法として採られてゐるものがの薬剤、機械、放射能等の物質の応用である。成程之によって病気の苦痛は緩和されるので、之でやまいが治るものと誤認し、緩和法を続行するのであるが、事実は苦痛緩和と病気の治る事とは、根本的にちがふのである。即ち前者は一時的で、後者は永久的であるからである。しかその苦痛緩和の方法自体がやまいを作り、やまいを悪化させる結果なのであるから問題は大きいのである。

何しろ唯物的医学であるから、人体も単なる物質と見るのみか、人間と人間以外動物をも同一視するのである。それによって動物を研究資料として、病理の発見に努め、偶々たまたま何等かの成果を得るや、直ちに人間に応用するのであるが、之が非常な誤りである。何となれば人間と動物とは形も本質も内容も全くちがってゐる事で、之に気が付かないのである。この理によって人間の病気は、人間を対象として研究されなければならない事は余りにも明かであって、之以外人間を治す医学は確立されるはずはないのである。そうして今一つういふ点も知らなければならない事は、動物には人間のやうな神経作用がないが、人間には大いにある。人間が神経作用のために、どの位病気に影響するか分らない。例えば一度結核と宣告されるや、この一言で患者の神経は大打撃を受け、目に見えて憔悴しょうすいする事実は、医家も一般人もよく知る処であらう。処が動物にはそういふ事が全然ないにみてもうなずかれるであらう。

以上によって見る時、現代医学の欠陥は、霊と体で構成されてゐる人間を、霊を無視して体のみを対象とする事と、人間と動物を同一に視てゐる点で、之が主なるものである事を知らねばならないのである。

 


≪「伊都能売観音」様入仏記念式典≫
現代社会の諸問題を解決に導く
御論文『文明の創造』

メシヤ教代表 楳木和麿

時節到来を感じさせるアンケート

皆さん、「伊都能売観音」様入仏76周年記念式典おめでとうございます。

今年も大勢お集まりいただき、メシヤ様御描画の「伊都能売観音」様を通して主神様、メシヤ様へ感謝の祈りを捧げさせていただくことができました。メシヤ様が御描画になられた経緯(いきさつ)は今までに幾度もお話しましたが、“何故、「伊都能売観音」様なのだろうか”ということには触れてはきませんでした。

「日之出観音」様は、大日本観音会発足時の御神体であったことはご承知の通りです。ですから、御遺作集に照らし合わせてもここに御鎮まりいただいているのは「伊都能売観音」様の御姿に相違ありません。

観音力を持つことで夙(つと)に知られたことから、地崎宇三郎氏が当時のメシヤ様へ御描画の依頼をしました。小樽と定山渓の間に道路を建設する際に、余りにも厳しい自然のために犠牲者が続出し、“観音力によって自然を和め、これ以上犠牲者が出ないように願った”とされています。メシヤ様はその依頼を受け御描画に取り掛かり、十月十日後の昭和10年10月17日に御下付されています。そして、この地で同26日に「入仏式」として御奉斎式が執り行われました。

メシヤ様が御描画の際に「伊都能売観音」様とされた御意図を求めたいと思います。

求める際に参考になるのではないか、という出来事が今月にありました。NPO法人「にっぽん文明研究所」から“「伊都能売神観・御倉板擧神」についてのアンケートご協力のお願い”というものが届きました。アンケートと呼ぶには大きな題材の質問ですので驚きましたが、時期的にも深い意義を感ずるところから、的確に返答しておく必要があると考えました。

というのも、ギリシャの財政危機に端を発した欧州の信用不安は容易に打開できず、アメリカ・ウオール街に始まる格差社会の是正を求めるデモは世界を一周した、と言われます。こうした国際情勢に対して「資本主義経済が瓦解する恐れがある」と指摘する専門家もいるほど、深刻な事態を招いています。もっとも、現在の経済は実態経済の破綻という意味合いではなく、金融至上主義に流されていることが招く不安的要素として直面している問題なのです。

かかる時にこそ、『伊都能売思想』が求められており、諸問題を解決に導く鍵になりますので、適切に返信しなくてはならない、と考えたのです。勿論、資本主義にも共産主義にも偏らない、とする論説です。その根幹にもなる内容でもありますので、許容量を超える回答をしました。ここで、その内容を読み上げます。

外部の方への返信ですので、表現もそのようになっています。

「にっぽん文明研究所」御中アンケートの回答を送信します。

教団名「メシヤ教」

1.貴教団の「伊都能売神観」とはどのようなものでしょうか。

に対して

「世界救世(メシヤ)教」岡田茂吉教祖が執筆した『文明の創造』を、質問に対するお答えの論拠とします。

この論文は内部的には知られるところですが、対外的には未発表のものです。

何故、この論文を論拠とするかと申しますと、質問に関する内容については昭和十年から様々に語られてはおりますが、信教の自由及び言論の自由が保障されるまで、皇室に配慮しての記述が続き、不明瞭な部分が存在しました。一方同時に、教祖自身の神格の変遷もあり(これは、2.の質問に関わる内容ですが)、それに伴い発表内容も吟味された上で論調が整えられています。

『文明の創造』は、昭和27年、満を持して執筆に当たったものであることから、論拠とする理由にした次第です。

メシヤ教では『文明の創造』を内部資料として復刻して、来年6月には外部向けに出版する予定です。

内部資料は12月に完成しますが、それに、“「世界救世(きゅうせい)教」三派、神慈秀明会、天聖真美会の信者の皆さんへ特に読んでいただきたい”というサブタイトルを付けた「天国篇」の仕上げ解説(代表の執筆原稿)を添えたものにします。出版社は未定です。

その中に記述されている「仏教の起源」「伊都能売神」「観世音菩薩」の内容が回答する場合の具体的論拠になります。正確を期すために引用しますが、長くなることをご容赦ください。

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ここに『文明の創造(宗教篇)』より『仏教の起源』『伊都能売神』『観世音菩薩』の全文を添付しました。三タイトル共に本年12月23日刊行の『文明の創造(三) 宗教篇』から添付したものですが、ここでは、紙面の関係から本文を割愛させていただきます。発刊をお楽しみに。)

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2.岡田茂吉師が静岡事件で留置場に収監される法難にあわれたとき、腹中に最高最貴の〇〇〇〇〇神が入られたとされております。その神とは御倉板擧神(みくらたなのかみ)といわれておりますが、貴教団での見解を教えてください。

に対して

『天上の王権のシンボル』としての御存在と捉えています。素盞嗚尊が押し寄せてきた理由もそれを狙ったものでしょうし、神武天皇が中国から上陸し高千穂に身を潜め素盞嗚尊による治世の乱れを目論んでいた理由も同様でしょう。しかし、覇権主義においては手にすることができなかったことは自明の通りです。

また、『天上の王権』であることから創造主、宇宙の主宰者(主神様)から降る御霊であり、昭和元年岡田茂吉教祖の腹中に宿った光の球に、昭和25年「チョン」が入り「ス」となり、この時から『メシヤ(救世主)』という御存在になった、と理解しています。

この内容については、ご承知のように『〇〇〇〇〇』の神とした表現に留めています。その後も踏み込んだ教祖の直接的執筆はなく、当時の井上茂登吉執事のみに明かされた内容、とされています。教団境内の外で井上氏他と執り行った神事において、宇宙の主宰者からの降臨であることが承知できます。その意味から、井上執事のみに明かされた内容、とされています。

ただし、教祖言の『主神直接の啓示』や『主神直接の絶対力』という表現がそれを雄弁に物語っていると思われます。

そして、メシヤ教では、そのことに対する認識を深めた者ほど救済力を発揮することができている、という(客観的に見ての)現象が起きています。

以上です。

こうしてまとめてみても、大きなテーマであると思います。ここに「伊都能売観音」様が御鎮まりになられてより、次第に北海道の自然は穏やかなものとなり、道路建設も無事に進捗した、と聞いております。そして、地元の方々の篤い信仰心により今日まで観音堂が守られてまいりました。

問題解決へと導かれたのです。そのことと重なり、現代においても、時代がメシヤ様の思想を求めているように痛感する今日この頃です。それというのも、先程“諸問題を解決する鍵”と申しましたが、現在学びを重ねている御論文『文明の創造』こそ解決へと導く道標(みちしるべ)となるからです。

諸問題を解決する鍵には薬毒の排除が不可欠

学びの中での具体論では、諸問題の解決には正確な判断を要し、そのためには薬毒の排除が不可欠である、ということを認識せねばなりません。現代社会は、正に九分九厘まで薬毒に侵された状態です。象徴的な映画としては、現在上映されている「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」があります。評価も尻上がりになっているようですが、認知症の薬の実験から深刻な事態が起こるという筋立てです。薬害が問題視されているのは、これまでの核問題とは趣を異にしています。

薬毒と言うと服用するものが頭に浮かぶと思いますが、生活日用品に使用されている化学物質を付加しなくてはならない時代を迎えています。このことについては、広島支部のブログで発信している内容が参考になるのではないかと思います。


<報告>

メシヤ様 日々御守護賜り誠にありがとうございます。私は、かつて15年間頭髪メーカーに勤務しておりました。そのメーカーでは、新商品のパーマ剤、カラー剤、シャンプー、リンス、人工ウイッグ等の商品開発のため社員によるモニターテストを行っており、私はモニター役でした。

モニター商品が届く度、髪の毛が赤、ピンク、紫、、緑とオウムのような髪にもなりました。

「今度はどんな感じ?」と楽しみでワクワクする反面、体調の優れない時に行うと顔中発疹が出ていたこともありました。

入社10年後頃より唇に赤いぶつぶつができ、それを触ると顔一面に広がり病院に行くとヘルペスと診断されました。

その後半年に一度はヘルペスになり、その度に病院で軟膏を塗り、抗生物質、痛み止めを服用しながら通勤しておりました。

医者は「ヘルペスは根本的に治すことはできません。症状が出たら早期に抗生物質を飲み治療に通うことです。」と言われ愕然としました。

結婚を機に退職しましたが、退社後もたびたびヘルペスの苦しみを味わいました。

そして、数年後メシヤ様と御神縁をいただくことを許されました。

ヘルペスの浄霊の急所は肝臓と伺い、自己浄霊をさせていただきました。症状はドンドン和らぎ、発症する間隔も長くなり、今では、数年、全く出なくなりました。

先日、代表先生に勤務中の話をさせていただきましたら、「そのような人体実験をさせられて、よく子供が五体満足で生まれたね。奇蹟ですよ。」と言われ身震いいたしました。

「今の妊婦の羊水はシャンプーの匂いがし、とても汚れている」と看護師、助産婦の証言も出てきていると聞きました。

ネットで調べますと、化学薬品で作られた界面活性剤シャンプー剤、パーマー剤、カラー剤が頭皮より浸透しわずか40分で子宮に溜まるようです。

在職中、私は“時代の最先端を無料で体験できる”と満足感の日々を送っていましたが、今思えば、毎朝身体の浮腫みなどもあり、それらは大量の薬毒、化学物質を体内に蓄積し、それにより肝臓、腎臓などの機能を壊していたのだと知り恐ろしくなりました。

あのままモニターを続けていたならば、今現在、どのような身体になっていたのかと思うとぞっとする思いです。

御参拝や御神体御奉斎、御手お写真をお迎えいただく毎に、頭痛が数日続く浄化をいただいておりましたが、今思えば、御光により過去の薬剤の溶解によるお浄めをいただいていたのだと改めて深く感謝いたしました。

メシヤ教では自然農法による食生活、環境汚染物のない材質の住居設備、肌に触れる全ての衣類や石鹸、トイレットペーパーまでも自然素材にこだわっての生活の指導をいただくことができ、薬害を取り入れない確固たる生活を奨励されています。しかし、まだまだ一部の方に過ぎず、多くの方は知らず知らずに薬毒を蓄積されていると思います。

これから出産される方はもとより、健康、不健康の方にかかわらず、安易なる宣伝や便利さ、安さに惑わされるようなことなく、メシヤ様の御教え通りの生活を営んでいただき、真に幸福な生活を送っていただきたいと思い、発表させていただきました。

広島支部 M F

この事例に代表されるように、警戒を怠ることができないほど危険な日常品に囲まれている状況に現在の日本は直面しています。これまでも取り組んできましたように、身近なところからの啓蒙活動を進めることが重要であります。その取り組みを考えた時に心に浮かぶことがあります。

元「東方之光教団」専従者が信仰の神髄に目覚めるという喜び

7月に参拝させていただいた後に、心に残る報告をいただいたことを思い出すのです。それは、本日もご参拝いただいております元「東方之光教団」職員の方から札幌支部責任者へ伝えた感想です。この方は、後で聞いてみると、“7月は参拝にご一緒すべきか”と迷っていたそうです。しかし、断る理由も見つからず同席したそうで、参拝した時に覆っていた雲が、それこそ雲散霧消したそうです。その情景を次のように話してくださいました。

「ただただ、ハハーッ、と頭が下がり平伏(ひれふ)すような祝詞奏上でした。信仰をしてきて、こんな思いに至ったのは初めてでした。」

今年定年退職されて、7月初めて共に参拝をさせていただいたのですが、私達が今年になって学びを深めてまいりました参拝姿勢、祝詞奏上の意義と意味に関連して象徴的な内容であるように受け止めました。

また、この方は以前故河合輝明氏が随行者とここを訪れた際に、定山渓で別の仕事に従事していたにもかかわらず偶然居合わせ、随行者から「あなたが加わると18名となり観音の数字になるので、一緒に参拝するように」と言われ、ご一緒したことがあるそうです。如何にも、という感じですが、その時とは全く違った感想を持たれたそうです。

今月3日メシヤ教に入会されて、「札幌支部」責任者を支えるお一人に加わり、東奔西走していただいています。

また、東方之光専従者という繋がりで「出雲支部」責任者のお話も付け加えたいと思います。「出雲支部」責任者は元「東方之光教団」幹部の方ですが、今月の月次祭で次のように語ってくださいました。

「メシヤ教に御縁をいただいて、神様へ真向かう姿勢というものを初めて学んだような気持ちにさせられています。また、御教えを一字一句吟味させていただきながら拝読させていただく勉強も初めてのようです。」

このように、信仰の本筋に目覚めていただける喜びを「メシヤ講座」の質疑応答の際に、しみじみと語っていただいたのです。教会時代から布教に勤(いそ)しまれ、元々信仰心があることは支部発会式の挨拶でお伝えしていますが、改めて信仰の喜びを噛み締めていただけることを大変嬉しく思っております。

そして、信仰の本筋を見つめる時に、長年の教団変遷の中で錯覚が生じている点があります。そのことについては枚方支部「メシヤ講座」で触れたことを参考にしていただきたいと思います。やがてテープ起こしが終わり、10月分としてアップしていただけると思いますので、参考にしていただきたいと思います。


「何でも飲んだ薬がすぐ出る」など、ウソ

代表先生

ここに痛みが出るということは、薬毒が刺激してるわけだから、そこを浄霊すれば消えていきます。それからね、みんなやっぱり唯物的に考えていくので、毒素の塊りがズルルルっと出ていくように、みんな錯覚しているんだけども、実はその毒素というのは、ほんの小さい物が溶けても相当な血膿になるわけですよ。だから昔から言われていたのはね、小豆くらいの毒素が溶けると洗面器1杯分とかになるんだと言われているのでね。

一番元の毒素は非常に痛くても小さいんだということです。それを出す時に血膿にして出すわけなんで、わぁ-と広がるから、「こんなん入ってたんか」となるけど、神経を使う所にきっちり固まっていっているわけなんで、非常に細かい毒素が、一つ一つの浄化で出ていくということです。だから「これが出たからもう大丈夫」ということはないわけなんです。

木原

MOAでよくありましたが、「これだけ集中砲火のようにやっても(病気が長引き)良くならないんですけども」と、そういうことがよくあったんです。そう言うから、「(入っている毒は)そんなもんじゃないんだ」と。米粒一つがコップ1杯の血膿とか、質により違いはありますが、小豆だと洗面器1杯とか・・、だからそれを考えた時に、自分が持っている毒と、排泄していったものと見誤ってしまうということがあります。

「この位タンが出たらもうこれは飲んだ薬が出ちゃってる」とか、「どんどんたくさん出てますよ」と、専従者が勘違いして、薬を飲ませちゃってます。

そもそも若い毒は力が強いですからね、毒血になるまで時間がかかるものもあるし、毒血も米粒一粒になるまでに何年や、古い毒だと数十年かかったりするしね、それを何でも今飲んだ薬が出てるという、今タンが出てるのはそうですよと言わんばかりのことを、よく話してますからね。

代表先生

だからタンが出てるのが、薬が出ていっているわけじゃないからね。その辺が全く勘違いしている。浄化を知らない人達が多すぎるね、専従者にね。

要するに風邪で鼻が出始めた、その鼻の分析すらしてないでしょ。(毒が悪質になっていった判別法として)まず透明な鼻汁から、白くなって、それから黄色くなったら少し毒素が出てるかなというくらいだからね。白いのは毒素じゃないんだから。これは言わば出すための潤滑油みたいなものだから、白いうちはまだ毒素じゃない、黄色くなってきたり、あるいは飲んだ赤い薬とか、いろんな色に出て来た時にはじめて毒素がやっと取れているわけだから。だって臭くないでしょ、白いタンなんかはね。少し緑がかったタンとか吐くと、ちょっと「ウッ」という臭いがする。これで飲んだ薬剤が少し出てるんだからね。

そんな「薬を飲んでてもタンが出てるから大丈夫ですよ」なんてね、そんなトボけたこと言ってたらね、本当に信者さんがお気の毒です。

木原

一応、専従者も(教団の出す浄霊にかかる)本なども読んでいるですけれども、そういうことよりも・・、薬を飲ますということが、頭にあるもんですから、何でもかんでも薬を飲ます、それがすぐ出ている、とそういうことに結び付ける頭が先にあるんで、それ以外は見逃すんでしょうね。結局は、療院を否定しないようにものを考えるんでしょうね。

代表先生

東京の療院で、大問題になっているのはね、真面目なおばあちゃんで、ある病気の症状が出ているんだけど、「私はこれまで薬を1滴も入れてないんだから行かない」というのを、専従者と家族みんなで療院に連れていって、薬飲ませてね、「あ~これで医療拒否を免れた」と、馬鹿な話をしてるのでね。愚の骨頂のようなお世話を強いているわけですよ。

【代表先生補足】

メシヤ様の御心を正しく理解しないで低レベルで考えてゆくと対立的になってしまい、医療拒否などということが浮上します。最先端医療を目指している姿勢が必要なのです。冒頭の話のように癌になったらどうするか、ということの前に癌の原因を究明し罹病しない在り方を目指すのです。そうでなければ、衰弱を懸念しての病院の使い方すら分からなくなってしまいます。また、インフォームド・コンセントを徹底するような社会運動へも繋ぐことができなくなります。

ここで取り上げた“医療拒否”に繋がるという現象を生む根本には、『夜の時代』の精神の癖である対立的な考え方の払拭に取り組まなかったことが原因の一つに挙げられます。勿論、御法難の原因もそこにあるのですが、「世界救世(メシヤ)教」を開教されたメシヤ様の御意図を理解できずに来た、と申しても良いと思います。

端的に申せば『世界救世(メシヤ)教 教義』で示された主神様への認識の希薄さに原因があります。そのため、『宗教と科学の一致』に対する概念の構築がなされなかった、ということです。メシヤ様は『文明の創造』中で人類への貢献ということで評価する御記述をされ、その上で『医学革命』を進められようとされているのです。ここのところを短絡的に解釈してしまうと、対立論を生んでしまいます。

また、善良なる信者さんに言わせると、「浄霊を社会に出してゆこうとすると、必ず壁になるのが医療問題である」という意見になってしまいます。ところが、これは普及するという組織論から来る考え方で、人を救うためにはどうすべきか、という“そもそも論”からゆくと矛盾を生んでしまうのです。その論理立てが、メシヤ様御昇天後なされてこなかった上に、一元化後組織論が優先されてしまったところに原因があります。

そこで考えなければならないことは、御教えを拝読し時流や社会情勢を分析すると問題点は容易に浮上しますが、それを批判するだけでは何も解決しないということです。あるいは改革に努めようとしても、組織のトップが気付き変容しなければ何も進捗しないのです。結局、その組織の中で批判を重ねたところで相手の土俵で声を荒げているに過ぎないことになります。

そのことに気付いて立ち上がられたのが、現在のメシヤ教各支部責任者をはじめとする方々です。本日は、この後の祝賀会でもお互いの情報交換を重ね、御神業推進の新たなスタートの機会にしていただければ幸いです。

メシヤ様が進められようとされた御神業を一層進める場となることを願い挨拶といたします。

(要旨・祝賀会で触れた内容も一部含まれています。なお、挨拶との関係で参考にしていただきたい御教えを浜松支部「メシヤ講座」で引用していますので、最後に掲載します。)


【御教え】
『御光話録』一九号(昭和二五年六月一三日)(略)三月三日

お伺い 人を尤(とが)めることと注意することとの相違(限界)はいかような心得をもって当たれば、御神意を汚さないでしょうか。

メシヤ様 これは限界もなにもありませんよ。人を尤(とが)めるってことはぜんぜんいけませんよ。それも警察官や裁判官ならいいですがね(笑声)。まず自分を尤(とが)めることですよ。どんなことでも人を尤(とが)めてはいけないんです。どんなことでもね。だから私は人を尤(とが)めませんよ。たとえその人が間違ってることをやっててもうっちゃらかしておくんです。勿論アッサリと教えることはありますよ。「そんなことをすると、こうこうこういう結果になる」って言ってやることはあります。けど、私の言ったことを用いるか否かはその人の自由であって、たとえ聞き入れなくたって、それ以上もうどうにもしかたがありませんよ。何某だってそうですよ、私は以前注意したことがあるんです。けど、あの人は私の言葉を守らなかったんですよ。やはり、その人が腹からそう思うんじゃなくちゃいけない。そうでなけりゃ駄目ですよ。よく言うんですが、石の落っこちるのを坂の途中で抑えるのは駄目なんです。下へ落っこちてから目が覚めて気がつく、それが本当なんです。

こう言うと、愛がないように聞こえるかもしれませんけどね、しかしこっちのほうが本当の愛なんですよ。日本では子供が転ぶと、親がすぐ走って行って起してやるけど、西洋では子供が自分で起き上がるように言うってことですが、この西洋のやり方のほうが愛が大きいんです。かわいがって親切にするってのは愛が小さいんです。だから、その人の将来を本当によくしてやるのが本当の愛なんですよ。例えば、金のない人に金をやったってそんなのは一時的で駄目なんです。自分で苦しんで、たとえ破産したっていいから、そうやったあげく自分で覚るのが一番いいんです。そしてそうするのが大乗なんですよ。

そこで、人を尤(とが)めるのは一番いけない。人間が人間を尤(とが)めるのは神様の地位を犯すことになるんです。人間なんてみんなポチポチなんだから(笑声)。人を尤(とが)めるなんて慢心ですよ。だから中には尤(とが)める人より尤(とが)められる人のほうが霊的に上位のことだってよくあるんですよ。(笑声)

お伺い なにか間違ったことをした人に「なぜそんなことをしたのか」と言うことは尤(とが)めることになりましょうか。

メシヤ様 「なぜしたか」って言うのは尤めるんじゃありませんね、聞くんだから。(笑声)

お伺い 「それは悪いことだからこうしなさい」と注意することはよろしいでしょうか。

メシヤ様 アッサリ話をして注意するんならいいですよ。それからね、「こうしてはいけない」つて言うのよりも、「こうしたほうがよい」とか「こうすべきと思う」って言ったほうがいいですよ。「相成らぬ」って言うのはよくないですね。そして尤(とが)めると人が怖がるようになるんです。怖がらしておいて人を屈服せしめる……なんてのは最も愚かなことなんですよ。

お伺い とかく他人に迷惑をかけ、なかなか言いつけを守らぬ人を、つい感情に走り「きゃつは馬鹿だ」とか「悪魔だ」とか言うことは人を裁くことになり罪を構成しましょうか。

メシヤ様 構成しますね(笑声)。こんなことを言うのは神の権限を冒すんですから。こんな場合、本当に馬鹿なのは御自分様なんですよ。つまり主観ですね。

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