メシヤ講座・特選集no.168(平成27年1月分)

<御教え>
『文明の創造』宗教篇
伊都能売神

(文創  昭和二十七年)

本文は『文明の創造』322ページに記載されています。(『文明の創造』購入方法は「出版案内」を参照ください。

また、研鑚資料『文明の創造(三)』では56ページです。)なお、『伊都能売神』は平成27年2月に拝読し学び合う御論文です。同1月に学び合った『仏教の起源』については、HPアップしている各支部の内容を併せて参照していただければ幸いです。


≪解説≫
『文明の創造』拝読によりメシヤ様の弟子が取り組むべき在り方が明確になる

メシヤ教代表 楳木和麿

一月度は教団内外共に深く考えさせられる事柄が続きました。

まず、『文明の創造』の拝読では『仏教の起源』の内容から大きく考えさせられるものがありました。今から約2700年前にインドで一大センセーションを捲き起した仏教の創唱に触れられ、その時代背景を詳説された部分がその一つでした。何故なら、私達に教えを垂れたメシヤ様が時代にどのような影響を与えたかを客観的に考える機会になったからです。

現代日本が遭遇している諸問題に対して道標(みちしるべ)を明示していただけるものとして、強く胸に迫って参りました。正に『地上天国建設の設計書』として拝読し、現代に当てはめて熟考せねばならない、と受け止めさせていただきました。その内容は、各支部一月度メシヤ講座でも触れましたが、その中から幾つかのことを取り上げて正確にお伝えしておかねばならないことがあります。

まず、三重支部がリンクを貼って紹介したブログ「日月地」の内容です。時代苦を救うためには周囲が何を考えているかを知っておかねばなりませんので、この引用文を吟味して客観視しておく必要があります。また、メシヤ様に帰一すべき教団が何故紛争を繰り返し、尚且つ御教え通り進まない状況を作り出し、結果的にメシヤ様の御光の恩恵に与(あずか)る人を増やせないでいる原因にまで考察を進めておかねばなりません。冒頭に再読を願います。


質疑応答7〜浄霊と医療

matsuki それが一つの側面であるとすると、別の側面もあるという事でしょうか。

楳木先生 そうです。その、もう一つの、全く違った側面を考えて行くと、もう随分前の事ですが、自民党の、党本部の役員と話し合う機会があった時に、開口一番言っていたのは、「岡田茂吉教祖のお蔭で国民健康保険が出来た」という事、この点を、非常に強調しているのです。それは、浄霊で病気が全部良くなってしまうと、医師会が困るという事がきっかけになって、国民健康保険が出来た、しかも、国民全員が入るという、世界に誇れる制度を作り上げました。これは、どのような境遇の方でも、生活に困窮する事無く、医療を受ける事が出来る制度が出来た、それが、岡田茂吉教祖のお蔭である事を強調していた事を、こういう話をする時に思い出すのです。

matsuki  浄霊で病気が治り過ぎた為に、皆が気軽に医療を受ける事が出来る様な制度が出来上がったという事は、ある意味、作用と反作用の関係でもありますね。

楳木先生 そういう、対立線上で捉えるだけでなく、大局的に見た歴史の中で、岡田茂吉教祖が果たした役割というものを考えて行くと、メシヤ様が御出現したお蔭で、国民健康保険制度が出来たと捉えている人々が非常に多いという事もあります。考え方においては、地上天国が出来る過程においてまずは必要な過程であると考える事が出来るのです。

matsuki  まずは、国民が、経済的負担が少ない状態で医療を受ける事が出来る時代を経る必要があるという事でしょうか。

楳木先生 メシヤ様の主たる願いは、「病・貧・争」を解決して行くという事、人間の不幸の最大の原因は病気であり、病気になると、働けなくなるだけでなく、医者にかかる為には莫大な出費が必要となり、生活が困窮して行き、不幸が増大して行く、それをなくす為に、まず一番の源は「人間の健康」を主眼に考えていた訳で、その精神から行くと、現在の国民健康保険制度は、病気になって不幸になって行くという要素の一部分は解決していると言えるでしょう。

matsuki  それは、病気になると高額な医療料金がかかるというそれまでの状態が改善されたという事で、金銭的な側面が大きいという事ですね。

楳木先生 そうです、金銭的な面という一部分は達成しています。しかし、それは、本来の健康ではありません。メシヤ様の精神を現代迄推し進めて行く上においては、病気になっても生活が困窮して不幸になる事が少なくなったという、大まかな体制が整っているので、今度は、我々は「真の健康」を得て行く時代に切り替わっているのだという事を考えて行くと、薬によって延命が出来た、あるいは手術によって延命が出来たという事は、過渡期としては貴重な事なのだという風に判断する事は出来ます。

matsuki  薬毒を説く事と、医学、医療を否定する事を混同しては物事の本質を見失ってしまうという事でもあるという事でしょうか。

楳木先生 これについても、先日、循環器系の外科医が、手術をして、血管の悪い部分を取り除いて、良い部分をつなぐ時に、全てを縫合するのではなく、数カ所しか縫合しないという話をしていました。そうすると、血管同士自らがくっついて行くという事で、その事によって、また、正常な生命活動を維持する事が出来る様になります。ですから、医者は患部を取り除くが血管の再生は自分の力で行っているのです。言わば、肉体は自らの能力で修復しているのです。そういう事がわかっている医者は、本当の医療とは何かという事に気持がシフトしているのです。そういう見地から見ていくと、浄霊の役割がより一層明確になって行くのではないかと思います。

matsuki  何事も広い見地から捉えないと偏ってしまいますね。浄霊の役割というものを、只、限られた、一部の人だけのものにしてしまう事は非常に勿体ないと思います。お話をお伺いしていて、自分も、絶えず意識していなければついつい陥りがちな傾向だと思いました。

楳木先生 私達が浄霊を手にしている以上、それだけ大きな視点で、長いスパンで考えて行かないと、本当に、浄霊を理解して、浄霊を布教して行くという事につながって行き辛いのではないかと、今の話から、そういう事が感じられるのです。

matsuki  それでは、メシヤ様の時代以上に医療が全国民に普及している現代では、浄霊を知る初期の段階では、例えば、医療を受けながら、同時に浄霊を受けるという場合も、当然あるという事ですね。

楳木先生  現代では、そういう事も、あっても仕方がないという事です。ある大学の研究者で、害にならない薬を日夜研究中である、と強調する人がいました。害にならなければ薬として機能するのか、という思いがありますが、ともかく“害にならない”という表現を用いること自体、薬害は認知されている時代を迎えているということです。

matsuki  浄霊を受けながら、医者にも通いつつ、少しずつ薬を減らして行くとか、浄霊で病気が治癒して行く状態を体感して行くとか、また、浄霊をしてから医者に行き、いつの間にか患部が治癒しているなど、医療と浄霊の両方が必要だという事でしょうか。

楳木先生 「必要だ」という言い方ではなく、「仕方がない」という事なのです。たとえば、歯の治療や命に関わる怪我の場合は仕方がない部分もあるのです。

matsuki  結局、決して、薬や医療によって助かったのではないという事を説明する迄は、多くの段階を経なければならない訳です。それでも、いろいろな奇蹟を見せられても、どうしても浄霊には抵抗があるという方が親戚等血縁者にいた場合、まあ、こういったケースは多いと思うのですが、こちらとしては、「これは、医療に頼らずとも浄霊で治るのに」と思っていても、そこは、本人の意志を尊重するしかない訳なのですけど、身近であるが故に何とかしなければと考えてしまう事が多々あるのですが。

楳木先生 メシヤ様のお立場というものは一貫していらっしゃって、真理を教えるけれども、選択は相手の自由であるという事です。私達の様に、メシヤ様に続いて御神業に取り組む者としては、やはり、その立場を貫いて行くしかありません。

matsuki  わかりました。いろいろな方々の立場を受け入れつつ、それでも、真実は一つなのだから、それを伝え続けて行くというスタンスで、今後も取り組ませて頂こうと考えています。

楳木先生  私達にとっては、「メシヤ様の御精神を現代に問う」という姿勢が一番大事なのです。現代に問いかけた時にどういう事が言えるかというと、メシヤ様が、現代史の中で果たした役割は何なのかという事を絶えず整理しておかないと、私達の信仰は偏った信仰になってしまうのではないかという事です。

matsuki 国民健康保険ですら、メシヤ様がいらっしゃったから出来た制度だという様に考えると、それを対極において、対立軸にする考え方が大変偏ったものであるという様に見えて来ます。

楳木先生 そうです。何事も、敵対する軸の中に置いてしまうと、薬を飲む人と浄霊を頂く人が別々になってしまう。私達は人類愛を持って生きているのですから、そうした排他的な立場をとるものではないのです。また、惻隠の情を持ち続けねば人として美しい人生を歩んでいるとは言えません。

matsuki  そこは、決して立て分けてはいけない部分ですね。それぞれの立場、スタンスを認めながら、それでも、浄霊の奇蹟、素晴らしさは伝え続けなければならない。

楳木先生 そして肝心要なものは、『薬が病気を作っている』という御教えです。この御教えを理解していただくために、私達が説明する場合、薬が細胞、遺伝子レベルでどのような影響を与えるのかを把握しておかねばなりません。少なくとも、メシヤ様御在世時代よりもそうした研究報告が数多くありますので、その研究成果をメシヤ様の御教えに照らして、『宗教と科学の一致』という観点から整理してゆかねばなりません。それが時代性というものです。

matsuki 整理して行く為には、ただひたすら御教えを読むという行為だけでなく、時代性の中で、幅広く学習し続ける事が必要だという事でしょうか。研究報告が数多くあるのに、それを知らないと、解釈そのものが時代遅れになってしまう。

楳木先生 時代の背景には何があるのかと言うと、主神様の御経綸というものがあります。主神様は、『この地上に天国を樹立すべく、太初より経綸を行わせ給いつつある事』を私達は信じているのですから、その御経綸を信ずる上において、解釈をもっていかないといけないのです。

matsuki そうなってくると、まずは、健康保険制度が出来た為に、病気になって不幸になる人が激減したという事、これは、地上天国を樹立して行く上においての、一つの過程であるという解釈ですね。

楳木先生 そして、もう一つ、教義の中に、『神はその時代々々に必要なる人間と、必要なる宗教を顕わし給い、それぞれの使命を遂行させ給うのである』とある通り、その時代時代の人の叡智によって、地上天国への制度を着々と作っている訳だから、国民健康保険というものも、その制度の中の一過程として存在しています。こういった事を積み重ねていくうちに、本当の地上天国につながって行くのです。

matsuki  そういった広い視点で物事を捉えて行かないと、浄霊というものを持っているが故に、一旦対立軸にはまってしまうと、一般社会から狂信的なイメージを抱かれる恐れもあるという事がわかりました。

楳木先生 何事も主神様の御経綸という立場で物事を見て行かないと、そういう広い見方が出来ないので、尚更「主之大御神守り給へ幸倍給へ」と唱える事が大事であるし、唱えた人間は、それだけの大きい物事の捉え方、考え方を持たないといけないという風に解釈して頂けると、信仰を求める上において、非常に有意義なのではないかと思います。
(2009年8月9日メシヤ教浜松支部にて)


国家財政立て直しにまで貢献する御神業

教団紛争が起きてより改めて教団外の識者と膝を突き合わせての話し合いを重ね、その中には自民党本部の事務局責任者もいました。その内容を「日月地」でお話ししたのでした。

現在の日本の財政を立て直すためには医療費の問題があり、薬の出し過ぎのために日本の財政も日本人の健康も悪影響を受けているのです。出張中にとある喫茶店でジェネリック医薬品について話し合っている初老の紳士三人がいました。耳を傾けると、ちょうど週刊現代にその危険性が掲載されたことに対する論議でした。そして、最後には「だいたい医者が薬を出し過ぎなんだ」「ちょっと何か言うと薬が増える」という話になっていました。

ですから、教団外の識者が「岡田茂吉教祖のお蔭で国民健康保険制度ができた」と言うのであれば、制度に流れる精神を注視して、謳い文句で終わっていないかを問い続けねばならないところです。ましてや、生活保護制度の根底には病気で働けない人を働けない期間救済するという措置であるにもかかわらず、異物混入して逃亡を図るその資金に利用するなどということが起きているのです。そこには制度の精神は存在していません。

本来、病気のために働くことが出来なくなり、そのために困窮することを防ぐために設けられた制度です。

私は、以前にもお話ししていますが、青年布教師時代から信者の中で生活保護を受けている人で健康を取り戻した人には受給を取り止めるようにお世話して参りました。それが人間本来の生活を営む道の一つでもあるからです。

ですから、薬禍薬害を宣べ伝えることと併せて人間本来の生活を営む道へとお導きすることは、国家財政立て直しにまで貢献することになるのです。

そうした意味からも、2月にはホームページのリニューアルに取り組もうと考えていますが、それには『教団改革の精神』というページも設けたいと考えています。

メシヤ講座で取り次いだ『道法禮節』の原本

一方、日本人がそうしたことを実行し続けるために参考にしていただきたい内容が、日本の神様がお釈迦様に伝えた内容の一つとして引用しているものです。それは現代においても不可欠な内容でもあります。メシヤ講座で取り上げた『道法禮節』は現代においても最重要課題です。2月度拝読の『伊都能売神』の内容を深く知るためにも確認しておいていただきたく思います。

そこで、ここでも三重支部が引用した御教え『観音講座』を掲載します。


【御教え『観音講座 第二講座』内『道法禮節』
(昭和十年七月二十五日より)】

道」 ミ-体-身
チ-霊-血  伊都能売 又は観音である。

道はあらゆるものゝ通るべき筋。日月が東より西へ行くにも軌道がある。一切は道により成り立ち進んで行く観音行である。道とは首に(しんにゅう)、首は元首、人民の頭、首斯の如くに之をかけたのだ。非常に意味がある。

「法」

観音会は之を全世界に判らせる御用なのである。天地の法に外れねば総て旨く行くのである。天地の法律の事(造物主が造った法律)道法(観音の法律)完全無欠の法の事である。

法「水を去る」と言う字。火なり(ホホ)水臭い水気があるとて水は正しくないのである。ヒはホにして炎、ホのホとなる。手も触れられざる厳として犯すべからざるもの(水は融通がきく)。

「禮」

神は順序なり、共産主義は之を打破らうとしている。軍隊も禮儀のある為に強いのである。禮儀は順序から出たもの禮儀なくば順序たたず。

禮は豊を示すと書く。余裕ある事、上流の金持が(富者)禮儀正しく貧者は正しからず、自ら階級あるのが本当である。禮儀あれば貧乏無くなるのである。親鸞には弟子一人もなく皆御同行なりと言うたが、日本共産主義の一番初めの人なり。其のくせ弟子に○○等と言うのがあったのである。

「節」

節なくば総て物は進行せず、春、夏、秋、冬も節なり。観音運動にも節がある。節を越えると進行する。一時的に止るのは節ですから止っても心配は不要である。音楽でも節がある為非常によく聞えるのである。国家の戦争も節です。日本の日清、日露、欧洲大戦、満洲事変等が節で、この節の為日本はよくなった。節は勢を止める為一層強くなる。伸び放題にするのは悪い。止めると勢が強くなる。節を知らぬ者は途中でくたびれる。節なければノッペラボーで弱いし折れる。

以上の如く、これから道法禮節を開示するのである。なんでも道あり法則あるならば法の通りに座し法の通りに歩き行い寝るにも法あり。それによって順序立ち行く。 又何んでも節に合せて行えば旨くいく。これを立派に行えば観音行の出来た立派な人となるのである。是を二千六百年前に釈迦が説かれたのである。

【御教え『苦集滅道  道法礼節』(栄光百二号  昭和二十六年五月二日)】

右の題目は、勿論仏語であるが、此意味は現在に於てもよく当嵌まるから、それを解説してみよう、苦集滅道とは読んで字の如く、苦が集まる、即ち苦しみが多いと道が失われるという、人間誰しも苦しみが余り多いと自暴自棄になるばかりか背に腹は変えられない式で、道に外れる事をするようになるものである、よく曰われる事だが、泥棒にも二種類あって、本当にズルイ奴と、貧に迫って悪いと知りつつも、苦し紛れにやる者とがある、又闇の女でもそんな事をせずともよいのに、好んでする者と、切羽詰って嫌々やるものとの二種があるのも同じである。

此弱点を利用して宣伝するのが、彼の共産主義である、従って政治の理想としては、困る者、苦しむ者を作らないようにする、それが犯罪を減らし、社会の秩序を保つ上に、最も根本方策である、恒産あれば恒心ありという言葉も、よくそれを表わしている、本教の理想である病貧争を無くすという事も、それ以外の何物でもない、としたら何よりも先ず健康が原であるから、健康人を増やす事こそ問題解決の鍵である。

次の道法礼節であるが此事も現代によく当嵌っている、道法とはいう迄もなく道であり法であって、道とは道理に叶う事で、道理に外れる為に人間同志の悶着や、家庭の不和、社会秩序の紊乱となるのである、法とは人間が作った法律のみではなく、神の律法もあって之は目には見えないが、絶対犯す事が出来ない、人間諸々の災は、悉く神の律法を犯す為の刑罰である事を知らねばならない、実は此刑罰こそ人間の法律よりも恐ろしいと共に、絶対免れる事は出来ないのである、勿論、死刑もあるのであって、それが災害による死、病死等凡て神律を犯した為の刑罰死である、そうして凡ゆる物にも法がある、即ち法とは一切の規準であり、秩序である、判り易く言えば、人間の為すべき事、考うべき事はチャンと決っておって、例えば政治家は政治家、教育家は教育家、宗教家は宗教家、芸術家は芸術家、官吏でも、商人でも、医者でも、男でも、女でも、如何なる人間でも、為すべき事、為すべからざる事は、一定の法則があり、それを守る事によって順調にゆき、栄えるのである。昔から法を越えるなというのもその意味である。

次の礼節であるが、之こそ現代人には最も適切な言葉である、特に此点昔の人よりも大いに低下している、私は日々多くの人に会うが、真に礼節を弁えているものは十人に一人もないといってよかろう、然し何と言っても信者諸君は一般人とは区別がつく程よいには良いが、只信者同志接触の場合、まだ物足りない点が見えるので、今一層向上して貰いたいのである。

然し現在のような煩雑な社会生活では、思う通りの礼儀は行われないから、或程度は致し方がないとしても、注意すべきは民主主義の履き違いから、若い人達には、上、中、下、無差別式の考え方の者がよくあるが、之は困ったものである、成程昔のような士農工商的の差別主義も間違っているが、今のような悪平等的行過ぎも間違っている、特に遺憾でならないのは学校教育の行り方である、余りに自由主義の為、放縦に流れ、師弟の差別さへないのをよく見受けるが、此点教師たる人も大いに考慮の余地があろう、勿論昔の軍隊式も困るが今のズンダラでも困るのである、要は偏らないでよく程を守り、中性が肝腎で、教育の方針も茲にもってゆかなければならない事は言う迄もない、礼節という意味はそれであって、既に古人が喝破しているのであるから、現代人としてもそれに愧じないようにすべきである。

【御教え『道理に従う』『世界救世(メシヤ)教早わかり』(昭和二十五年十一月二十日)より】

法の字も解釈してみよう。法の言霊は、ホは火であり、オは水であるが、言霊学上オはホに含まれて了う。之はオの水によって火が燃え続ける意味である。又、文字は水を去るとかくが、之は水は緯へ流れるから乱れる憂いがある。従而、水の働きを去れば経となり、厳然たる不動の意味となる。法は犯すべからずと言う訳である。


『宗教改革』の根幹部分の学びが来月も続く

さて、話は戻りますが、仏教創唱による衆生済度は日本の神様によるものでありました。その神様のことは二月度の学びでその主が明らかにされます。『宗教改革』の根幹的部分が次々と御記述されておりますので、非常に興味深いところです。

仏「シャルリエプト」紙襲撃事件は9.11を想起させ、邦人の人質略取事件は日本列島を震撼させましたが、宗教の立場から考えておかなければならないことが現在学びを重ねている御教えです。

日本は伊都能売神皇様が絶対平和主義を貫かれたその精神が古神道の精神であり、本来それを受け継ぐべきであるに拘わらず為政者が神道を利用してしまったところに、先の大戦の悲劇が生まれました。神風特攻隊と称して自爆させたことなどは正に神の名の下に行わせているジハードと共通しています。

この点、中国や韓国が突きつけている歴史認識とは別に、明確に第二次世界大戦を振り返って整理しておくことが肝要です。また、宗教の下に行うテロについては、日本が悪しき道を辿ったことへの反省に基づいた意見を述べることが不可欠です。昭和天皇の御心と軍部の方針は食い違っていたことは公開された資料で一目瞭然ですし、神の御名を唱えても、その神の御意志と異なることを実際は進めたものであり、これは、送られてきたメールと照らし合わせれば理解できるものです。

一部を引用すると送信者の意図と異なる指摘を受けてしまう恐れがありますので、そのままを掲載して判断材料にしておく必要があるかと思います。


2015.1.8

テロの良く知られた定義の一つが、「政治的な目的を達成するために、政府や市民、あるいは個人に対して組織的な暴力行為を行うこと」です。

イスラームの観点から、テロはどのようなものであれ認められるものではありません。なぜならイスラームでは人の生命、尊厳、信仰、財産は不可侵のものであると教えているからです。テロはその中でも最も価値ある人の命を標的としています。クルアーンでは、「人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである」(食卓章第 32 節)と述べられています。

人類への慈悲として下され、その本質に創造主を知り愛することが含まれている最後に啓示された宗教であるイスラームの教えは、テロや不正に血を流すことなど、社会の安定や信頼を揺るがすなどのような行為も認めていません。ただしユダヤ教やキリスト教、あるいはイスラームの歴史において、宗教がテロや暴力行為を正当化するために利用されてきたことは、しばしば見受けられることです。特に20 世紀の最後の4 半世紀では、世界中で宗教的な熱狂が高まる風潮が見られ、宗教的行為が社会状況に直面する中で、宗教的な意味づけを持ったテロや暴力が急増していることがわかります。

アッラーは全ての人に自由な意志を与えられました。その意志によって行ったことに対して人は審判を受けるのです。そして人は何らかの過失を犯すものです。イスラーム教徒であってもまったく罪を犯していない人はいません。例えば他の教えを信じている人々の中にもそういう人がいるのと同様に、イスラーム教徒の中にもアルコール飲料を飲み、盗みを働き、利子を受け取り、うそをつき、詐欺を働く人々がいます。しかしその罪はイスラームに帰せられるものではありません。その責任はあくまでその人に帰せられるものなのです。他の教えを信じる人々の中にもテロ活動を行う人がいるように、イスラーム教徒の中にもテロ活動を行う人々がいるかもしれません。しかし真のイスラーム教徒は、そうした人たちの行為を認めることは絶対にありません。イスラームの教えに誠実なイスラーム教徒はイスラームのイメージを損なった彼らに対し、はっきりと対立した姿勢を取るものです。

また何がテロなのか、明確にしなければなりません。テロという言葉は強い者によって意図的に使われることがあります。祖国が支配、占領され、生命や財産、尊厳が失われた人々の、その生命や尊厳を守るための努力や闘いをテロと見なすことは正しくありません。今、世界で起きていることやその背景を正しく判断することが必要なのです。

東京ジャーミー&トルコ文化センター (C) All Rights Reserved.よりのメール


こうしたことを踏まえて『宗教改革』の在り方について更に考察を重ねねばなりませんが、その内容については「立春祭」でお話ししようと考えています。

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