メシヤ講座no.203(平成30年2月)の資料

平成30年2月13日
メシヤ教執行部

1 はじめに

今月のテーマは善言讃詞です。皆さん日々奏上していますので、ついつい内容を深く意識せず、奏上しがちですが、詠み込まれている内容は、たいへん深いものがあります。一言で表すなら、「夜昼転換とともに御出生なさる神々と地上天国実現の様子が詠み込まれた、霊界を浄める働きをする言霊集」と言えるものです。

3000年に及ぶ夜の時代が終わり、昼へと切り替わって行く節目の、この平成30年ですが、昨年6月15日の地上天国祭において、「天照皇大御神」様をお迎えし、太陽神の光によって、次々と神様の御戻り、御出ましを目のあたりにしてきた我々が、善言讃詞の内容に深く思いを致す時、そこにはかつて起こったこと、これから起こること、つまり、御神業のすべてが、端的に分かり易く詠み込まれていることに気付くでしょう。

本講座では、まず善言讃詞とはそもそも何ぞやということで、「善言讃詞とは」と題し、その背景御目的内容奏上に際しての着意を、今一度確認し、「善言讃詞を学ぶ意義」として、今我々が携わっている御神業との深い関連を、述べさせていただき、最後に「まとめ」として今後の進展を踏まえ、総括し、3月3日「本祝典」に向けての学びといたしたいと思います。

 

2.善言讃詞とは

(1)善言讃詞作成の背景

善言讃詞は、全文の読経に30分はかかる観音経を、現代社会のスピードに併せて、5分程度で奏上できるように、神道の祝詞風に縮めたもので、メシヤ様の御手に成る唯一の祝詞です。

メシヤ様は、昭和10年、本教の前身である「大日本観音会」発足の時点で、ほぼこの善言讃詞を作り終えられたようですが、「メシヤとならせ」が入っておらず(後にメシヤ降誕に併せて、この句が挿入される。)、「仁愛の御手に帰一され」を「みろくのみてにきいつされ」と読ませていたこと(後に本教代表楳木師により、御神業の進展に合わせ、「仁愛」を「めしや」と読ませる。)、また、願文部分に御神名が入らず、「念被観音力、念被観音行、念被観音心」と、仏教の願文が残っていること等、現行との相違点がいくつかありますが、ほぼこの時点で完成形となっております。

昭和元年時点で、50万年前から10万年後に至るまで、現界のみならず、神幽現の三界を、神示により、すべて見通しておられたメシヤ様ですから、この善言讃詞の作成にも重大な背景があります。

「文明の創造」「宗教篇」の各御論文に詳述されている通り、もともと観音様は、伊都能売神皇様という、日本の天皇様であり、2600年前に、素戔嗚尊様が統治権を奪おうとした企みにより、その引渡しを迫られ、更に生命にまで危険が及んだため、御位を退いてインドに降られ、当時善財童子であったお釈迦様に仏法を教え、これを元に、お釈迦様は仏教を御創りになりました。

その後、数々の教えを説かれたことは、現存する膨大な経典を見れば明らかですが、いずれ、夜の時代が終わり、最後の世に現れて、光明世界を御建てになるのは観音様だ、ということを覚られ、それまで説いた教えは真のものではなく、これから説く教えが真理であるとして、二十八品を数える法華経を説かれましたが、当時はあまりにも遠い未来であることと、夜の時代に適合した救いとして、まず慈悲と諦観を説かざるを得なかったことから、真理は伏せられて、二十五番目の観音普門品では、観音様を礼讃するに止められ、五十六億七千万年後に彌勒の世が来る、すなわち五六七のミロクの出現を、数字にだけ込めるにとどめたわけです。

一方、本教の御神業上の観点、特に本教が現在用いている祝詞類を見て行くと、我々が用いているものは、「天津祝詞」「神言」「善言讃詞」のほぼ三種類(「天の数唄」も祝詞に加えると四種類)に限られています。

その内容を子細に検討し、言霊学上の解説を踏まえ、読み解いていくと、「天津祝詞」「神言」が浄めの祝詞、「善言讃詞」が浄めた後に良い世界ができる様子を説いた祝詞になっています。

もともと「神言」は、大浄化大破壊により、人類社会が生み出した罪穢れを浄める様子を述べ、その中段にある文言「天津祝詞の太祝詞言(ふとのりとこと)を宣(の)れ」の後に、浄めの言葉の「天津祝詞」を奏上し、「此(か)く宣(の)らば(このように奏上したならばの意)」と、続けるのが正式の奏上法ですから、どちらも長短はあれど、同じ浄めの祝詞で、端的には最後の審判を詠っているものです。

では審判の後はどうなるのか、本教はそもそも、人類の救済と地上天国の建設が大目的でありますから、その様を説いた祝詞が、当然必要になってくるわけで、仏滅に応じ、仏界から神々が御戻りになり、あるいは御出ましになる様、その救いの御業、天国の建設の様を、元の観音経に加える形で、善言讃詞が作られているわけです。

我々が祭典や祈願の際に、天津祝詞と善言讃詞をワンセットにして奏上する理由がここにあるのであり、天地の創成と人類社会の進展、罪穢れの発生とその浄化、審判、地上天国の実現と神意の具現、と“通し”で奏上することにより、我々は様々な個人的祈願やお詫びをするようでいて、主神様の御経綸を讃え、地上天国建設と主神様の最終御目的の実現を祈願している形となっているわけです。

(2)善言讃詞作成の御目的

 祭典や日常の参拝に用いる祝詞類を完備するといったことは、宗教団体の形をとっている以上、どの宗教でもやっている当たり前の事なのですが、本教の場合、もう一つの重大な目的があります。それは、これらの祝詞を駆使して、言霊により、直接周囲の霊界を浄め、霊を救うことであり、またそれが可能な言霊となっている祝詞を、時所位に応じて実際に駆使し、その力を発揮することで、御神業を進めさせていただくということです。

御講話や御神書の中に、善言讃詞の奏上によって、様々な奇蹟が起こった実例は、多々記述されており、皆様も目にしたことがあろうかと思います。「神言」が霊的浄化力が最も強く、我々も節分祭以外にはお挙げしません。「天津祝詞」も浄化力が強いため、御神前での奏上は別として、仏壇の祖霊様などに挙げるにはきつすぎ、「善言讃詞」がやや柔らかな浄化力なので、多用されているのは、御承知のとおりです。

(3)善言讃詞の内容

ア ベースとなった観音経

法華経第25品「観音普門品」、通称「観音経」は、観音様を礼讃したお経で『観音様の御名を奉唱すれば救われる』ということが書かれ、唱えると『大宇宙をも動かす』と言われているものです。背景の項で述べた通り、観音様が、最終的にはミロク神となって、この世を救済するわけですが、それをお釈迦様が覚られたものの、時期尚早であることから、詳細には説けず、見真実となられて後に説いた真実の教えである「法華経二十八品」の二十五番目に、その真髄を秘する形で、「観音普門品」とし、観音様の功徳を礼賛することに代えられたわけです。

このことを、最初に発見したのは、かの日蓮上人で、法華経を唯一の正しい経典とし、他の仏教各派は、正しい経典以前の教えであるとして、他宗を排撃したのは、このことに起因します。ある意味、我々の御神業の先鞭をつけられたのは、日蓮上人であると言えます。

本教が、「大日本観音会」から始まったのも、メシヤ様が当初「自観」と名乗られたのも、すべてこれに由来します。この辺の事情は、「文明の創造」「宗教篇」の関連御論文と、庭山教学顧問の骨子に精しいので、併せてご拝読をお願いします。

イ 観音経との違い

しかし、観音経には、善言讃詞にある風景や御神名の進展は詠みこまれておらず、法華経を見出し、七堂伽藍を具え、仏教の聖地を建設された、聖徳太子の御事績の方が、善言讃詞の内容に合致しています。

これは、メシヤ様の前世が聖徳太子であったこともありますが、当時は夜の世界であったため、観音様の御神格を、時が来るまで隠す必要があったからで、本来観音経に盛り込まれていないといけない内容、本来お釈迦様も述べたかった内容が、隠されていたと見る方が良いようです。

メシヤ様の時代になって、お釈迦様の説かれた仏滅の時期となり、隠されていた御神名の変化に伴う、御経綸の進展状況が明かされます。それは、仏滅という夜の世界から昼の世界への転換において、太陽神の光により、仏に化身されていた神々が、元の神様にお戻りになられるということですが、このときにあたり、メシヤ様は、本来のあるべき観音経の姿を、時代に合わせ、「善言讃詞」として、完全な形に復刻なされたと云えようかと思います。

(4)奏上に際しての着意

奏上に際しては、厳粛に心を正し、正確に発音して言霊を響かせるのはもちろんですが、本来、これら祝詞は、奏上に際して、その奏上者のお資格が要求されます。全員で奏上するのではなく、先達の奏上のみで、最後の御神名奉誦時のみ全員で、という御在世中の形式が、本教において守られているのは、この所以です。軽々に唱えていいものではありませんし、かと言って必要な時は必ず奏上させて頂かねばなりません。当然,意味も理解していないといけません。言霊もある程度は理解しておく必要があります。

なぜかというと、奏上時の奏上者の想念がたいへん影響するからです。奏上しているときに、奏上者の頭の中に広がるイメージこそが想念であるからで、善言讃詞の場合、例えば「黄金の甍燦燦と」と唱えたなら、同時に、頭の中に、「立派な建物の、黄金でできた屋根瓦が、太陽光に反射して、キラキラと輝いている風景」が、映像として頭の中に浮かび上がっていないといけません。

奏上者の霊格が影響するということは、「霊格が高い人」=「意味も言霊も分かっていて、頭に作り出すイメージが、ほとんど神界の有様に一致していて違いがなく、正しい言霊を発せられる人」ということだからです。

奏上した後の効果に差が出てくるのは、だいたいこの三つ、言霊の響き具合、奏上時の想念、奏上者の霊格によります。

奏上の環境にも配慮する必要があります。よく奥津城参拝時、各教団の方がそれぞれ、バラバラに参拝されて、バラバラに善言讃詞を奏上しているのを、お見かけします。中には、周りの奏上者の声をかき消すように、大声をかぶせて奏上する方さえいます。熱心に奏上する気持ちは分かるのですが、自分だけで周囲に対する配慮が、まったくありません。「このような環境の時は、むしろ奏上しない方が良い」と、楳木師に教えられたことがあります。先の奏上時の三つの要件がまったく揃っていないし、第一お挙げする相手である神様に対して、何より無礼であるからでしょう。

また、霊界を浄めるとの観点から、信者さん以外の家庭の御仏前など、一般の方々がおられる場所で、奏上する機会があろうかと思います。一般に馴染みの薄いものですので、観音経が元になっている、しかし、祝詞風になっている、といった説明では、混乱を起こす向きがあるかもしれません。

そのような場合、例えば「この善言讃詞は観音経ですか.」と問われ、相手がまだ分かっていない人だなと思えば、「ええそうですよ。」と答えればよいし、「これは観音経ではないですね。」と言われ、これは少しわかる人だなと思えば、「ええ観音経ではありません。そもそもこれは..。」と説けばよいし、どちらかに決めつけない事です。臨機応変ということなのですが、サッパリ信念がないように見えますが、実はこれが「いづのめ」ですので、奏上するときもそのように臨機応変にやっていただきたいと思います。

 

3 善言讃詞を学ぶことの意義

(1)数霊学と主神様の御経綸

言霊学とともに数霊学がわかると、世界のすべてが分かってしまうため、メシヤ様は限られた人、限られた範囲でしか、これを御教えになりませんでした。善言讃詞にもこれがあります。

『五十六億七千万年後に彌勒の世が来る』というのは、五六七の数字を隠していたのですが、五六七→日月地→三六九となり、これで十となり完成であるということを意味しています。全ての根源である、御体のない御存在の主神様の意思や概念、動きを人間に分かるように表現したのが数字で、一二三四五六七八九十という順序そのものが、主神様の御経綸であり、大宇宙の創成であり、宇宙が主神様の御体そのものであるということを意味しています。

即ち、「一」の宇宙の初めから、「二」つに分かれて陰陽ができ、両者に子が生まれるように「三」となり、それが「四」方へ広がり、日である「五」が高く上り、月を表す「六」が出て、土を表す「七」が出来て日月地が完成し、それが「八」の末広がりに広がり発展し、「九」で尽くされ極点に達し、「十」でタテヨコが結ぶ。「十一」で結んで統一されたものが新たに始まり、というようにです。ちなみに、この順で行くと、今我々は、「八」から「九」への過渡期にいることになります。

さて、ここからは御垂示の解説を抜粋しますが、

 

【主神様の御意思を表現する媒体である霊的太陽の光(五)が、三千年前の国常立尊様の時代から少しずつ暗くなっていき、伊都能売大神様→観音様の時には更に暗くなり(五→六)、日蓮上人の時に新たに光が少しだけ射し始め、昭和にてメシヤ様の腹中に光の玉が宿った時から、(五→六→七)に向けて動き出したという事で、太陽自体が一から十の御経綸で進んでおり、それを地球が受けて、人間を通して地上で展開されているのが今までの歴史で、体的なものを作り上げるにはそれなりの時間が必要だった為に、長い時間が費やされただけなので、それが出来たらすぐ昼の世に急展開するという感じになるので、新たな世界を作り上げるには長い夜の時代と同じ長さの時間は要しないそうです。

遥か昔の御経綸の中に国常立尊様の後に、伊都能売大神様が御生まれになっておりますので、その時点で日本は裁き(縦)と慈悲(横)の二つを結ぶ御働きが今度は先に発動される様に設定されて、ますます昼の明るさが増した時、国常立尊様が結びの御働きも取得した状態で全世界の縦の役割をし、縦が長くなる程に、慈悲である範囲も広がり、夜の御経綸で拡げた仏教やキリスト教が横の役割となるとの事で、縦と結ばれて仏教やキリスト教も本当の意味で救われるという事になっている様で、救世主となるのだそうです。

「天照皇大御神」様は、霊的太陽がすっかり「五」の状態にならないと存在しないので、地球上で今まで地上に降りられた事がなく、宇宙全体を照らす霊的太陽「五」が本当に全開となった状態の「五六七」は昭和が始めてなので、それが「日月地」になって現界にお出ましになったのが昭和29年6月15日(現界の霊)で、それが影響して現界は色々浄化をし、「日月地」の「地」が完璧に整い人間側がお迎えしたのが平成29年6月15日(現界の体)という事で、「天照皇大御神」様がお出ましになって太陽と地球が一つの線で繋がり結ばれた結果(七)が平成30年3月3日なのだという事です。】

 

(2)善言讃詞の構成と要点

  ア 善言讃詞の構成

善言讃詞は前段、中段、後段の大きく三つに分かれています。前段は、『敬しく惟るに~』から『~五六七の御代を生み賜う給ふ』までで、夜昼の転換に伴う。観音様から神様への御戻りと、救世主(メシヤ)までに御出生される様子が書かれ、中段は、裁かれた者達が、『無量無辺の大慈悲に~』より救われ、世のすべてが次々と変わり、『~實にも天國浄土なり』に至る、メシヤの大神力による救いの様子が書かれ、後段では、成就した地上天国の様子が、『五穀稔りて~』から『善徳行を重ねさせ』までに描かれ、末尾にこれらすべてを平身低頭して願い奉る文言で終わっています。

以下、各段ごとに要点を見て行きます。

イ 夜昼転換と御出生の様子(前段部分)

前段冒頭は『敬しく惟るに 世尊観世音菩薩此土に天降らせ給ひ』で始まります。『敬しく』というのは、「つつしみつかえる。神につかえるときの心意」です。また、観音様の異名の施無畏菩薩とは、『言霊の霊返しで、セムはスとなる。畏はイで、イとは位であって、主の位です。それを隠してあったので、「施無畏菩薩」は、主の位を持った菩薩ということ』と御教えにありますので、観音様は主神様が地上に御遣わし下さった、主神様の御経綸を地上で顕現される最高神であることがわかります。

そのような尊い神様が、夜の時代には、菩薩にまで身を落とされて、私達人類を救うために御働き下さいました。そして、夜昼転換に伴い、太陽神の光を受けて、『光明如来と現じ 応身弥勒と化し 救世主(メシヤ)とならせ』と、最後はメシヤ様という位にまで上がって行かれる順序が、詠みこまれております。

まさに今我々が直面し、携わってきた、神様をお出しする御神業そのものが描かれています。そして『五風十雨の不順序(くるい)無く』と、五日ごとに風が吹き、十日ごとに雨が降る、世の中が、天候でさえもが秩序正しく、平穏無事である五六七の世の実現の様子が詠みこまれております。

ウ 五六七の世の建設(中段部分)

中段部分においては、救世主(メシヤ)の『無量無邊の大慈悲』によって、地獄に落ちるべき悪鬼悪神も改心して救われ、執着の権化であった夜叉龍神も、執着から解き放たれ、動物や虫に至るまでも、畜生道から解放されて、それぞれの相応しい場所を頂くという、審判により裁かれた者達までもが、メシヤの大神力である偉大な救済力により救われ、地上天国が実現する様子が活写されています。

エ 地上天国の実現とその様相(後段部分)

後段部分は、地上天国が実現し、そこに暮らす者達の理想的な営みが、『五穀稔りて~』から描かれます。最重要点は、『仁愛の御手に帰一され 仁慈の御胸に抱かれん』との個所で、ミロクの世になっていくことが詠まれていますが、我々は、『一天四海観音の仁愛の御手に帰一され』と唱えた後、一呼吸置いて、心中で『世尊観世音菩薩此土に天降らせ給ひ 光明如来と現じ 応身弥勒と化しメシヤとならせ』という、メシヤ様の御神格の御出世を念じ、ややあって『仁愛の御手に帰一され』と続けますが、実はこの一句の取り扱い如何が、言霊上大変重要な意味を有しております。

このことの意義について平成28年7月に代表が次のように説明されております。

 

【昭和25年6月15日メシヤ様の腹中の光の玉に「ミクラタナの神様」が宿られて、その御宿りになった瞬間に『メシヤ様』になられたのだ、という事です。この概念が明確に判っておかないといけない。光の玉は観音教団の時からメシヤ様の腹中にありましたので、だから、観音様として奇蹟を御出しになっておりました。應身彌勒まで来られまして、それまでは光の玉の中には何も入ってなかったのですけれども、昭和25年6月15日に「ミクラタナの神様」が光の玉に御宿りになった瞬間から『メシヤ様』という御神格に御出世遊ばされたのです。観音様から彌勒様に御出世されて、そして、「ミクラタナの神様」が御宿りになって『メシヤ様』に御出世遊ばされた、その『仁愛(メシヤ)の御手に帰一され』という想念を確立する為に、一呼吸置いているのです。】

 

なぜ、これまでにこの一句を重要視するかというと、この部分の奏上の仕方如何が、萬教帰一の成否を左右してしまうからです。誰の手に帰一するかも曖昧で、甚だしくはこの一句を削除しているような向きもある体たらくでは、萬教帰一などできようはずもありません。

先に、「人間が主神様の御意図を展開していく」ということが出てきましたが、我々は昨年12月23日に「日月地大御神」様を御迎えし、本年2月3日には「国常立尊」様へのお詫びを申し上げ、御出ましと正しい御裁きを願い、2月4日の立春を期して、神様の御働きが変わったことにより、「国常立尊」様の御働きを持たれたメシヤ様を、既にお迎えしております。

今後本祝典において、その御出ましを祝福申し上げ、メシヤの大神力による絶対的救済力の発揮をお願いするのですが、御神名は「大弥勒大御神」様とお唱え申し上げることを、既に神界から御垂示いただいております。

まさしく「ミロク」の御経綸が、これからなされていきます。「仁愛」を「メシヤ」と読むか、「ミロク」と読むか、はたまた全く異なる読み方をするか、神界からの宿題がありますが、どう答えるのが至当か、善言讃詞の一連の流れを元に、皆様も考えて頂きたいと思います。

また、この宿題は、単に「仁愛」を何と読むのかということが問われているのではなく、どの時点の何と仰る神様に帰一するのかが、問われています。

「最後は慈悲と愛なのだ。」との旨、教祖祭後の先生の御垂示がありました。「慈悲と愛」要するにこの「仁愛」の事です。

 

4.まとめ

善言讃詞は、観音様が時期に応じた御働きをなされながら、御出世し、神格を取り戻されていく、そしてその御働きによって、世が天国になっていく様子が詠みこまれています。

私達は、善言讃詞を奏上させて頂くことで、その御言葉どおりの御力を神様から頂いているということを認識し、毎日礼拝奏上して最高神との霊線を太くし、私達の元々ある神性を取り戻していく取り組みを続けていかなければなりません。

外から与えられたものではなく、外に求めるのでもなく、つまり借り物ではなく、自らの内から湧き上がる思い、それが審判と大浄化に際し、滅びんとしている人類を、一人でも多く救いたいという思い、「慈悲と愛」「仁愛」として湧き上がってこそ、神性を取り戻した、昼の時代にふさわしい人間であると言えましょう。

 

[研鑽資料no.21 メシヤ講座no.203の資料2018(平成30)年2月13日]

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