メシヤ講座no.198岡山(平成29年9月)

<今月の学び>

『真の大乗宗教』と、『信仰の合理性と再浄化』他

 

【メシヤ講座 岡山支部】

 

支部長

おはようございます。早いものでもう9月になりましたけれども、この一日祭の時にも少し触れましたけれども、お盆が済んで一区切りついている頃ではありますけれども、そのお盆の最中にですね、代表が皆様の家庭をですね、一軒一軒見て回られて仏壇を様子を見られたようです。

お盆の三日間、どのように祖霊に対して懇ろに慰霊をされているかということをね、どうも見られたようです。そういう風な中で一言ですね、

 

・自分達の先祖の霊に対して気持ちをしっかり向けられない(敬意がない)人間に他人を救えるか?

 

・お盆にこそ、こういう霊界の霊達に対する気持ち、どういう思いでいるか、認識でいるかが如実に現れる。

というふうにお言葉をいただきました。

 

しっかり懇ろにこの三日間、祖霊の御祭りが出来ていた家庭はよろしいですけれども、もし今年は少し疎かだったなぁという思いがあればですね、今後は祖霊の御祭りをちゃんとしていただけるとですね、お盆の期間中は非常に大切ですので、そのようにしていただけるといいかなぁというふうに思わせていただいております。

 

先にそういうことをお願いしまして、9月度のメシヤ講座の内容に入らせていただきます。

本日はですね、今お手元にお配りさせていただいていますように、御教えとしては『真の大乗宗教』と『浄化作用』ということでですね、『信仰の合理性と再浄化』、この御教えとですね、後一つ『苦集滅道 道法礼節』というのを載せています。

この『苦集滅道 道法礼節』というのは、仏教のことについて触れている御教えですけれども、今日はですね、メシヤ講座の骨子として庭山さんが編集してくれていますが、この中に仏教の大乗小乗についてある程度詳しく書いていただいていますので、そのことについて学ぶということもありまして、この『苦集滅道 道法礼節』という御教えも併せて今回掲載させていただきました。

 

それから、庭山さんの骨子に対してですね、代表からのメッセージもありまして、このメッセージも併せて付け加えさせていただきましたので、順次ですね、読みながら簡単に話をさせていただきたいと思いますので、よろしくお願い致します。

 

それでは、『真の大乗宗教』から拝読させていただきます。ここに「真の」という言葉がついていますけれども、それだけ大切でありまして・・・大乗を超えたところにある宗教ということでありますから、全てをですね、包含したといいますか、どちらにも偏らないんだけれども、大乗を主として小乗が従となるような、そういった宗教というふうな、そういった大きな意味合いがあります。

そういった意味合いで今回は学びをさせていただきます。それでは『真の大乗宗教』を読んでいきます。

 

支部長

拝読

 

『真の大乗宗教』

 

『宗教には大乗と小乗とあるのは一般に知られているが、これについて今までの宗教家や宗教学者が説く説は、甚だ曖昧杜撰極まるものであって、真諦に触れているものは殆んどないといってよかろう。従って私は茲に徹底的にかいてみようと思うのである。その前に先ず知っておかねばならない事は、世界に於ける凡ゆる宗教のあり方である。それは昔から開祖、教祖の説いた処を基本とし、その宗教独特の教化方法形式なども夫々具わっており、言わば色分けになっている。

早い話が世界的宗教としての仏教、キリスト教は固より、日本に於ける神道、仏教にしてもそうであり、然もその一宗一派の中にも分派があり、夫々の色分けになっているので、これ等を考えてみると、どうも根本的不合理を感ずる。というのは宗教なるものの本来である。言うまでもなく人間相互の親愛、平和協調精神が生命である以上、目標は一つであらねばならない。従ってその手段方法にしても色分け等ないのが本当ではなかろうか。それが別れ別れになっているとしたら、人類の思想もそれに伴なうのは勿論で、これが又社会混乱の原因ともなるであろう。』

 

支部長

『・・・人間相互の親愛、平和協調精神が生命である以上、目標は一つであらねばならない。』

 

とここにありますが、どういう目標かというとですね、神の存在を認識した、理解したですね、人間らしい人間づくりということではないでしょうか、要するに善人づくりということになってくると思います。そうしてそういう人達が住む世界、理想世界の建設という、そういうですね、目標が一つでなければならないと・・・それがですね、ずれているとですね、その宗教に影響を受ける人というのは、ここにもありますけれども「人類の思想もそれに伴なう」ということで、今まではどうしても夜の時代ですから、キリスト教であっても仏教であっても、キリスト教は大乗ですし仏教は小乗ですけど、どちらかについ偏ってしまう、そういうですね、人間の思考というものが大きく作用していましたけれども、メシヤ様の御教えというものは小乗も大乗も包含したですね、ここに「真の大乗宗教」というタイトルになっていますけれども、そういう位置付けにある教えですから・・・人間がですね、どちらにも偏らない、本当に伊都能売のような思想を持った人間として生まれることが出来るのですからね、そういった意味ではですね、御教えを力にして生活を組み立てていっていただくといいかなぁと思わせていただいております。それでは続けて読ませていただきます。

 

『然も宗教という善の側にある人の力は分散されるから、邪神の力に対抗する事も出来なくなる。これは事実を見ても分る如く、宗教よりもその反対側である邪悪の方の力が勝つ事が常にある。尤も神は十全、邪神は九分九厘であるから最後は神が勝つのは勿論だが、それだけ善の方の苦しみは並大抵ではない。これに就いて私の経験上そういう事がよくあった。それは邪神の勢力が旺盛で殆んど支配権を握っており、絶えず吾々に対し眼を光らし、隙あらば切り込んで来る、彼のキリストにサタン、釈迦に提婆の言い伝えは今も変りはないとさえ思われる。

斯うみてくると宗教は邪神以上の力を有たねばならない。それでなくては善の勝つ幸福な世にはなり得ないのである。そうなってこそ万教は帰一し、世界は打って一丸となり、茲に不安なき幸福な世界が実現するのである。併しそれは容易な業ではないが、不可能ではない。何故なれば主神の御目的たる地上天国は已に近寄りつつあるからである。その根本は勿論小乗を棄て、大乗精神が基本的条件となる事である。即ち地球上一切のもの、宗教、科学、政治、経済、芸術等悉くを包含された処の超文化運動であり、その指導的役割こそ超人的力と智慧とを有する巨人が出なければならない事である。』

[『栄光』242号 昭和29年1月6日]

 

支部長

ここで『万教は帰一し・・・』とありますね、これは「主神様に帰一して」ということだと思いますね。それから、『小乗を棄て、大乗精神が基本的条件となる』というふうにですね、再度、小乗を棄てるように訴えておられますので、自己本位の信仰とかですね、自分を主に考える考え方というものを捨てていくということでですね、自分自身を切り替えていかなくてはいけない・・・どこまでも利他愛の精神でやっていくということですね。

そして、愛情にもですね、小乗と大乗があります。それからまた、「善」ということについてもですね・・・これは今まで霊層階という学びから始まって毎月御教えを学んできましたけれども、この学びはずうっと繋がっております。そして、それぞれの霊層階の居場所によって考え方というのは違ってきます。

 

要するに、この辺りにいる人がですね、正しいと思っていることがですね、もう1~2段上の霊層階に上がって自分を見ると、その時の判断は間違っていたということになってくるので、その時々の階層によって、大乗と小乗というものが変わってきます。ですからどこまでもですね、霊層階を一段でも高い位置に行くように心掛けていかなくてはいけないという・・・この霊層階が全ての自分の生活を含め考え方を含め、全ての基準になっていきますので、そういった意味でもこれから五六七の世を作っていくですね、一番大きな鍵を握っていると思います。

 

ですから、その霊層階にある幽魂の位置を少しでも上げていくということが大切で、そのためにずうっと学びを継続しているということです。そしてその事が分かって、どのようにして幽魂を上げていけばいいのかという方法を我々は教えていただいていますから、この9月、10月というのはですね、一つ・・・6月15日に天照皇大御神をお出ししてですね、いよいよ地上天国を作っていく、来年の3月3日にはメシヤ様をお迎えするという、そういう環境の中で、やはり一人一人がですね・・・この度の祭典の前に少しお話したようにですね、霊界では総動員になって一人一人にお働きになるようですので・・・そうであればあるほど、浄化も厳しくなってですね、分かるような形になって…我々が分からなければ分からすような形になってくるのかもしれませんので・・・そういった意味では、『決心をする』という、「地上天国を建設する御用を担っていくことを決心する」・・・そういう9月、10月ではないのかなぁというふうに思わせていただきました。

 

その決心を今求められているのではないかなぁというふうにですね、思わせていただいておりますので、是非ともですね、自分の因縁使命というものを・・・そういった意味では来月もそれに関係した御教えの学びになって行きそうですので、是非とも自分の因縁使命を自覚してですね、この二度とないチャンスをですね、最大限生かしていただいて子々孫々に残るような徳をですね、積ませていただける大チャンスですから、是非共ですね、一緒になってやっていただければありがたいというふうに思います。

 

それでは引き続いてですね、「信仰の合理性と再浄化」・・・この浄化ということが火素が強くなればなるほど避けて通れなくなりますので・・・入れているものは出ますし、やったことは帰ってきますし、もう一度このことを認識してですね、今日から出発したいと思います。それでは読ませていただきます。

 

『信仰の合理性と再浄化』

 

『そもそも信仰の根本は、合理の二字にある事を忘れてはならない。いかに信仰上もっともらしい説を立てても、道理に合わないとしたら真の信仰とはいえないのである。この意味において神様というものは、理屈に合えば何程でも御守護があるが、理屈に合わなければいかに拝むとても、御守護はないのである。この点が最も肝腎であって、再浄化の意味もこれに外ならないのである。

散々医療を始めあらゆる療法を受けても治らない結核患者などが、浄霊によってたちまち治ったので喜んで入信することとなる。そして暫くしてから再浄化が起る人がよくあるが、これはどういう訳かというと、もちろん理屈に合っていないからである。すなわち医者から見放された病気が、神様の御蔭で治ったとしたら、神様から無い命を頂いた訳であるから、何程感謝してもし切れない程であるにかかわらず、中にはその当時の感激もいつか忘れて、最早治った以上それで済んだと思ってしまう。そうなると信仰前と同じでないまでも、感心出来ない生活態度となってしまうが、それで何事もなければ万々歳だが、どっこいそうはゆかない。というのは長い間散々薬毒を注ぎ込まれているため、健康恢復に伴い、溜りに溜っていた薬毒の排除作用が起る。これが再浄化である。しかしいつもいう通り右は体的面だけの事だが、実は霊的面の方に体的以上重要な問題があるのである。しかしこの事については今まで少しも知らしていなかったが、最早それが許されない時となったので、その根本をかくのである。

ではなぜ今まで知らせなかったかというと、未信者や新しい信者などには、誤解を招く懼(おそ)れがあるからで、出来るだけ言わないようにしていた。ところが段々浄化が強くなるにつれて再浄化の人も増える事になるから、ここにハッキリさせるのである。そもそも世の中の事は一切相応の理によって動き、道理に合うように出来ている。特に信仰にあってはそれが顕著である。彼(か)の釈尊のいわれた生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)とは、これを一言に喝破(かっぱ)したものであり、因果律(いんがりつ)とか因果応報などもその意味に外ならない。

これによっても分るごとく、死を覚悟し絶望的となった重病患者が全治したとしたら、何を措(お)いても力の限り、神様に御恩報じをするのが当然であり、これが合理であるにかかわらず、忘れるとしたら御蔭の取りっ放しであり、恩知らずもはなはだしいのである。この理を一層分り易くいってみると、例えば生命の価値を十とすれば、十の感謝ならプラスマイナスであるが、十以上であればその余分だけはプラスになり、神様はその何倍にも当る御恵みを下さるものである。それと反対に感謝が五とすれば、差引五だけマイナスとなるから神様への借金となる。そこで一日も早く御返しすればいいが、それを怠(おこた)るとすると利息が嵩(かさ)んで借金は増えてゆく。この点現界と少しも変りはないので、これも相応の理である。そこで借金が溜ってある程度を越えると、神権裁判所から督促(とくそく)や差押えが来る。これが再浄化であるから、それに気が付き心からお詫びをすると共に、元利合計御払いすれば助かるのは当然である。ところが中には飛んでもない考え違いを起す人がある。それは信仰で治ったと思ったのはヤハリ一時的で、本当に治ったのではないとして迷い始める。そこへ周囲の者などが、それ見た事かと言わんばかりにしきりに医療を勧めるので、ついその気になって医者へ行く事になるが、もうこうなったらお仕舞で、十人が十人悪化の一路を辿(たど)り、ついにあの世行となるのは常に経験するところである。ではそうなる原因はどこにあるかというと、霊界においては悪魔は人間の心の隙を狙いつめており、ちょっとでも油断があるとたちまち憑依し、その人をワヤにする。この点注意の上にも注意をしなければならないのである。

そうして感謝の誠を捧げる場合、仮に金銭にしても、多い少ないは問わない。分相応の最大限度であればいいのである。神様は何もかも御存知だから、無理をせずとも御許しになると共に、その上一人でも多くの人を救い信者を作ればなおさら結構であって、要は実行である。そのようにすべてが理屈に叶(かな)えば、まず再浄化は起らないはずで、たとえ起っても軽く済み、命に関わるような事は決してないのである。話は違うが世間多くの宗教の中には、御蔭を頂かない内から、これだけ献金すれば助かるなどといって、御礼の先取りをする事があるが、これなどは欺瞞(ぎまん)行為であるから、御利益のあろうはずはない。全く取次先生の考えが誤っているからである。そこへゆくと我救世教は御利益があってから分相応の感謝をすればいいので、至極合理的であるにかかわらず、それを怠(おこた)るとしたら、全く人間の方が間違っており、お気付けを頂くのは当然である。それでも気がつかないから命まで召上げられるので、どこまでも不合理は赦(ゆる)されないのである。今一つ肝腎な事は、神様が命を下さる御目的はその人を御神業に働かせるためであるから、それを覚って実行すれば健康は益々よくなり、幸福は何程でも恵まれるが、それを裏切るとしたらせっかくの救いを自分から拒否する訳である。』

[『栄光』210号、昭和28年5月27日]

 

支部長

『信仰の合理性と再浄化』という内容で、非常に大切な御教えですから、自分が今まで信仰してきてどうであったかということを一度考えてみていただけるといいかなぁと思います。それでこれからもこういう姿勢でですね、合理性ということを考えて物事を進めていただけるといいかなぁと思わせていただきました。

それから次の御教え『苦集滅道 道法礼節』、これは帰って読んでおいて下さい。話すことがたくさんあるので今回は飛ばします、時間がありませんので…。

 

それから4ページに移っていただいて、庭山さんの骨子の学びに入っていきます。それでは読ませていただきます。

 

平成29年メシヤ講座9月度の骨子         新潟出張所 庭山光太郎

 

テーマは「真の大乗宗教と浄化作用、再浄化に関する御教えを土台に骨子をまとめて」との要請が8月10日にあり、予定期限は10日後の20日との事。

少し漠然とし過ぎているので、「どうしてこういう課題になったの。」と菅谷氏にお伺いを立てた。菅谷氏曰く、「来月のメシヤ講座は『主神様とメシヤ様』のP.72の『真の大乗宗教』なので、浄化も厳しいから浄化作用、再浄化について書けないか。」という事らしい。「それは菅谷さんの方が適任ではないですか。」と振ったら、「いや、楽しみにしている人もいるんですよ。」と煽(おだ)てられ、“あな可笑し 豚も褒めりゃ 木に登る”で「あァ何て俺は人がいいのだろう、頼まれたら断ることが出来ない健気(けなげ)な豚ちゃんなんだなぁ」とつくづく思ってしまう。

さて、書くからには気合を入れて何とか間に合わせないと、後6日あるうち盆休みは実質1日だから日曜入れて丸々使える日は2日しかない。あとは神様にお願いして進めていく事にします。

 

平成29年7月16日の連絡事項に、「著述偏第7巻P.486『日と月』を軸に学びをして欲しい。」という箇所があり、

 

『自分達が神様と御縁があってこういう役割を得ているので、意識したかしないかは別として人類全体の事として日をお出ししたのだから、これからメシヤ様が仰っていた事がこれから現実に表面化してくる。』

 

『「日」が出たという事は、これからは実際にその力が強く自分達の世界に影響を及ぼして、自分も周囲も本当の意味での御教えに沿ったあり方にさせて頂けるのだという事を徹底させる一歩としてこの御教えを学んで欲しい。』とあり、

 

“実は先月末に伝わって来ていた内容では8月の学びは「小乗信仰」の予定でしたが、今回伝わって来た詳細を見ると変更されており、それまで伝わって来ていたものは白紙になっていました。”

 

とある事から、9月の学びが『真の大乗宗教』という事だから、その時に「大乗宗教」と「小乗信仰」を併せれば8月の小乗信仰は取り消されても構わないという事で白紙になったのではないかと思われる節がありまして、私がもたもたしていた為に、8月が総括になってしまい、ひと月繰り越されたのかも知れないのです。

然しこの連絡事項の前に‟浄化自体が報酬である。„という箇所があり、大乗宗教と小乗信仰と浄化作用・再浄化を書くには都合上ピタッと来るものがあり、「上手く出来ているなァ」と思わず感心してしまいました。

 

そこで「大乗宗教と小乗信仰」は「宗教と信仰」の異いはありますが、「大乗と小乗」の意味がはっきりすれば、おおよそ宗教も信仰も当て嵌める事は容易で、結果としては同じものと解釈してもいいのではないかと思われるので、「大乗と小乗」に就て書かせて頂けばいい事になるのではないかと思います。

 

大乗と小乗とは

 

そこでこの大乗と小乗とはどういうものかと言えば、仏教用語であり、仏教はキリスト教も含め御教えでは「夜の世界に於て悪のブレーキの役目としての存在」となっていますが、それは主神様の御経綸上からの解説であり、人間考えで及ぶ事が出来ないほどの、それこそ神的大乗的見方と言ってよく、人間サイドでは神仏による「人間の教育課程」ともいうべき役割を担ってできた宗教的教育体系と言えるのではないかと思うのです。勿論物質的学問体系に先行して出された教育課程ですから悪のブレーキ役というのは充分納得できるものです。

 

仏教の教育課程についての解説

 

先ず初頭の教育課程が「小乗」と言われ、この小乗には二つの過程があって、一つは「声聞乗」、もう一つは「縁覚乗」と言われている。

 

「小乗」に於ける「声聞乗」について

 

仏教の究極の目標は「涅槃(ねはん)」や「如来乗」と言われる安心立命の境地に至ることでその一歩が声聞乗であり、その最初に「苦・集・滅・道」という四諦を説き煩悩を断ち切らせる事から始まる。

 

支部長

ということで、この「声聞乗」の中には、苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)というふうにありまして、そのことについての詳しい説明が次にありますが、これは後で読んでおいて下さい。

それから次に、6ページに「三十七道品」について掲載していますがこれも読んでおいてくださいね。それで7ページに移りまして、その中段当りに小乗門の中のもう一つの「縁覚乗」について書いてありますので、そこから読ませていただきますね、

 

小乗に於ける縁覚乗

小乗門の第二は縁覚乗であるが、この縁覚乗の中心になるのは十二因縁を知る事である。そしてこの十二因縁とは声門乗の「四諦」の第一、第二、である、苦諦と集(原因)諦とを細別したもので、人間には「無明」・「行」・「識」・「名色」・「六処」・「触」・「受」・「愛」・「取」・「有」・「生」という11の「原因」で繋がる縁で、「老」・「死」・「愁」・「悲」・「苦」・「憂」・「悩)という結果を生じる。これが「十二因縁」であり、過去、現在、未来に繋がっていると覚るべきで、それには「八正道」、「三十七道品」を行って行けば、苦の世界は変じて楽の世界となり涅槃に到達できるという訳で、婆羅門行者が難行苦行を重ねて始めて涅槃に達すべきものと考えていたのに対し、釈尊は簡単な方法を教えられたのである。が、然し簡単といっても、それは当時の婆羅門の難行苦行と比較しての事であって、仲々大変である事は二千年以上経た今日でさえ、本当に苦を変じて楽となし、涅槃の境地に達した仏教信者が稀少である事実で判る筈である。

 

支部長

この「声聞乗」と「縁覚乗」、そして「菩薩乗」「如来乗」というふうに上がっていって悟りを得ていくというのが仏教の道なんですけれども、この「縁覚乗」についての詳しい説明はこの下に書かれていますが、これも後で読んでおいて下さいね。

それから9ページのですね、上から4行目の所、「仏教における大乗門に就て」ということで、今までのところは小乗門ということでしたが、ここに大乗門としての「菩薩乗」について書かれてあるので学んでいきたいと思います。

 

仏教における大乗門に就て

菩薩乗

私は前項で仏教における小乗門としての声門乗と縁覚乗について説明したが、これは何れも小乗道であって、極言すれば利己主義であり、救われたい主義という事になる。そこで本稿に於ては大乗道としての菩薩乗について説明するのであるが、これは小乗道に対して大乗道であって利他主義であり、救い度い主義という訳である。即ち利他行によって涅槃の境地に達するのが菩薩乗である。前項で簡単に述べたように小乗門の声門乗のためには苦・集・滅・道の四諦を説き、縁覚乗のためには十二因縁法を説いて涅槃に達するためには各々八正道・三十七道品を守る事を示されたのであるが、この大乗門たる菩薩乗を簡単に定義づければ「六波羅蜜を行じて四波羅蜜の義が具備して涅槃に到達する」と示されたのである。(※波羅密=完成・至る)

そこで大乗道の菩薩たるものは先ず六波羅蜜を行じなければならないが、この六波羅蜜は次の如くである。

 

支部長

ということで、六波羅蜜と四波羅蜜の詳しい説明はこの下にありますが、ここも飛ばしまして・・・次の10ページの中ほどのところに、大乗を越えたところの一乗門、「如来乗」のことについての説明がありますので読んでいきます。

 

仏教における一乗門について

如来乗

私は二回に亘って仏教における小乗門と大乗門について説明してその何れもが仏道の本義たる涅槃に到達する真の道ではなく、真の如き道であって、所謂「真如」の教えであったことを説き、本稿で説明する「如来乗」こそ真の教えであり、仏道の本義であることを知らせるのである。

如来乗とは諸仏如来の最高の教理であって前に述べた小乗門たる「声門乗」「縁覚乗」と大乗門である「菩薩乗」の三乗を超越して「如来乗」となるのである。その経理は釈尊の説法の最終段階の頃に説かれたものであって、「無行経」「瓔珞(ようらく)経」に説かれてある。即ち「瓔珞経」に〝大道に三乗なく、三乗は方便経にして応機の経なり〟とあるにみても肯けるのである。

「声門乗」「縁覚乗」「菩薩乗」の三乗を超越した「如来乗」こそ仏道の本義であって「如来乗」とは別の名を「一乗」とも「無上道」とも言って、この基礎になるものは人間の「心性」であり、この人間の「心性」は空寂にして無大、無小、無性、無滅、非住、非動、不進、不退で恰度「虚空」の如きものである。そしてこの「心性」は無相にして一切のものが平等大慧になるのである。仏道を一言にしていえば「如来乗」であり平等大慧の法であるとも言えよう。

 

支部長

ということなんですけど、その詳しい説明はこの下に書いてありますが、ここも飛ばさせていただきます。そして次の11ページのところの上から4段落目にですね、以上で「如来乗」の説明を終わるが、というところから読んでいきますね。

 

以上で「如来乗」の説明を終わるが、最後に釈尊の教えを纏めて初めから書いてみると、小我中心主義の人間に対して「四諦」「十二因縁法」を説き、大我中心主義の人間に対して「六波羅蜜」を説き、最後に右の教えは何れも方便であって、本物ではなく、本当は人間の「心性」は無差別平等であって、涅槃こそ人間の本質であることを開示されたのであるが、遺憾ながら最後の教えが不明であったために、人間は反ってその本質たる涅槃に迷う結果となったのである。法華経の常不軽菩薩品に曰く、〝声門を求むるものに応ずるに四諦を説き縁覚を求むるものに応ずるに十二因縁法をを説き、菩薩を求むるものに応ずるに六波羅蜜を説く〟とあり、また前に述べたように瓔珞経には〝大道に三乗なく三乗は方便経にして応機の経なり〟とて、これを捨てさせ、如来乗こそ一乗であり無上道であると解明されたのである。

 

吾々は仏道の本義を究めて如来乗に達することが出来て寔に有難いことではあるが、世の中は未だに小乗者の世界であるから、当分の間は大乗に下がり菩薩乗によって〝常に楽しく我を浄め〟てゆくことが神仏より与えられた使命と思うのである。

[光友紙17号 昭和39年2月15日より抜粋]

 

支部長

この中のですね、「吾々は仏道の本義を究めて如来乗に達することが出来て寔に有難いことではあるが」というのは、御教えを通してですね、こういうことをしなくてもですね、こういう「如来乗」に達することができるということだというふうに理解していただけるといいかなぁと思うのですけれども、そしてですね、「世の中は未だに小乗者の世界であるから、当分の間は大乗に下がり菩薩乗によって〝常に楽しく我を浄め〟てゆくことが神仏より与えられた使命と思うのである。」というふうにここには書かれておりますけれども、この部分が間違っております。そのことを代表から指摘いただいて庭山さんが「骨子補」を追加で書かれましたのでこの部分はこの後読ませていただきますが、その前に、この続きの部分として次に

 

以上で仏教の究極の知恵に至るまでの、つまり教育課程の解説は終わらせて頂いて、本来の課題に移行したい。

「大乗宗教」と「小乗宗教」とはどのように分けられるか。そして「真の大乗宗教」とはどのようなものかに就て「文明の創造」と「主神とメシヤ様」から追ってみようと思います。

 

「小乗宗教」と「大乗宗教」、そして「真の大乗宗教」

仏教とキリスト教との比較で言えば、仏教は小乗宗教でキリスト教は「大乗宗教」という事になる。

 

仏教は東洋で、『・・・東洋は経であるから霊的、精神的であるに対し、西洋は緯で体的物質的であるから、今日の如き科学文化が発達したのである。宗教に於いても仏教は経であるから、経文といって経の字を用いてをり、祖先を崇拝し、子孫を重視すると共に、孤立的であるに反し、キリスト教は祖先を祀らず、夫婦愛を基調とし、隣人愛を本義とし、どこまでも国際的緯の広がりである。・・・どうしても経緯両方が結ばれなければ完全な文化は生まれない筈である。としたらこの経緯両方が結ばれる時こそ問題であるが、驚くべしそれが今日であり、その力の行使こそ本教の使命であって・・・』

[『経と緯』(『文明の創造』P.354)]

 

という事はメシヤ教こそ「真の大乗宗教」という事が出来る。

キリスト教も少し関わっているが主に仏教

 

『・・・兎に角現在迄は善悪闘争時代が続いて来たのである。ところがそれ等善人の悩みを幾分でも緩和すべく、時々現れたのが彼の宗教的偉人で、その教えの建前としては物欲を制限し、諦観思想を本位とし、従順を教えると共に、将来に希望を持たせるべく地上天国、ミロクの世等の理想世界実現を予言した・・・』

[『天国建設の順序と悪の追放』(『文明の創造』P.28)]

 

『・・・此果てしない欲望即ち煩悩を抑えようとして修養する。それが兎も角今日迄人類社会は破滅を免れ得て来たのであるから、大いに感謝すべきである・・・』

[『精神病と癲癇』(『文明の創造』P.291)]

 

この2項は小乗宗教としての仏教の事で、

『・・・もし悪を無制限に許されたとしたら、社会はどうなったであろう。人間は安心して業務に従事し、平和な生活を営む事が出来ないで、遂には魔の世界となって了い、一切は崩壊するに決まっている。としたら或(あ)る時期までの統制も調節も必要となるので、その役目として生まれたものが宗教であり、その主役を担った者が彼のキリストである・・・』

[『善悪発生とキリスト教』(『文明の創造』P.347)]

は、キリスト教は大乗宗教と仰られている。

 

『・・・そうして今一つ忘れてならない事は、無神論と有神論である。之も実をいえば経綸上の深い意味のある事であって、それは若しも人類が最初から有神論のみであったとしたら、悪は発生せず闘争も起こらないから、それに満足し立派な平和郷となり、よしんば唯物科学が生まれたとしても発展性はないから、到底天国の要素たる文化的準備は出来なかったに違いない。処が無神的思想が蔓延(はびこ)った結果、形のみを主とする以上、今日見るが如き、絢爛たる物質文化が完成したのであるから、全く深遠なる神の意図でなくて何であろう。・・・愈々悪の発生源である無神論は、最早有害無用の存在となったのである。・・・その場合神業の妨害者は絶対的力によって生存を拒否されるからである。そうして神は無神論者を救う手段として採られたのが、神の実在を認識させる事であって、その方法こそ本教浄霊である・・・』

[『善悪発生とキリスト教』(『文明の創造』P.348)]

 

『・・・今後の時代は、悪は有害無益の存在となる以上、悪人は淘汰されて了ふのは当然な帰結である。之を一言にしていえば、進化の道程として動物と同様の人類が進化し、犯人半獣であった人間が、即ち外表は人間、内容は獣であった、その獣性を除去して全人間にするのが今や来たらんとする神意の発動であって、それに服従出来ない者が自然淘汰によって滅亡の運命となるのである。・・・滅亡の一歩手前に迄来ている悪人を悔改めしめ、犠牲者を少なくするその救いこそ、神の大愛である事を知らせるのが本教の大神命である・・・』

[『善悪発生とキリスト教』(『文明の創造』P.352)]

 

以上の事は『・・・大乗よりも一層大乗ともいうべきでもので、勿論前人未踏の説であって、文字や言葉での表現は寔(まこと)に困難である。従って兎も角現代人の頭脳で解し得る程度と共に、神から許されたる枠内だけの事を説くのである・・・』

[『善悪発生とキリスト教』(『文明の創造』P.345)]

 

というのですから、仏教の人間の教育課程も、キリスト教の大乗宗教を以てしても、結局は完全なる救いとはなり得なかったという事に尽きるのでありましょう。そして、他人事ではなく「真の大乗宗教」とは我々自身が荷なっている「メシヤ様の御教えである」自覚が何より必要でありましょう。

同P.338『仏教に於ける大乗小乗』では、『小乗は自力本位(禅宗・日蓮宗)』、『大乗は他力本位(上記以外の仏教)』との分け方をされていますが、禅宗・日蓮宗は難行苦行のバラモンの出自を高くて狭い故に小乗とされたものであろうと思われます。

 

最後に「主神とメシヤ様」の『真の大乗宗教』には

 

『・・・斯うみてくると宗教は邪神以上の力を有(も)たねばならない。それでなくては善の勝つ幸福な世にはなり得ないのである。そうなってこそ万教は帰一し、世界は打って一丸となり、茲(ここ)に不安なき幸福な世界が実現するのである。併しそれは容易な業ではないが、不可能ではない。何故なれば主神の御目的たる地上天国は已に近寄りつつあるからである。その根本は勿論小乗を棄て、大乗精神が基本的条件となる事である。即ち地球上一切のもの、宗教、科学、政治、経済、芸術等悉くを包含された処の超文化運動であり、その指導的役割こそ超人的力と知恵とを有する巨人が出なければならない事である・・・』

 

とあり、その巨人をお出しさせて頂けたのがこの6月15日であった。そして来年の3月3日こそ本格的にお出まし願うのであるから、それに向けて準備を怠らぬようにしなくてはならないと思うのです。ひしひしと身の引き締まる思いがします。

 

支部長

というふうに書かれていますが、この御教えを通してですね、この6月15日のこと、そして3月3日のことを自覚すればするほど、考えれば考えるほどですね、自分達のこれからの姿勢というものが問われてくるということをですね、庭山さんはここで訴えようとしているんではないかなぁと思いますので、皆さん方も、これを何度も読んでいただいて考えていただければなぁと思います。

それから後は飛ばします・・・飛ばしてですね、16ページを見て下さい。ここに「骨子補」を載せています、ここから代表が指摘された部分に入っていきます、この16ページの部分を読んでいきますと、

 

メシヤ講座 平成19年9月度の骨子 補      新潟出張所 庭山光太郎

(平成29年メシヤ講座9月度の骨子のご指摘の個所の見解)

 

今回の骨子の中で、「一点、参考資料として添えられた仏教の究極の知恵を説明している部分に、世界メシヤ教を復興する流れを阻害する処があるので、それを先に指摘して明確にしておかないと骨子を見る人に勘違いが起きる」とのご指摘を頂き、その一点は“仏教における一乗門について”の最後の節の

 

「世の中は未だに小乗者の世界であるから当分の間は大乗に下がり菩薩乗によって‟常に楽しく我を浄め„てゆくことが神仏より与えられた使命と思うのである」

 

の個所が‟如来乗に達することが出来て誠に有り難い„としておきながら、下がってしまったら結局は仏教でいう大乗に降りる(逆戻りする)訳で、大乗と小乗が結ばれる事なく相変わらず離れたままなので、例えば他を救う意味で御浄霊を御取次する等の事をしたとしても、この場合であればやはり仏教から脱却できていないので、本当のお力を頂くのは難しい(「そこで下がってどうするんだ!?」と仰っていました)。

 

更に大きな危懼として

 

「特に今は日の神様をお出しした後なのだから、どんどん現実を地上天国化するという“大きな欲”を持って他の人を救っていかなければならないのだから、そして自分も他人も天国の住人に相応しくなっていかなければいけないのだから、上記の内容だと矛盾が生じてしまう(主神様の大きな御意図を人間側がいつまでたっても感受出来ない事になってしまう。物事の意味付け・概念の書き換えがなされないので対立軸から離れられずに、その上にある第三の道が見えない)。」

 

「折角メシヤ様が仏教それぞれの論理を超越した教えで夜の時代に定義されたものを捨てさせて下さると言うのに、最後の最後に自分達人間がこれに疑問を抱かずにこの論理に嵌まってしまっては大変な事になる。」

 

「主神様の統一性・力は小乗も大乗も含んでいるのだから、離散して枝分かれしていった仏教の指すものを越えた位置にある主神様の御意図・お働きによって仏教の観点から脱却していかなければならない。」

 

「そういう意味でもこの上記の箇所はこれまでの我々が犯しやすい間違いをはっきりと見せてくれるものなので、この骨子にこの部分を載せたのは大変良い事だった。」

 

とありまして、これは相当に鋭い御指摘で、私もさすがに考え込まざるを得ませんでした。

 

小学校の教育課程が小乗の声聞乗としたら、中学は縁覚乗であり、高校は菩薩乗で、大学が如来乗であって、なかなか勉強が進まないなら、上級生が下級生を助けるという意味の「下座の業」位な意味でしかなく、その為に本来の力ある神様が観世音菩薩となって、釈迦牟尼如来や阿弥陀如来の下位に甘んじて教えを垂れ、三十三相のどんな階級の人にもそれに合わせて陰からのお救いに当たられたとしたら、もはや「下座の業」という言葉も「円転滑脱自由無礙」という言葉は死語になり兼ねない。

 

また私の父が入信して最初の御面会のお言葉が『あのな、人間というのは観音様のような人間にならなければいけないんだ。』と言われた事は何だったんだろうという事になりますが、反面『観音の 衣をかなぐり捨て給い メシヤとあるる大いなるとき』とお詠みになられた事を想えば、如来の下位の菩薩どころかキングオブキングになられた以上何時までも過去に拘(こだわ)っていては、メシヤ様にも申し訳ない事で、そういう仏教の郷愁もかなぐり捨てて現代に合わせなければならないとしたら、

 

「もちろん程度に差はあるとしても、現在もこの間違いが多くの人にもあるからこそ今まで世界メシヤ教は復興されないままでいるのだから、この箇所は大変貴重である。」

 

「だから今ここで世界メシヤ教を復興しようとする立場で書き換えるとすれば、「小乗者の世界であるからこそ、有難く大乗の道を進ませて頂くという意味を噛み締め、“常に楽しく我を浄め”てゆくことが神より与えられた使命と思うのである。」が今という時期に合うのではないか(仏教の枠を越えて小乗者の世界をも肯定。ただし神様の力があってこそ肯定出来る)」という事は現実味を増す。つまり‟最早車も自動運転に切り替わろうとする時代に、牛っ車や籠を持って来てどうするんだ„という事に等しい。」

 

兎に角私としては世界メシヤ教復興という大使命を反故にするようなつもりで9月の骨子を書かせて頂いたつもりなど一切なく、『観音の 化佛の御名に長き世を 救わせ給いし神ぞ尊き』で、来年の3月3日には「夜の世界でのお救いにも感謝の御礼を言わなければならないかなぁ」位なつもりで書かせて頂いたものである。

 

それが『観音の 慈悲とは善悪無差別に 救わせ給う事にぞありける』の御詠も、もはや善悪無差別の救いではなく、善と悪の建て別けに入ったんだという事への認識をしなければならない時期に突入したんだという意識に切り替わらなければならない事を示唆されたのであろうと思えばこれまたそれなりに意義があったのかと感謝させて頂かねばならない事である。

 

支部長

このように整理されて書かれておりますので、ご理解いただけると思いますが、最後の2行はまた大切な部分でもありまして、もう既に建て別けに入ったんだという認識を持って、自分の甘えをですね、取っていくというふうにしていかなくちゃですね、転換できませんからね。是非とも、少しでも自分に厳しくなっていただいて、そして貪欲にご守護いただくことが出来るようにお祈りしながらですね、自分の生活を組み立てていただければいいかなぁというふうに思います。

それから18ページに入っていただいて、ここからが代表からのメッセージの部分になります。

代表の言葉をそのまま掲載させていただきましたので、読ませていただきます。

 

骨子に関して代表からのメッセージ

 

・庭山さん、本領発揮している(「だからやっぱりこれはあなたの仕事なんだよ。」と楳木先生が仰っていました)。

・庭山さんが考えて結論を書いた部分が的を射ていた。

・“真の大乗宗教”だけでなく浄化に関する観点からの見解も要求されて、さぞかし大変だったと思う。

・けれども、纏めの為だと思うけれど種々漁っているうちに(庭山さんご自身に)長年解けなかった疑問が明確になったサプライズが起きた事自体が、真の大乗とは何か、こういうものなんだというものを見事に体現していると言えるのではないだろうか。

・多くの人間それぞれに合った形で見えなかった真理という一つのものに収束させていく力そのものがなければ“真の大乗宗教”とは言えない。

・力が人間をあるべき姿に変えて下さる。

・大乗とは他力と言われているが、結局は“力”という一言に尽き、仏教の様に現状にアプローチせずに人間に備わっている欲の方を操作して諦めるという事は必要ない。

・メシヤ様の教えは副守護神の働きを否定せず、必要であるときちんと認めている。

・自分は助かりたい、楽しくありたいという本音はあって良い(無くならない)

・やはり人間は誰もが本音は天国の住人になりたいのだから。

・その本音(欲)を否定したら、いつまで経っても地上天国は建設されない。

・だってそうでしょう。自分達を考えれば一番分かると思うけれど、自分達が前に所属していた教団で納得出来なかったから今ここにいるのでしょう?

・良くなりたい、本物に触れたいという欲が自分達を引っ張って、今いる場所に連れてきてくれたのでしょう?

・だから現状をなんとかしたいという欲が(は)なくてはいけない。

・そういう意味で仏教と真の大乗宗教は前提となるものが違うのであって、真の大乗宗教を仏教に当てはめて考えるのは実際不可能である(枠外に出てしまうので、その枠から出ない限り理解不能になる。骨子の (本当は人間の「心性」は無差別平等であって、涅槃こそ人間の本質であることを開示されたのであるが、遺憾ながら最後の教えが不明であったために、人間は反ってその本質たる涅槃に迷う結果となったのである。) という部分がそれを示しているとの事です)。

・しかし不可能と言っても真の大乗宗教は仏教より断然大きいので、仏教で言われている細々とした条件を越えてしまい、結果としてその条件を満たしてしまう(超越している)。

・人間の欲を否定せず(自分は救われたい)、その上で他人を幸福にする(であるならばまずは他人を良くする為に動く)という法則を教え、それを行う方法を教え、実行する道具を与え、現実に作用する。

・そうすると現実に作用する力そのものが働き、人間を真理に到達させてくれる。

・それが報酬である浄化。

・浄化後は霊籍が向上しているのだから。

・それで人間性が練られてものが良く分かる様になり、いつの間にか他人を良くする事

自体が楽しいという本物の善人となる。

・だから霊層界の御教えが基礎で、この事がきちんと整理されていないと真の大乗宗教と浄化との関連性は掴めない(学びの時間を無為に費やしてしまう)。

・人間の逃れられない現実として霊層界のどこかに自分がいるというのがあるわけで、その霊層界の約束事が相手を救えば自分が救われるとなっているのだから。

 

支部長

と言われております。今回、「真の大乗宗教」と「浄化作用」を取り上げた意味というのもこの辺りのお言葉から理解していただきたいと思いますし・・・霊層界を上げる、一段一段霊層界を上げていく約束事というのは、人を救わなかったら上がらないというふうになっているということですね。だからこそ、みんな一人でも多くの方を救おうと努力しているわけですけれども・・・そのことをよく腹に落としてくれとおっしゃっていると思います。

 

・だから主神様の御意図、現実を変える力が現れるというのは本当にありがたい事で、地上天国建設の時期が来た、そしてそこに自分がいるというのは理解が進めば進む程勇気付けられるのではないだろうか。

 

支部長

こういうお言葉を通して、今という時期に、信者でいるということへの感謝というものが沸いてこなくちゃいけないと思いますが、如何でしょうか。

 

・結局は真の大乗宗教とは主神様の力であり知恵。

・こういう事で、この庭山さんの話は本当に良かった。

・しかし一点、参考資料として添えられた仏教の究極の知恵を説明している部分に、世界メシヤ教を復興する流れを阻害するところがあるので、それを先に指摘して明確にしておかないと骨子を見る人に勘違いが起きる。

 

…という事が伝えられましたので、したにその箇所を記しておきます。

 

支部長

ということでですね、先ほどの庭山さんの「骨子補」を読んだということです。そして19ページの代表のメッセージはそのことについての説明をされておられますが、この部分は皆さんまた読んでおいて下さい。それから20ページの中段のところ、8月25日の代表からのメッセージですけれども、これは「骨子補」を受けての代表のメッセージですので、ここだけ読ませていただきます。

 

(8月25日 PM4:22)※楳木先生からのお返事です。

・自動運転とは本当に上手く表現したなと思う(確かに仏教の郷愁はないよね…と仰っていました)。

・小乗門だと三十七道品まで自分の力でたどり着かなくてはならない。

・バラモン教よりははるかに楽だけれども、これもまた物凄い苦労と時間がかかる。

・自分の中の観察・分析に時間も労力も費やしている分、そこまでいくのも大変。

・夜の時代だから、これしか出来ない。

・けれど昼の時代は浄霊が出来る訳で、浄霊を受けるとダイレクトに魂を包んでいる曇り自体を取られてしまうのだから、その結果ものが良く見える様になって、気付いたら勝手に三十七道品内の八正道として認知されている様な道を進んでいたという感じになる。

・今回の話題の説明として敢えて言うと、薬が悪だとメシヤ様が仰っているんだから、「苦・集・滅・道」の集諦で言う原因ははっきりしている訳だし、それを浄霊で取ってしまえば滅諦で言う不明が明になってしまうのだし、そうすれば勝手に道諦に乗ってしまうし何よりも苦自体が消滅するのだから最初の苦諦に時間を割く必要がない。

・そういう意味で諦めが基本の仏教をメシヤ様の教え・力は超越しているので、前提となるものが違うというのが分かると思う。

・自分が苦しいのを自分と苦を分けて諦めようとしても、やっぱり苦しいものは苦しいに決まっているんだから、他人の苦しみを取り除いてあげられる道具を手にしているならそれを使わない手はないでしょう?

・しかもそういう力である御浄霊をお取り次ぎするというのは大変な功徳を施している事になり、またそれによって自分の霊籍を向上させて頂けるのだから、自分が大変な施しを受けている事にもなる(大乗門でもあり小乗門でもある)。

・今の時代とにかく忙しいのだから、いちいち自分の中を観察している時間はない。

・仏教にありがちなのは、その観察自体が娯楽になってしまっている事。

・この忙しい時代に仏教に精通したとしてもただの娯楽に浸って何もしなければそれは罪になる。

・他人を助ける大乗門に入るのを怠っている事になる。

・浄霊できちんと浄まってしまえばそこも見えてくるのだから、自然と大乗門に入ってしまう。

・浄霊がどの神様から来ている力なのかを考えれば、納得出来るのではないか。

 

・そして全ての相反する力を結ぶ神からもたらされる知恵・力があってはじめて到達させて頂けるものが如来乗に相当するものであって、人間単独の努力では不可能である。

・結ぶのは主神様のお力だから(御教えにあるカ、ミで神だというのはそういう事)。

・結んだものが御神意であり力なんだから。

・全ての根元である唯一の主神様だからこそあらゆるものを結んで帰一させられるのであって、作られた側は常にその御意図に沿って動くのみである。

・天津金木の上に向かって立っているのが縦(霊)、四方向に広がっているのが横(体)で縦と横を一つに結ぶ力、そして結ばれた縦横両方の動き、それが神様の表れなんだから御神体とされていたのもこれで分かると思う。

・だから最高神との霊線を太くしなければならない。

・結んで下さる霊体一致した神様から垂れられるお力によって見えた御神意・得た知恵が如来乗に相当するもの。

・だからそこまで行くと善と悪が紙一重に見える事がある(五六七→十八、六六六→十八)。

・神の善と人間の善は違う。

・そういう意味では少しドライな面もあるが、だからこそ主神様の教えは西洋的でもあり、世界を救う事が出来る。

・とは言え善と悪が同じ様に見えても基本人間は霊層界にいるから、自分本位であれば抹消させられてしまうものなんだから、どうやっても善が勝つ仕組みになっている(心配いらない)。

・そこで神意を捉えた上でそれを地上に出現させる方法として人間が観音様の働きをして進めていかなくてはいけない。

・伊都能売神の横(体)が観音であるから、人間を通して観音が現れなければならない。

・伊都能売神のお働きが裁きと救い両方で、人間は裁きは許されていないが救いの部分で動く事が出来る。

・神がお出ましになっての観音行というのは神意が人間界に表れたものだから、如来乗の体が菩薩乗と考えれば、折角如来乗にありながら大乗門にさがってしまうと菩薩乗は本来のものにはならず、落第してしまう。

・人間一人一人それぞれ特徴や癖、個性があるので、一人一人の苦の原因がどこにあるのかを見抜いて世界中の人間それぞれにとって一番適した形で救いの業を展開していくというのは大変な高等技術であり、全てを併せ持ち統合するお働きである神様からの御知恵がなくては観音様の様にはなれない。

・観音様の位が菩薩となっている為に低いなと惑わされてしまうが、この高等技術を展開していったのは縦横・日月両方併せ持っていた伊都能売神の横である観音様なのだから、円転滑脱融通無碍というのは宇宙規模の高さや幅の広さ、奥行きがあり、その中で自由に、かつデタラメではなくきちんと法に則った行を実行していくのであるから大変難しいものである。

・大きな御神意を汲み取り、そういう仕事をこれから人間がさせて頂かなければいけないのだから、毎日礼拝して最高神と霊線を太くしなければ出来ないでしょ?

・善言讃詞にある「吾等が日々の施業にも」からの後半部分と御神名、惟神霊幸倍坐せ迄をよく確認して見るとより納得出来ると思う。

・そしてそれらが「神格をいただく道」なんだと誰でも分かると思う。

・これでガッテンして頂けましたでしょうか?(最後にこれを付け加えて欲しいと仰っておりましたので…)

 

楳木先生からの回答は以上です。

 

支部長

最後のところは代表らしいですよね。(笑)ここまで詳しく解説したのでみんなも分かってくれたかなという代表の思いが、この言葉に凝縮されているんじゃないですかね。

十分に理解してもらって、自分達の言葉や行動に表してほしいという、強いメッセージだと思いますので・・・これを一回読んだだけでは分からないと思いますので、帰って何回も何回も読んでいただいて自分の信仰の力にしていただきたいと思います。

これで本日のメシヤ講座を終わらせていただきます。質問もあるでしょうが、それはこの後の直会で聞いて下さいね、本日はありがとうございました。

 

 

追記として、この度拝読しなかった御教え

 

『苦集滅道道法礼節』

 

『右の題目は、もちろん仏語(ぶつご)であるが、この意味は現在においてもよく当はまるから、それを解説してみよう。苦集滅道(くじゅうめつどう)とは読んで字のごとく、苦が集まる、すなわち苦しみが多いと道が失われるという、人間誰しも苦しみが余り多いと自暴自棄になるばかりか背に腹は変えられない式で、道に外れる事をするようになるものである、よくいわれる事だが、泥棒にも二種類あって、本当にズルイ奴と、貧に迫って悪いと知りつつも、苦し紛れにやる者とがある。また闇の女でもそんな事をせずともよいのに、好んでする者と、切羽(せっぱ)詰(つま)って嫌々やるものとの二種があるのも同じである。

この弱点を利用して宣伝するのが、彼の共産主義である。従って政治の理想としては、困る者、苦しむ者を作らないようにする、それが犯罪を減らし、社会の秩序を保つ上に、最も根本方策である。恒産あれば恒心ありという言葉も、よくそれを表わしている。本教の理想である病貧争を無くすという事も、それ以外の何物でもない、としたら何よりもまず健康が原(もと)であるから、健康人を増やす事こそ問題解決の鍵である。

次の道法礼節であるがこの事も現代によく当はまっている、道法とはいうまでもなく道であり法であって、道とは道理に叶う事で、道理に外れるために人間同士の悶着(もんちゃく)や、家庭の不和、社会秩序の紊乱(びんらん)となるのである、法とは人間が作った法律のみではなく、神の律法もあってこれは目には見えないが、絶対犯す事が出来ない、人間諸々(もろもろ)の災は、ことごとく神の律法を犯すための刑罰である事を知らねばならない、実はこの刑罰こそ人間の法律よりも恐ろしいと共に、絶対免れる事は出来ないのである。もちろん、死刑もあるのであって、それが災害による死、病死等すべて神律を犯したための刑罰死である。そうしてあらゆる物にも法がある。すなわち法とは一切の規準であり、秩序である。判り易く言えば、人間の為(な)すべき事、考うべき事はチャンと決っておって、例えば政治家は政治家、教育家は教育家、宗教家は宗教家、芸術家は芸術家、官吏でも、商人でも、医者でも、男でも、女でも、いかなる人間でも、為すべき事、為すべからざる事は、一定の法則があり、それを守る事によって順調にゆき、栄えるのである。昔から法(のり)を越えるなというのもその意味である。

次の礼節、であるが、これこそ現代人には最も適切な言葉である、特にこの点昔の人よりも大いに低下している、私は日々多くの人に会うが、真に礼節を弁(わきま)えているものは十人に一人もないといってよかろう、しかし何と言っても信者諸君は一般人とは区別がつく程よいには良いが、ただ信者同士接触の場合、まだ物足りない点が見えるので、今一層向上して貰いたいのである。

しかし現在のような煩雑(はんざつ)な社会生活では、思う通りの礼儀は行われないから、ある程度は致し方がないとしても、注意すべきは民主主義の履き違いから、若い人達には、上、中、下、無差別式の考え方の者がよくあるが、これは困ったものである。なるほど昔のような士農工商的の差別主義も間違っているが、今のような悪平等的行過ぎも間違っている。特に遺憾でならないのは学校教育のやり方である。余りに自由主義のため、放縦に流れ、師弟の差別さえないのをよく見受けるが、この点教師たる人も大いに考慮の余地があろう。もちろん昔の軍隊式も困るが今のズンダラでも困るのである、要は偏(かたよ)らないでよく程を守り、中性が肝腎で、教育の方針もここにもってゆかなければならない事は言うまでもない、礼節という意味はそれであって、既に古人が喝破(かっぱ)しているのであるから、現代人としてもそれに愧(は)じないようにすべきである。』

[『栄光』102号、昭和26年5月2日発行]

 

[メシヤ講座no.198 岡山支部 2017(平成29)年9月8日]

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